第2話 冬月夕も憑かれやすい
霊に憑かれやすい私、冬月夜(ふゆつき よる)の悩みは、霊感ゼロの祓い屋、神月樹(かみつき いつき)の協力により、狐の怪異、管狐(くだきつね)を捕まえることで解決した。体力減少の問題を解決し、いつもの日常が戻ってくると思ったけれど、そうではなかった。
日常が変わったことは、2つある。1つ目はクダちゃんだ。私が疲れやすくなった原因は、先祖が竹筒に封印した霊獣、管狐のクダちゃんが私の願いを叶えたためだった。クダちゃんを使役できるようになった私だけど、クダちゃんを竹筒に戻す方法は分からない。ずっと外にいるのだ。
「クダちゃん、おいで」
私が呼ぶと、クダちゃんは、どこからとなくトントンと足音が聞こえて姿を現し、私の膝や肩に乗る。白い小さな狐、円らな瞳が可愛らしい。驚いたのは、クダちゃんがご飯もねだることだ。ずっと竹筒に封印されていて、願いを叶える時も私の生気を吸っていたから、直接ご飯を食べてエネルギーを吸収することはないと思っていたけれど。
◇
「霊獣の気まぐれだな」
樹が言っていた。神の使いとなった霊獣は、何も食べる必要はないという。ただ、願いを叶えるには、対価として人間や動物の生気を吸い取る必要がある。お供え物を摂取することもあるけれど、ご飯をねだり、食物から養分を摂取するのは稀有だという。油揚げが好きなのは狐霊だからだろうか。というわけで、私たちは、クダちゃんという霊獣と共存して生活していたのだった。
2つ目は、樹だ。管狐の一件で私は、祓い屋の樹に報酬として御飯を約束した。あれから二日経過した今日も、樹は、この家で夕と一緒に料理して過ごしていた。
もしかしたら、解呪後の経過を見てくれているのかもしれない。アフターサービス、なのかな?
◇
「おはよう、お姉ちゃん。朝ごはん作ってるよ」
妹の夕が台所から声をかける。かつお出汁の美味しそうな香りが鼻先をくすぐる。
「おはようさん」
続けて話しかけて来たのは、夕と並ぶ樹だった。樹、冬月家に溶け込みすぎているよ。
「うん、おはよう」
夕が嬉しそうに、出来上がった料理を食卓に運ぶ。
「これは?」
炊き立てのご飯と出し汁の入った鍋、わさびが並べられた。お茶漬けにも見えるけど……。
「うずめめしだよ」
夕が、嬉しそうに笑顔をして言った。
「うずめめし?」
思わず訊き返す。聞いたことのない料理だ。
「島根県の郷土料理だ。ご飯に出汁をかけて、わさびを添えて食べてみて」
樹も嬉しそうな表情で解説する。怪異の問題解決以来、夕と樹のこんな場面をよく見る。
◇
「出汁をかけるのね」
ご飯は、つやつやで美味しそうだけど他には何もなさそう。出汁に秘密があるのかな。二人がわくわくした様子で見つめる中、私は、ごはんにそっと出汁をかけ、わさびをのせる。そして一口食べた。
「美味しいっ」
濃い目の出汁に、炊き立てご飯が良く合って、ワサビの香りも嬉しい。
「驚くのはまだ早いよ」
夕が、待ちきれない様子で私を見ている。もう一度、茶碗を見て驚いた。ご飯の下から、高野豆腐に人参、ゴボウや椎茸、油揚げなどの具材が現れたからだ。
「ごはんの下に具材が埋もれているから、うずめ飯だよ」
これは、嬉しい朝ごはんね。すっかり仲良くなった樹との共同生活、正直、こんな日常が続くと良いな……なんて思ってしまうけれど、もちろんそんな訳はなく。
「じゃあ、そろそろかな」
話を切り出したのは、樹だった。
◇
「そろそろって?」
夕は、新たな日課となったクダちゃんへ油揚げをあげながら訊ねる。
「うん。狐霊も落ち着いているようだし、そろそろ帰ろうかと」
樹が、そう切り出した。
「え、樹。帰っちゃうの?」
夕が驚いたような声をあげる。夕は、このままずっと樹と暮らすつもりだったのだろうか。
「夕。樹は、祓い屋さんの仕事があるんだよ?」
私がなだめるように言うと夕は、首を横に振り、
「やだ。樹、帰らないで。もっと料理教えて」
懇願するように樹の袖を掴んだ。
「そうしたいところだけど、次の案件に向かわないといけないんだ。もしまた何か問題があったら呼んでくれ」
樹の身体に夕がしがみついている。夕は、どうしても樹を帰したくないみたい。
◇
「今後は、どうやって連絡したらいいの?」
私も立ち上がり、夕がぴったりと貼り付いている樹に近づく。
「そうだな。例の神社まで来てもいいが、緊急という場合もあるか」
樹が何か考えるような仕草をして答える。夕も、樹の真似をして考えるフリをしていた。本当に仲良くなってる。
「うん。携帯の連絡先を教えてもらえると助かるけど」
私は、携帯を取り出しながら訊ねると、
「そういうものは持っていない」
樹が時代錯誤な回答をした。
「持ってないの? 祓い屋稼業の依頼はどうやって受けてるの?」
私が疑問に思ったことを訊ねる。
「基本、お得意様か、悩みごとを抱えて神社に来る者が相手だからね。あんたもそうなった」
そういうものなのかな。樹を呼ぶには神社に行くしかないのか。そう考えていると、樹が口許に手を当てて、
「1つ、方法がある」
思いついたように手を打った。夕が興味深そうに樹を見つめている。
「方法?」
「うん。髪の毛を1本くれ」
私の問いに、樹が意味不明な回答をした。連絡手段と髪の毛が結び付かない。
◇
「髪の毛?」
私は、訳も分からず樹の言葉を繰り返す。
「嫌なら、別でもいいけど」
樹が私の疑問を意に介さず、淡々と話す。別の……何かってこと?
「ううん。髪の毛でいいけど、これが何になるの?」
私は、自分の髪を触りながら訊ねる。
「媒介があればクダを通じて連絡できるはずだ。1本でいい」
樹が不思議な言葉を重ねながら、私の髪の毛を求める。私は、頷くと黒い髪の毛を1本抜き、それを樹に差し出した。ちょっと恥ずかしい。
「ありがとう」
樹は、和紙を取り出して私の髪を包むと、器用にくるくると巻いて紐状にして、首から下げている櫛に結び付けた。
その瞬間、樹の表情がわずかに険しくなった。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない。あんたの霊力が不安定なようだが、クダを通して体力を得れば落ち着くだろう」
樹は、そう言って微笑んだ。彼のその言葉に、私は安堵した。
あの櫛は、憑き物を寄せ付けない樹が霊感を補うために使っているものだ。私にかかった呪いを引き受けてくれた時も使っていた。クダちゃんの呪術を行使するには、櫛を通す必要があるのだろう。
◇
「これでクダを通して俺を呼べば声が伝わる。送信専用だが呼び出しはできるはずだ」
そんなこともできるのね。
「夕のは、いらないの?」
夕が自分の黒髪をつまみながら訊ねる。
「これはクダを使った音声伝達だからね。管狐を使役する霊能力者にしか使えないんだ」
樹が優しく夕に伝える。
「夕は、樹を呼べないの?」
夕が寂しそうな表情をする。
「呼びたいときは、お姉ちゃんに頼んでくれ」
樹が夕の頭を撫でてそう言うと、夕の表情が笑顔に変わる。
「分かった、そうするの」
夕は、納得したように樹を見つめ、こくりと頷いた。微笑ましい様子を見ながら私は、夕が夜ご飯の献立に迷った時に樹を呼び出そうとするんじゃないかと心配した。
◇
「呼び出し方法は、メモに書いておいた。一応注意だが、メモは、クダを使役するあんただけが見るようにしてくれ」
樹は、和紙を折り畳んだメモを私に渡す。
「いいなぁ」
羨ましそうにメモを見つめる夕に樹は、別のメモを夕に手渡した。
「これは?」
夕が首を傾げると樹は、笑顔して人差し指を上げた。
「鍋料理のレシピ、オススメのものを書いた」
夕の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとう!」
夕は満面の笑みで答えた。樹、用意がいい。こういう気配りができるのっていいよね。なんていうか、優しいし。なんだか胸の奥が温かくなる。
「名残惜しいかもしれないが、そろそろ次の仕事に向かうよ」
樹は、荷物袋を持ち上げる。夕もやっと納得したのか樹を見送る。
「うん、本当にありがとう」
「樹兄ちゃん大好き、またすぐ来てねっ」
夕の、樹兄ちゃんという呼び方に、樹は一瞬、驚いたような表情をしたが、こちらに背を向けて手を振った。
◇
「お姉ちゃん。今日、これ作ってみたいの」
樹が帰って数日後、夕が私にレシピを見せる。
「雪見鍋?」
夏に食べる鍋は好きだけど、雪見とはどういうことだろう。
「豆腐と大根が中心のお鍋で、きのこ類をアレンジして足すのね」
私は、材料のメモを見ながら確認する。
「うん。あと、お揚げも欲しいの」
夕が嬉しそうな表情で答えた。
「お揚げ?」
それはレシピには書いてなかったけれど。
「うん。アレンジというか追加で好きなものを増やしてって書いてあるの」
夕は、笑顔でそう言った。
「あれ、夕、お揚げ好きだったっけ?」
私が少し首を傾げて確認する。
「うん。前から好きなの。クダちゃんも喜ぶし」
そういうことか。昨日食べた常夜鍋という豚肉とほうれん草の鍋にもお揚げが入っていた。
「じゃあ、買ってくるね」
「うん。お願いっ」
私は、夕とクダちゃんに留守番をお願いして買い物に出掛ける。管狐を使役できたおかげで、私が体力を必要とする時に、十分に使えるようになった。夕が料理を頑張ってくれる時間には、体力を夕に渡す。そういう融通が利くようになったんだ。
町に向かい、雪見鍋の材料に、追加の豆腐と油揚げを購入する。樹のレシピのおかげで、毎日の楽しみが増えていた。しかし、新たな異変は密やかに近づいていた。
◇
帰宅した時、夕とクダちゃんが庭から家に入る様子が見える。夕が家の外に出ることはあまりない……疑問に思って庭を見ると、庭の一角に不自然な穴が空いていた。中には、何も入っていないみたいだけど、夕が穴を掘ったのかな? 首を傾げながら家に入った。
「ただいま」
「おかえりっ」
トコトコと夕がクダちゃんを連れて廊下を歩いてくる。今日は、まだ体力を渡していないけれど夕は、調子が良いようだ。
「ねぇ、夕。さっきお庭に出てた?」
私は、疑問に思ったことを訊ねる。
「ううん。ずっと、お家にいたの」
夕は、首を横に振って答えた。気のせいだったのかもしれない。私は、買ってきた荷物を夕に手渡す。
「お姉ちゃん。今日は調子良いから、クダちゃんの力はいらないの」
私から荷物を受け取った夕は、待ちきれない様子でトコトコと廊下を歩いて台所へ向かう。
「夕、無理しちゃダメだよ」
「うん、大丈夫」
本当に調子が良いようだ。
◇
台所から良い香りが漂ってきた。これは、昆布出汁のいい香り。
「できたよっ」
夕の嬉しそうな声を聞いた私は、夕と一緒に料理を食卓へと運んだ。料理を運びながら私は驚いた。雪見鍋の他に夕は、田楽も作っていたから。
「美味しいっ」
雪見鍋とは、大根おろしと豆腐のお鍋で、雪が積もったように見えるから雪見鍋という。豆腐の旨味と、煮ることで甘みが増した大根おろしの味わいを楽しむ鍋だ。意外だったのは、もう1品のほうだ。
「田楽? 珍しいね」
串に刺したあぶった豆腐に田楽味噌の甘いタレが塗ってある。これも美味しい。
「珍しい? これも大好きだよ」
夕は、嬉しそうに豆腐田楽に口をつけた。あれ、そうだったかな? 夕が田楽を食べたところ、見たことなかったけれど……。
「これも樹のレシピに?」
「ううん、これは食べたくなっただけなの」
夕が田楽を食べているところを、見たことはなかったけど。まぁ、いいか。こんなことは、異変の範疇ではない。しかし、私が気づいていないだけで、兆候は始まっていた。
◇
「ごちそうさま。今日も美味しいご飯、ありがとう。後片付けは、私がするね」
夕にお礼を言って立ち上がると、夕が私のTシャツを引っ張る。
ん?
「大丈夫、今日は後片付けも夕がやるの。調子良いから」
今日は、夕の体力が充実しているようだ。それは、もちろん嬉しいことだけど。
「夕、元気なのは嬉しいけど、ムリしないで」
私は、夕の双眼を見つめる。
「大丈夫、本当に元気だから」
夕は、ぎゅっと拳を握って見せた。そして、
「もう元気になったの。大丈夫になったなの。……だからさ」
台所へ歩きながら夕が口を開くと、
「また跳んでよ、お姉ちゃん」
背を向けたままそう言った。
「跳ぶ?」
思わず言葉をそのまま返してしまう。
「うん。辞めちゃったんでしょ、部活」
夕が背を向けたまま立ち止まる。
◇
夕の言う通り、私は、体力を失ったことをきっかけに陸上部を辞めていた。病院にも通っていたが、どこかでもう治らないと感じていたからだった。
「クダちゃんを使役できたから、もう呪いは解けたんだよね。だったら、また昔みたいに跳べるはずなの」
振り向いた夕は、笑顔だった。だけどその瞳は潤んでいた。そうか。夕は、そんなことを考えて……。
「そうだね、少しずつ、戻してみようかな」
私がそう伝えると夕は、嬉しそうに、こくりと頷いた。また跳んでみたいという想いは残っている。夕の応援が嬉しい。夕が私のために、元気になった様子を見せようとしている。私の生気を吸収しなくても大丈夫だと伝えている。夕の優しい気持ちに応えたい。
夏休みが明けたら部活復帰しようかな。そう考えた時だった。台所に向かう夕がふらふらとバランスを崩した。
「夕っ」
私は、急いで駆けつけて夕の身体を支える。
「あれ、おかしいな」
夕が虚ろな瞳でそう言った。
「すぐ休もう」
私は、夕を優しく抱く。
「おかしいな、まだ大丈夫なはずなのに……」
そう言って夕は、目を閉じた。大丈夫なはず?
◇
夕を抱え、ベッドへ運んで寝かせる。体温に異常はないが呼吸が浅く、速くなっている。
「クダちゃんっ」
管狐を呼び寄せて私の生気を夕に送る。白くなっていた夕の肌に色味が帯びてくる。
「っく……」
生気を送った反動で眩暈(めまい)がしたけれど、これくらいは大丈夫だ。夕が無事であることが大切だ。血色の良くなった夕の額をそっと撫でた。
「ねぇ、今日、クダちゃんと寝ていい?」
2時間後、目を覚ました夕が私にお願いした。無理をしすぎたと反省した夕だけど、元気を取り戻してベッドの上でクダちゃんを撫でている。
「いいよ。遊ばないですぐ寝るならね」
私がそう言うと夕は、喜んでクダちゃんを抱きしめる。
「ちゃんと寝るんだよ」
「お姉ちゃん」
部屋を出ようとした私を夕が呼び止め、
「あたし、もっと強くなりたいの」
寂しそうな表情でそう言った。
「夕、私は、いつも夕に支えられてるんだよ」
それは本心だった。私は、夕の頭を撫でてから部屋を出る。夕は、私の体力を受け取って生きることを負い目に感じている。だから無理してでも気丈に振る舞った。私にまた跳んで欲しいと願ったんだ。負い目に感じる必要なんてないのに。しかし、私の想いと裏腹に事件が起きてしまう。
◇
深夜、様子を見ようと夕の部屋へ向かった私は、驚いた。夕は、部屋にいなかった。ベッドに寝ていたはずの夕とクダちゃんの姿が、部屋から消えていたのだ。
「夕っ?」
慌ててリビングや台所にトイレ、お風呂場など探すが、夕の姿はどこにも見当たらない。
どこへ行ったの?
体調を崩して休んでいたはずの夕、家出なんてする子じゃないけれど嫌な予感がした。クダちゃんを通じて体力を渡したけど、また生気が切れてしまうかもしれない。どこかで倒れているかもしれない。
早く夕を見つけないと……。
「夕、どこにいるの!」
家中に響きそうな声で彼女を呼ぶが反応がない。深夜だ。かくれんぼとか、そんなことをするとも考えられない。
「まさか、外に?」
私は、靴を履いて庭へ出る。庭に夕が立っていた。
「夕っ?」
夕の姿を見た私は、驚いた。クダちゃんと庭に立つ夕は、昼間掘った穴を前に何かひとり言を呟いている。穴に向かって白い煙のような魂にも見える何かが集まっている。まるでクダちゃんが、夕の命令を受けて儀式をしているかのように。いつもの愛らしい夕とはまるで別人、まるで神聖な儀式を執り行う巫女のようだった。
一体、何をしているの?
◇
「昨日のじゃ足りなかったの。もっとたくさん集めないと」
夕は、クダちゃんに話しかける。
足りなかった? 何が?
「夕、何を?」
私が夕に近づくと夕は、驚いた様子もなく、
「お姉ちゃん? なんでもないの」
淡々とした口調でそう答えた。夕は、表情なく、掘った穴に集まる霊気をじっと見つめている。なんでもない? そんなはずはない。
「夕、寝てなきゃダメでしょ。というか、これはなに?」
私の言葉に夕は反応しない。どうしてしまったのだろう。普通じゃないことは明らかだ。
「夕っ」
私が夕の腕を掴むと夕は、それを振り払う。
え? 力強く払われた。
「なんでもないの」
低い声でそう言った夕は、霊気を溜めた穴の中に右腕を入れる。
「なんでもなくないよ、何をしているの!」
私は、声を上げながら近づこうとすると、
「じゃまをしないで欲しいの」
私の声を遮る。穴に入れた右腕を通じて夕の身体が、霊気に包まれる。
◇
一体何の儀式なの? というか夕がまるで別人みたいに見える。おかしい。間違いなくおかしなことが目の前で起きている。
「まだ、足りないの」
夕は、白い光に包まれながらそう言った。何を言っているの?
「夕っ」
私が再び夕の身体に触れようとすると、
「えっ?」
強い反発力を受けて身体が飛ばされる。庭の隅から跳ね飛ばされた私は、そのまま意識が遠くなる。虚ろに見える景色の向こうで夕は、霊気を身体に吸収しているかのように立っていた。
何を……集めているの?
◇
気がつくと私は、自分のベッドで寝ていた。あれは夢だった? そんなはずない。私は、跳び起きると部屋を出た。しかし数秒後、狐につままれたように、呆気に取られてしまう。
「お姉ちゃん、おはよう」
台所から話しかけてきたのは、いつも通りの夕だったから。
「夕?」
私は、いつもと違わず朝ごはんを作る夕の姿を見て面食らってしまう。
「どうしたの。お姉ちゃん」
てきぱきと料理を進める夕の所作に違和感はない。でもそれがおかしい。何が何だか分からなくなるのを抑えて頭を整理しなければならない。
「夕、大丈夫?」
私は、夕を心配して訊ねる。
「うん。クダちゃんと一緒だったから、ぐっすり眠れたの」
ん?
夕の言動がおかしい。まるで深夜に行っていた怪しい儀式などなかったかのように訊こえてしまう。
「夕、昨日、夜中に庭に出たでしょ?」
私は、自分の記憶との食い違いを指摘する。
◇
「ううん。昨日はクダちゃんといっぱい寝たの」
夕は、ご飯の炊きあがりを確認しながら答える。
「深夜に起きて、庭でクダちゃんと儀式みたいなことをしていたよね」
私は追及をやめない。夕は確かに庭にいたはずだし、庭に掘った穴に霊気を集める儀式をしていた。
「してないの」
夕は、真剣な表情で訴える。私は、夕とクダちゃんの儀式を確かに見ていた。それとも本当に夢だったのか。頭が混乱しそうになる。
◇
「ご飯できたよ」
夕は、私の話を切り上げて、出来上がった朝食を食卓へ運び始めた。
「今日の朝ごはんは、しじみ飯なの」
夕は、しじみの炊き込みご飯としじみの赤だしをテーブルに並べた。
「しじみを昆布出汁で煮てから、ご飯と一緒に炊いているの。赤だしは、しじみを味噌汁にしていてお揚げもたくさん。早起きできたから、ちょっと準備のいるメニューができたの」
早起きというのが気にかかったが、夕が私たちの健康を想って一生懸命に作ってくれた朝ごはんだ。その温かい気持ちだけで活力がでる。やっぱり、あれは夢だったのかもしれない。夕は、しっかりとクダちゃんと一緒に眠って回復に努めてくれたんだ。こんな良い子が、嘘をつくはずがない。私の不安な気持ちが、あるはずない夢を見せてしまったんだ。
◇
「お姉ちゃん、あたし、頑張って元気になるから、二人で幸せになりたいの」
夕が真剣な表情でそう言った。
「うん。しじみ飯、とても美味しいよ。私も夕が元気でいてくれると、幸せだよ」
私も夕の目を見つめて返す。
「ねぇ、今日もクダちゃんと寝てもいい?」
夕は、クダちゃんに油揚げを渡しながら訊ねる。すっかりクダちゃんは夕に懐いていた。
「ん、いいけど」
私は、一瞬だけ考えてから承諾した。
「やった。クダちゃんと寝ると、ぐっすり眠れるから、今日みたいに朝から調子がよくなるの」
夕は、ぱっと明るい笑顔をして答える。
「調子よくても無理しちゃダメだよ」
一応、注意は加えておく。
◇
「うん。昨日みたいに倒れたら大変だから、気をつけるの」
夕は、また真剣な表情で答えた。そして、
「早起きしたからかな。ご飯食べたばっかりなのに眠くなっちゃったの」
小さくあくびをした。
「身体に優しい朝ごはんを作ってくれたからね。休んだら?」
私は、夕の頭を撫でる。
「うん。そうするの。あ、ええと……」
夕がおねだりをするような表情で、私とクダちゃんを順に見た。クダちゃんと一緒に寝たいということだろう。
「いいよ」
「ありがとうなの」
夕は、嬉しそうにクダちゃんを連れて部屋へ戻る。
「大丈夫、だよね」
夕とクダちゃんが去ったあと、私は、一人ごちた。
◇
夕とクダちゃんが近づくことを警戒していた。昨日の出来事が夢なら問題ないはずだけど。問題ないはずだけど、この胸騒ぎは何だろう。夢で見た庭の穴は、どうなっているのだろう。夕とクダちゃんが儀式を行ったのが現実なら、儀式の痕跡が何か見つかるかもしれない。
庭の隅へ向かい、夕とクダちゃんが儀式を行った穴に近づく。すると、周囲の空気が緊張するのを感じた。私の霊媒体質が何かに反応している。嫌な予感がした。
何かある?
注視すると白い霊気が僅かに漂っている。昨日、夕が集めた霊気がまだ残っているのかもしれない。穴を覗き込んだ瞬間、私は驚いた。クダちゃんより小さな、鼠くらいの大きさの白い狐が一匹、穴の中で霊気をかじっていた。
小さな狐霊? クダちゃんとは違う。
でもこれも実体のない霊獣だ。この子は一体、何?
◇
「キキッ?」
小さな狐霊は、私に視られていると気づくと跳び跳ねて逃げ出した。素早い足取りで駆ける先は、夕の部屋の方角だ。夕の部屋へ逃げこんだ?
私は、確信する。昨夜、ここで見た夕とクダちゃんの儀式は、夢じゃなかった。夕は、ここで霊気を集めていた。小さな狐霊もクダちゃんの仲間かもしれない。夕に訊いても答えてくれないだろう。というか本当に覚えていないようだ。
『妹さんに異変が起きたら、すぐ連絡くれ』
私は、樹がくれたメモの内容を思い出した。樹に相談しよう。伝達方法は、確か……。
『あんたがクダを通して俺を呼べば、声が伝わる』
クダちゃんを通してというのは、クダちゃんに触れて呼びかけること。クダちゃんは、今、夕と一緒に眠っている。夕の部屋へ行って呼ばないといけない。
「夕、起きてる?」
夕の部屋の前で声をかけたが返事がない。クダちゃんは、夕と一緒に部屋の中にいるはずだ。夕には悪いけれど私は、勝手に夕の部屋のドアを開けてそっと入る。
◇
夕はベッドでぐっすりと眠っていた。隣にクダちゃんが丸くなっている。クダちゃんは、起きていて円らな瞳でこちらを見ていた。さっきの小さな狐霊はいないみたい。
クダちゃんを通して、樹に連絡しよう。クダちゃんに触れようと右手を伸ばす。その瞬間だった。夕の身体から強い霊的な反発を感じる。
え?
「勝手に触らないで」
人が変わったように低い声で夕が言う。
「夕、起きてたの?」
私は、驚いて夕を見る。横たわったまま、だけどいつもの夕とは違う、冷たい目をしていた。
「触らないで」
夕が繰り返し、私は、クダちゃんに触れていた右手を離す。
「ごめんね。クダちゃんにお願いしたいことがあるから……」
私は、冷たい目をする夕に説明する。
「クダを使役するのは、あたしなの」
え?
クダちゃんは、私が使役しているはずで、夕にも懐いているけれど使役はしていない。
「夕?」
私は、混乱しながら夕を呼ぶ。
「あたしが使役するって言ったの」
夕は、表情なく淡々と言葉を紡ぐ。
◇
「何言っているの、クダちゃんは……」
「気安く名前を呼ぶのをやめて、自分を犠牲にすることしかできないくせに」
夕が厳しい表情に変わり、語気を強める。
「ちょっと夕、どうしたの? 様子がおかしいよ」
私は、夕の身体に触れようとすると夕は、それも拒絶するように離れる。
「あたしに任せてくれればいいの。あたしがなんとかするから。お姉ちゃんは、何もしなくていいの。自分のしたいことに集中していればいいの。心配しなくていいの。もう大人しくしてて。もう、……来ないで!」
夕が叫んだ瞬間、夕の身体から十匹以上の小さな狐霊たちが跳び出した。
「きゃあああああっ」
狐霊たちは、私に向かって跳びかかってきた。
◇
気がつくと私は、自分のベッドで寝ていた。あの時と同じだ。庭で夕を見つけた時も、さっきも小さな狐霊に私は襲われた。夕を守る狐霊たちは、私に危害を加えようとはしていない。邪魔をするなと警告しているだけだ。夕がクダちゃんにお願いしていると考えた方がいい。夕がどうやってクダちゃんを使役できるようになったのか分からない。
霊獣を使役するには強い霊力で屈服させる必要がある。夕にも強い霊力があるの? とにかく普通じゃない。再び廊下を歩いて夕の部屋へ向かった私は、さらに驚いた。
「えっ?」
夕の部屋のドア前に、廊下をびっしり埋め尽くすように小さな狐霊たちが整列していたからだ。その数、数十匹はいる。もう隠れてない。隠そうともしていない。夕からの『近づくな』という強いメッセージを感じる。私を夕から遠ざけようとする意思を感じる。夕がこの狐霊たちを全てを使役しているの?
大量の狐霊たちを使役して隊列を組ませた防衛ライン、夕にもクダちゃんにも近づくことができない。つまり、樹に連絡できない。
『お姉ちゃんは、何もしなくていいの』
『もう、大人しくしてて』
夕の言葉を思い出す。私は、夕に起きた問題を解決したいと考えた。だけど、それを彼女は望んでいない。
◇
小さな狐霊たちを操る夕、それが正常なことなんて思えない。危険しか感じられない。だけど夕は、この問題を解決して欲しくない。
だめだ。私は、お姉ちゃんだ。
私は、いつの間にか溢れ出していた涙を拭っていた。夕を守りたい。これ以上、夕に危険なことをさせたくない。私は、狐霊たちを睨みつける。あの一群に立ち向かうには……。私が一歩廊下を前に進むと、小さな狐霊たちが一斉にこちらを注視するのが分かる。
強力な警戒態勢、抜け道なんか見つからない。何か、打開策があるとすれば……。
「小さな狐霊による防衛。
あれも、クダちゃんの力なのかな……」
「いや、あれは管狐じゃない」
私のひとり言に、樹の声が答えた。
え?
廊下を振り返ると後ろに樹が立っていた。
「嘘……。いつからいたの!?」
私は、樹に大きな声を上げる。
「あんたが一人で泣き出したあたりじゃないか。
櫛に結びつけた髪の毛が、危険を知らせていた。霊気の乱れがどんどんひどくなったから戻ってきたんだよ」
「え……どういうこと?」
「櫛は霊媒の役割を果たす。あんたの髪の毛を介して、霊力の状態を遠隔でも把握できる。君と夕の二つの霊力が共鳴して、不安定になっていると気づいたんだ」
デリカシーの欠片もない発言を樹が返した。でも、そんなことはどうでもよかった。どうでもよくなるくらい、嬉しかったから。
結局、涙が溢れてしまう。
「樹、ありがとう。もう、私一人では、どうすればいいか分からなかったから」
私は、今度は嬉し涙を拭う。
◇
「この状況で助かったと思っているのか? どうするかはあんたが決めるんだぞ」
樹は、いつもの通り、自分のスタンスを説明する。そうだ。問題をどう解決したいかは人任せにはできない、私が決めなければいけない。
「うん」
私は、しっかりと頷いて応えた。
「で、どうするんだい?」
「あの狐霊たちを追い払って、夕の部屋へ行きたいの」
私は、自分の意思をそのまま伝える。
「わかった」
樹は、緊急のためか契約条件は告げずに請け負ってくれた。あとでどんな食事を求められても対応しよう。
「俺は、狐霊たちを追い払って部屋までの道を開ける。あとは、あんたがやるんだ」
樹は、自分の役割を告げる。
「うん」
私は、しっかり頷いて応えた。樹は、左手で櫛を握り廊下を歩く。数十匹の狐霊を意に介していないように。樹でも、あの隊列を崩すのは難しそうだけど……。
「キキッ」
「キーーッ!」
狐霊たちが最終警告のように吠える。樹は、歩みを止めない。すると、前衛にいた小狐霊が樹の身体を目掛けて突進する。私は、これを受けて突き飛ばされたんだ。
「キキッ?」
しかし、狐霊の突進は樹の身体をすり抜けてしまう。
「霊の攻撃は、俺には通用しない」
そうか。樹は、霊に憑かれない。狐霊たちの攻撃は樹に通用しないんだ。
◇
樹は、狐霊たちの攻撃を受けずに中へ進み、慌てた狐霊たちの隊列が崩れてゆく。
「反対にこちらは、狐を捕まえることもできる」
「キキッ!?」
樹は、大群の中から一匹の狐を掴み上げる。憑かれない特性を活かして霊の攻撃をかわし、櫛の力を使って霊を捕まえている。
「キーーッ!」
樹に捕まった狐霊が苦しそうな声を上げた。
「可哀そう」
私は、思わず感じたままを言葉にしてしまう。
「攻撃しなくてもいいけど、追い払えないぞ」
樹が困惑した表情で私を見る。
うう……。そうだよね。
「じゃあ、多少はやっちゃってください」
追い払うためには、多少は怖がらせないといけないよね。
「そうこなくちゃな」
樹は、右手に霊力を充填する。
◇
私がクダちゃんを捕まえたときのそれよりずっと大きい。右拳に纏った霊力の球を、樹は、ハンマーのようにぶんぶんと振り回す。あれで殴られたら小さな狐霊は、ひとたまりもないかもしれない。狐霊を消失させても構わない、そういう覚悟が感じ取れた。
しかし……。
ヒュンという風切音が鳴り、樹は、三匹の狐霊による突進をすり抜けを使わずにかわす。三匹は、それぞれ小石を持っていた。
「ポルターガイストを起こせるのか。動物霊にしては賢いな」
樹は、右手に霊力を纏わせたままそう言った。狐霊たちが箒(ほうき)や、バケツなど廊下にあったものを持ち上げようとしている。霊的な攻撃は樹には通用しない、だから狐霊たちは、現実世界にある物質を操って攻撃しようとしている。
でも、ポルターガイストってそういうものだったの?
◇
ポルターガイスト現象って霊によって物が動いたり、音を立てたりする現象のことだよね。確かに、動物霊が物を運んでいるけど。
「その分、持ち前のスピードを失っている。そんな遅い攻撃は当たらない」
樹は、狐霊たちの物理攻撃を素早い身のこなしでかわしてゆく。身のこなしも一流なんだ、そう思った直後だった。
「危ないっ」
私は、狐霊たちの数匹が必死に天井の一部を剥がそうとしているのを見て言った。
ガオン!
「ぐっ」
樹の頭に、剥がれた天井の一部が衝突する。樹は、そのまま仰向けに倒れてしまった。
え?
唐突のノックアウトである。
「樹っ!?」
私は、樹のもとへ駆けつけようとするが、狐霊たちにけん制されて近づけない。
「まずいな、やつの気配が消える……」
やつ?
樹が目を閉じると狐霊たちの姿が一斉にいなくなった。それはもう、私たちを警戒していないということかもしれない。
すると、ドアが開く音がする。
「あれ、樹お兄ちゃん?」
ドアを開けて夕が現れた。
「どうしたの? 樹お兄ちゃんっ」
夕は、廊下で起きたことに気づいていないようだ。狐霊たちが戦ったことすら気づいてない。いつにないほどに血色、顔色の良い夕だった。どういうことなんだろう。
◇
「良い材料があるんだ」
頭に、こぶのできた樹を治療した私達は、再会を喜んでいた。私も樹も夕の行動を不審に思ったが、核心には触れず一旦様子を見ている。どうやら樹は、私の声を訊いて助けに来たわけではなく、鍋料理に使える良い材料を手に入れたから、一緒に食べようと偶然訪れたようだ。
「これもアフターサービスの一環だ」
私の心の声を察したのか、樹がフォローする。
「よし、一緒に作ろうか」
樹が笑顔で私たちに話す。
「うんっ」
満面の笑みで夕は、こくりと頷いて返事をする。さっきの冷たい様子の夕とは別人だった。狐に取り憑かれた、その表現がもっとも当てはまるのかもしれない。
「私も手伝わせて」
私がそう言うと樹は、頷いて持って来た大きなクーラーボックスを開ける。すると食材の山が見えてきた。
◇
「どうしたの、こんなすごい食材?」
私は、驚いて樹に訊ねる。
「ああ、別の案件でクライアントから依頼料として貰ったんだ。一人では食べきれないと思って持ってきた。大きな水蛸にヒラマサだ。どれも取れたてで新鮮だ」
樹は、クーラーボックス内の食材を指差しながら説明する。蛸も魚もかなり大きい。
「これで何を作るの?」
夕は、目をキラキラと輝かせながら訊ねる。
「海鮮しゃぶしゃぶだよ」
樹は、右手の人差し指を立てながら、私たちに作り方を説明した。魚を美味しくする出汁は夕が会得している。私は、食材を切る手伝い。野菜類をピーラーで薄く切るのは簡単だけど、蛸やヒラマサとなると……。
「なるべく大きく、少し厚目に切ってくれ。しゃぶしゃぶの場合は、その方がいい」
こんな立派な食材だし、普段見ない大きさで切ることができるもんね。
「普段やりたくなったら、刺身用でなくサクで買ってきて、自分で切るといい」
こんな贅沢、普段からやるかな? 夕が一生懸命にメモを取っているから、やりそうだけど。
◇
海鮮鍋用の出汁に、蛸、ヒラマサのお刺身、さらに白菜や椎茸などの具材が並んでいる。つけダレには、ポン酢やたっぷりの大根おろしが待ち構えている。
「蛸からいこう。出汁だけでシンプルに旨い」
しゃぶしゃぶすると白身魚のような淡白な甘みを感じる。それに魚に合う出汁の意味がよく分かる。
「次はヒラマサ。鰤御三家とも言われていて冬に旬を迎える鰤と違い、夏にも食べられる」
ヒラマサは、樹の言ったように鰤に近い味だ。鍋の味がどんどん美味しくなっている。一緒に煮ていた白菜や豆腐の味もたまらない。私たちは、美味しい海鮮しゃぶしゃぶを堪能し、締めのうどんも食べて、お腹いっぱいになっていた。
「残った出汁は、明日の朝ごはんにも使える。雑炊だよ」
樹がさらなる工夫を提案する。
「すごい。それで締めがうどんだったの」
夕は、すぐにそれに反応して喜ぶ。
「旨味の溶け込んだ出汁、2回は楽しまないともったいないからな」
本当に美味しかった。すると、お腹がいっぱいになった夕があくびをする。
◇
「夕、もう眠くなっちゃった?」
私が夕に訊ねると、
「うん。でもまだお片付けしてない」
夕は、俯いて応える。
「いいよ。私がやっておくから。夕は、もう休みなさい」
すると夕は、何かをねだるような表情をする。
「お姉ちゃん、また、クダちゃんと寝てもいい?」
目で確認すると樹は、首を縦に振る。夕とクダちゃんを近づけてもいいってことね。
「いいよ」
「ありがとう」
夕は、嬉しそうにクダちゃんを連れて部屋へ戻った。移動した夕の後をそっと追うと、また狐霊たちの隊列が部屋の前に構成されていた。
「夕食後、部屋のまわりを見たけど狐霊はいなかった」
樹の言葉は、夕が部屋に戻った直後に隊列ができたことを示していた。
◇
「オサキ?」
神棚のある和室で私は、聞き慣れない名称を樹から訊いた。
「ああ。小さな狐の霊獣、尾先(おさき)。尾の先と書いてオサキと読む」
尾の先?
「九尾狐の金毛から生まれたという伝承もある。尾の先から生まれたから尾先というわけだ。ハツカネズミくらいに小さくて身のこなしが早く、群れをなして行動する」
樹は、霊獣尾先の伝承について説明した。
「そして特徴だが、この霊獣は家に憑く」
「家に憑く?」
「そう。妹ちゃんが憑かれたというよりは、もともと家に憑いていた霊獣と考えた方がいい。言い方を変えると、この家が狐憑き、狐筋(きつねすじ)の家系であることは、間違いない」
狐筋? はじめて訊いた言葉だった。
「狐筋……というのは?」
「憑きもの筋という言葉を訊いたことはないか?
日本だと狐の他に四国の犬神(いぬがみ)、東北の飯綱(いずな)が有名だ。家に代々受け継がれ、憑きものを使役したと言う。他人の財産を奪い、病にかけることもできたため、呪われた一族のように、遠ざけられることもある」
樹の説明を訊いてどきりとした。私の家系が狐霊を祭る、憑きもの筋だったなんて。両親は、このことを知っていたのだろうか。
◇
深夜。寝つけずにいた私は、ベッドから起き上がる。夏でもこの時間になると、蒸し暑さが吹き飛んだように涼しく感じる。澄んだ空気と真っ暗な夜空に、白い月が浮かんでいた。私は、小さく息を吐くと庭の見える縁側へと歩いた。
「樹?」
樹が縁側に座り、月を眺めていた。右手には、霊媒の役割を果たす櫛が握られていた。
「決心できたのか?」
近づく私に樹は、月を見上げたまま、私に背を向けたまま訊ねる。
「うん」
私は、頷いて応える。白い仄かな光に照らされた彼の姿は、綺麗だった。何度も助けてくれた彼の優しさを感じ、それだけじゃない感情も芽生え始めている。
「ねぇ、その櫛って、どういうものなの?」
私は、自然に樹の隣に座って訊ねた。
「これは、俺にない霊媒能力を補ってくれるものだ」
樹は、月明かりに櫛を照らして答える。
「できれば、その、樹のこと、もっと教えてくれると嬉しい」
私は、踏み込んだ質問をする。訊いてはいけないことかもしれない。いつだって樹は、自分のことを話さない。怪異や鍋料理については雄弁に語るけれど。
◇
沈黙が流れた。
「どうして気になるんだ?」
樹が口を開いた。それは質問に対する質問だった。
「樹がその櫛を見る瞳が、いつもとちょっと違うような、特別な気がしたから」
私は、取り繕わずに思ったままを伝える。
「そうか」
答える樹の口許が緩んだように見えた。そして、続けて口を開く。
「これは、姉ちゃんの櫛なんだ」
樹のお姉さん? 私の反応を見た樹は、頷いてさらに続ける。
「俺の姉ちゃんは、俺が7歳の時に攫(さら)われた」
衝撃的な話だった。
「攫われた? 誘拐されたの?」
私は、語気を強めてしまう。
「少し違う。攫ったのは神だ。神隠しというのが分かり易いだろうな。姉ちゃんは3つ上だから、まだ十歳だった」
頭が混乱しそうになる。だってそんな……。
「神隠しなんてない。そう思うか?」
私が考えていたことを樹が継いで話した。
◇
「俺も一緒に連れ去られそうになったが、姉ちゃんが庇ってくれた。現世に戻った俺は、霊力と姉ちゃんの2つを失った」
樹も神隠しに遭っているんだ。お姉さんが助けてくれたんだ。
「残されたのは、姉ちゃんに渡された櫛だけ。櫛は、月光に当てると霊力を回復する。それは、まだ櫛と姉ちゃんが繋がっている証拠だ」
樹は、真剣な表情で櫛を見つめる。
「当時、俺も姉ちゃんも強い霊力を持っていた。いや、姉ちゃんは俺とは比べ物にならないくらい強かった。そのせいで普段から視えざるものが視えていた。視えることは安全じゃない。だから遭ってしまったんだ。ものまよいの怪異に」
樹は、目を閉じる。
「ものまよい?」
訊いたことのない名前だった。
◇
「姉ちゃんを連れ去った怪異の正体だ。ものまよいに捕まった俺を助けるために、姉ちゃんは自分の霊力を櫛に込めて脱出させた。姉ちゃんは、自分を犠牲にして俺を守ってくれたんだ」
再び目を開いた樹は、櫛を月明かりにかざす。そして続けた。
「物が迷うと書く名前の神隠しだ。だが、隠された人間を救う方法が1つだけある」
神隠しに遭った人間を救う方法があるの?
「ものまよいに攫われた人間は、自分が一番大切にしていた物を、落とした物を取りに現世に戻るんだ。神隠しにあった時間にね。だからこうして、月夜の晩は、姉ちゃんを攫ったものまよいが現れるのを待っているんだよ」
樹は、そう言って首にかけた櫛を胸元に戻す。
そうだったのか。樹は、幼い頃に姉を怪異に攫われたんだ。櫛は、樹にない霊媒能力を補うための道具じゃない。怪異に攫われたお姉さんと樹をつなぐ唯一の鍵だった。樹は、何年も経った今も、神隠しに遭ってしまったお姉さんを探し続けている。
◇
「何であんたが泣いてるんだ?」
気がつくと私は、涙を流していた。
「う、うん。でも……」
「同情する必要はない。俺は、必ず姉ちゃんを取り戻す」
「うん、そうだよね」
樹から、強い意志を感じた。樹は強い。私も、強い意志を持って貫かないと。同時に、もう一つの感情が心の奥底から湧き上がっていた。
それは失われた記憶。私も昔、誰かを失った悲しみを覚えたことがある。でも、それが誰だったか思い出せない。
あの日、あの時も、私は、泣いていた。かけがいのない人を失って泣き続けた。まだ幼い頃の記憶、どうしてこんなに大切なことが思い出せないのだろう。
いけない、今起きている現実に目を向けなければ……。私は、ぱんと自分の頬を叩いた。これは陸上の大会前にもやっていた気合入れだ。
「樹のこと話してくれてありがとう。なんだか、すごく、樹を近くに感じられるようになったよ」
私は、涙を拭って笑顔でそう言った。
「そうか」
樹は、真っ直ぐに私の目を見て応じた。
◇
「思い出したよ。一番古い、はっきりとした夕の記憶を」
私も樹を真っ直ぐに見つめて、続ける。
「記憶は、この庭。私は6歳くらい。庭に迷い込んだ犬が来て、まだ3歳だった夕がとても怖がったの。私は、木の枝を持って犬を追い払ったの。 それが、夕と私の一番古い記憶だよ」
私は、記憶の中にあった一番古い夕との思い出を樹に話した。
「そうか。はっきりと妹ちゃんの姿を思い出せるか?」
「うん」
私は、強い意思で答える。
「分かった。決めたんだよな?」
樹が立ち上がって訊ねる。
「うん。霊獣オサキを鎮める」
私も立ち上がり、拳を強く握って応えた。
「そうか」
「私が夕を守る。夕は嫌がるかもしれないけれど、これは、お姉ちゃんとしての我儘だから。どちらが正しいとかそういうことじゃない」
樹の目を真っ直ぐに見て自分の意思を伝えた。もう迷わない。私は、夕を助けるんだ。これ以上、夕に危険なことをさせない。通すよ、私の我儘を。
◇
「今から行くの?」
私は、夕の部屋へ歩き出した樹に確認する。
「ああ、オサキは夜行性だ。クダのように隠れ場所の決まってないオサキは、表に出ている時でないと鎮められない」
樹は、狐霊が活動中の夜中に決着をつけるという。判断の速さに驚いた。機会を逸してはいけないということだろう。
夕の部屋へと続く廊下に、オサキの群れが隊列を構成して待っていた。絶対に、私を夕の元へ近づけさせない。強い意思を感じる。
「オサキは狐霊の群れだが、群れを統率するボスが一匹いる。そいつを見つけ出すんだ」
樹が作戦を説明する。
「特徴はあるの?」
「普通のオサキは白い体毛に覆われている。それに対して、群れを指揮する統制オサキは、金色の体毛が混ざっているんだ」
「混ざっている、全身が金色というわけじゃないのね」
あの大群からそれを見つけるのは、簡単じゃない。
◇
「金色毛は光って見える。あんたみたいな霊感が強い者は、霊力の違いを感じ取れるはずだ」
樹は、廊下に出る直前で、狐霊たちに気づかれないように作戦を話す。
「統制オサキを見つけたら、やることは管狐の時と同じだ」
「オサキを捕まえるってこと?」
「そうだ。霊力と体力で屈服させて支配下に置く。狐霊を鎮めれば、使役すら可能だ」
狐霊の群れの中から統制オサキを見つけ出し、クダちゃんの時のように私が捕まえる。狐霊を捕まえて降参させれば、鎮めることができるというわけね。
「クダはもう支配下にないのか?」
「うん。いくら呼んでも来ないの」
「妹ちゃんも狐憑きだから使役できるわけか。だけど、近づけたら命令してみるといい。まだあんたが本来の支配権を有しているはずだ」
「わかった」
「じゃあ、行くぞ。作戦名は、金色捕獲作戦だ」
作戦名についてはスルーした。樹は、大群のいる廊下へ跳び出せるように構える。
◇
作戦はこうだ。第一の目的は、廊下を守る狐霊の大群を駆け抜けて夕の部屋の入口まで進むこと。第二の目的は、夕の部屋にいるだろう統制オサキを捕まえて降参させ、使役すること。
樹の予想では、廊下を守っている狐霊に統制オサキはいないという。部屋へ近づく鍵は、霊攻撃を受けない樹と、霊攻撃を受けるが霊に直接干渉できる私が連携することだった。そして、廊下の中央付近まで進めば、樹に秘策が……あるらしい。
「よしっ」
私は、両手で頬を叩いて気合を入れた。先陣を切るのは、私だ。
「行くぞっ」
「うんっ」
樹の合図で私は、狐霊たちが隊列を構える廊下へ跳び出した。次の瞬間、隊列を組んでいた狐霊たちが私を押し返すように突進した。
「ぐうっ」
霊力を身体に纏っても、大群で跳びかかる狐霊たちの圧力に押し戻されてしまう。思ったより前に進めない。もっと狐霊たちを引き寄せないといけない。私は、狐霊を押しながら大きく息を吸い込む。
◇
「どおおおすこいっ!」
私は、相撲を取るように狐霊たちを押し返す。霊力を全開に放出しても、なかなか進めない。しかし、一歩、もう一歩と押し出してゆく。
まだまだ、押せるはずっ。
「もう少し!」
限界まで霊力を放出し、狐霊の大群を押し返す。狐霊たちは必死に私を止めようと正面からだけでなく、腕や足にも纏わりつく。
ダメだ、もう倒される。
「樹ぃぃっ!」
私は、体のバランスを崩して倒れながら樹の名前を叫んだ。
「よくやった。いい押しだ」
風を切る音とともに、倒れた私を飛び越えて樹が廊下を駆ける。
◇
突然現れた樹の襲来に、狐霊が慌てて樹を目掛けて突進するが、すり抜けてしまう。私に攻撃した時と明らかに違う、躊躇のない突進、鋭い風切り音の応酬、だけどそれら全ては、樹に対して効果がない。
そう、樹に霊攻撃は通用しない。後続の狐霊たちが石や壁面を剥がして、樹に突進するが、樹は、胸元に手を入れて秘策を取り出す。
「もう遅い」
樹は、狐霊の物理攻撃を受けてバランスを崩しながら、松葉の粉と火薬を詰め込んだ煙玉を廊下に叩きつけた。直後、白い煙が廊下に蔓延し驚いた狐霊たちが樹から離れる。
「今度は私の番ねっ」
起き上がっていた私は、倒れた樹を跳び超えて部屋の前までたどりつく。ドアに鍵はかかっていない。
「夕っ!」
私は、夕の名前を呼びながら夕の部屋のドアを開けた。その光景を見た私は、絶句する。ベッドを囲むようにクダちゃんや、オサキたちが隊列を構えていたからではない。ベッドの上に、見たことがない姿に変身した夕が眠っていたからだ。
◇
「うそ……」
白い妖精という例えが相応しい。一糸纏わぬその姿形は、夕に近いのだと思う。神々しいほどに透き通る美しい白い肌、真っ白に変色した髪の一部は金色に輝いていた。
「夕……なの?」
私の声に反応して夕は、閉じていた目をそっと開く。部屋中の空気が緊張して張り詰める。夕の瞳は金色に輝いていた。
「お姉……ちゃん?」
声は、夕だった。すぐに妹と認識できない自分がいた。姿だけじゃない、何かが違う。だけどたぶん、目の前にいる妖精が夕だ。
受け止めなければ……ダメ?
「どうして、ここに?」
夕が驚いたように口を開き、困惑したように頭を抱える。今の姿を私に見られたくなかった。その想いが語らずとも伝わってくる。そして、空気がさらに緊張した直後……。夕の身体を中心に強い光が放たれて、夕の姿が跡形もなく消え去ってしまった。
「夕っ!」
夕を取り囲んで整列していた狐霊たちの姿も見えない。みんなどこへ行ってしまったの? 突然の静寂が混乱を助長する。困惑していると、窓の外から眩い光が差し込んできた。
◇
夕を追いかけるように部屋を跳び出すと、樹も庭に立ち、夕が庭に現れるのを知っていたように待っていた。光が庭に開けられた穴から溢れ、その前に夕が立っている。妖精のような姿の夕に引き寄せられるように、光が集まり、夕の身体に取り込まれる。廊下や部屋にいた数より、はるかに多くの狐霊たちが、夕を囲んでいた。
これがオサキの群れ、そして群れを統率しているのは夕だ。他に統制オサキが潜んでいる様子はない。夕の身体に眩い光の粒が集束する。強い霊力が夕の中に取り込まれてゆく。
「……やっぱり、そうだったのか」
呟いたのは、樹だった。
やっぱり?
樹が何を言おうとしているのか分からない。夕の姿が豹変している中で、金色の毛を備えた統制オサキを見つけなければならない。
そのはずだったけれど……。
「樹、どういうこと?」
私は、不安な気持ちを押し殺して訊ねる。
「彼女が、統制オサキだ」
樹は、光を纏う夕を見つめてそう言った。
「どういうこと? あの白い姿の夕がオサキなら、本当の夕は、どこにいるの?」
私は、動揺しながら樹に訊ねる。というか樹の言葉をそのまま信じることができなかった。
しかし、樹は、首を横に振る。
「あそこに立っているのが、あんたの妹だよ。
あんたの妹が統制オサキそのものだったんだ」
◇
夕自身が霊獣オサキだった? 何を言っているの?
樹が何を言っているか分からない。分かっても受け止められない。
「今、彼女は、人に化けていない。だから、もう俺には、櫛を通さなければ彼女の姿が視えない」
樹が衝撃的なことを言った。樹には、夕の姿が視えない? 夕が人間じゃないって言ってるの?
もともと狐霊が人間に化けていたとでも言いたいの?
だめだよ、受け入れられない。受け入れられるわけがない。受け入れられるわけないよ!
「可能性はあった。あんたと一緒にいない時、彼女の姿が希薄になることがあった」
『おい、あんたの妹さんって……』
初めて樹が家に来た時、私がお風呂に入っていた時、樹は、妙なことを言っていた。
「でたらめを言わないでっ!」
私は、声を荒げる。辻褄が合うほどにでたらめに聞こえてしまう。
「嘘はついてない」
樹は、淡々と返す。
「嘘だよ。だって私は、ずっと夕と一緒に暮らしてきたんだから」
樹の言葉を受け入れられず声を上げる。
「霊獣オサキは、人に化ける」
樹が落ち着いた口調で続けた。
どうして? 冷たいよ。そんなこと、受け入れられるわけないのに。私と夕のこれまでの思い出を、私たち姉妹の人生を否定しようというの!?
◇
「ふざけるなっ!」
私は、樹の胸を強く叩いていた。
「あんたに何が分かるの! 私と夕の、これまでのこと、全然知らないじゃない!」
何度も、何度も樹の胸を叩いてしまう。
「……人に化けていない彼女は、霊媒を通してしか見えない。それは彼女自身が霊体であることを意味している。事実を受け止めるかどうかは、あんた次第だ」
樹は、私に強く胸を叩かれながら、冷たい事実を突きつける。
「嘘だ……」
私の傍にはいつも夕がいた。いつだって優しく迎えてくれた。私がいて夕がいて二人で、姉妹で、ずっと支えあって生きて来た。ちゃんと記憶している。否定されてたまるか。
『妹さんの一番古い想い出はいつだ?』
『はっきりと妹さんの姿を思い出せるか?』
今思えば、樹が確認したかったのは、このことだったのだろう。十年前のあの日、犬に襲われたのは……。
◇
十年前、6歳の夏の日、私は悲しみに暮れていた。大切な、かけがいのない存在がいなくなってずっと泣いていた。
家に親戚が集まっていた。みんな黒い服を着ていた。悲しくて家にいられなくて庭で泣いていた。そんな私に、追い打ちをかけるように一匹の野犬が現れた。私は、木の枝で必死に犬を追い払った。何かを守るために。
『もう大丈夫だよ』
必死に犬を追い払った後、後ろを向いた私の目には、白く小さな存在が映っていた。ひどく怯えている存在を私は、優しく抱きしめた。
一匹の白い狐を……。金色の毛が混ざった小さな狐を……。
あの時、私が守ったのは夕じゃない……。必死に犬を追い払った後、後ろを向いた私の目に映っていたのは、ひどく怯える小さな白い狐だった。
◇
私が守ったのは小さな狐だ。あの時の狐が、夕だった?
人間の夕、生まれながら身体の弱かった妹は、その数日前に亡くなっていた。私は、その事実を受け止められなかった。
眼の前が真っ暗になる。夕は、大切な妹の夕は……十年前に死んでいる。
「わああああああああああああああああっ」
私は、頭を抱えて叫んでいた。涙が両目から溢れ出していた。脳内に今までなかった記憶が、正確には、ずっと忘れていた、封じ込めていた記憶が頭に一度に流れ込む。
「お姉ちゃんをいじめるなっ」
統制オサキ、いや、私がずっと妹として接していた夕が、霊気を集約して放ち、樹の身体を吹き飛ばした……かのように見えた。
「俺に霊攻撃は通用しない」
樹は、冷静に夕を見つめている。
◇
「お姉ちゃん、どうして余計なことばかりするの。こんな姿、見られたくなかった。せっかく記憶を忘れさせたのに。ずっと二人で仲良く暮らせていたのに。知らなくていいのに知ろうとするの? どうして、あたしに任せてくれないの?」
全身を光に包まれ、金色の髪と白い素肌を月明かりに晒した夕が叫ぶ。美しい姿だけど、彼女も涙を流していた。
「夕、貴女はやっぱり……」
私は、涙声で真実を問う。確認しなくていい事実を確認してしまう。訊いてはいけないことを訊いてしまう。受け止めたくない事実を確認してしまう。
「そうだよ。あたしは、十年前にお姉ちゃんに助けられた狐霊だよ。お姉ちゃんをだましたの。本物の夕ちゃんを失って、悲しみに暮れていたお姉ちゃんの心の隙を狙って取り憑いたの。だから、ずっとずっとずっと……嘘をついてきたの」
夕は、大粒の涙を溢しながら、そう叫んだ。
◇
姿は、狐霊と人間を掛け合わせたようだけど話しているのは、いつもの夕だ。
「はじめは助けてもらった恩返しができればいいと思ったの」
夕は、身体を震わせて続ける。
「お姉ちゃんの寂しい気持ちをなくしたかった。お姉ちゃんとの暮らしは楽しかったし、この暮らしがずっと続けばいいと思ったの」
話しながら、夕が俯いている。
「でも霊獣の成長とともに身体を維持する霊力が足りなくなったの。体力をなくしたあたしに、お姉ちゃんは、管狐にお願いして力を分けてくれたの。それで生き永らえた」
俯いたまま、夕が続ける。
「生気を貰わなければ、あたしは消滅していたの。でも、お姉ちゃんを犠牲にしたくなかった。だから統制の力を使おうとしたの。ちびオサキの群れが色んな人から少しずつ生気を集めて来れば、お姉ちゃんの生気を吸い取る必要がなくなるの。これで全部上手くいくの。お姉ちゃんは、何も知らなくてよかったの」
肩を震わせて、夕の語気が強くなる。そうか。そのために、夕は、小さな狐霊を使役して生気を集めていたんだ。私のために……。
「樹は、お姉ちゃんの管狐との問題だけを解決してくれたらよかったの。あたしが人間でないことくらい、はじめから気づいていたんだから。ひどいよ。どうして、そっとしてくれなかったの?」
夕は、大粒の涙を流しながら、嗚咽を漏らしながら訴える。
◇
「夕、違うよ」
切り出したのは、私だった。
「何が違うの? 樹が余計なことをしなければ……」
夕が涙いっぱいの顔で樹を非難する。
「違うよ。私が樹にお願いしたんだから」
「お願い?」
「私が、霊獣オサキを鎮めたいと願ったの」
「お姉ちゃん?」
「もちろん、夕自身がオサキだなんて知らなかったよ。でも、樹は、私のお願いを叶えてくれただけなんだ。それに、真実を知った今も、私の決意は変わらないよ」
あの時、私が守ったのは夕じゃなかった。でも……。そんなことで決意は変わらない。
私が今助けたい夕は、一緒に過ごしてきた、今の夕なんだ。
私は、夕を睨みつけ、続けた。
「私は、オサキの呪いを鎮める」
夕は、目を大きく見開いて驚いたような表情をする。
「あたしを消すってこと? 本当の妹じゃないから? ずっと、お姉ちゃんを騙してきたから? そうか、そうだよね。ずっと騙していたあたしを許せないよね?」
夕は、声を震わせて涙声で問う。
穴からオサキたちが集めてきた、人間の生気を吸収した夕の身体に強い光が集束する。強い空気の緊張に、夕を怖いと思ってしまう。
◇
「そうじゃない。だけど、けじめをつけるの」
私は、両拳に霊力を纏わせる。
「嘘だ。……お姉ちゃん。本当に、あたしを消すんだね……。いやだ、いやだよ。来ないで。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来るな。来ないで。来ないで……。来ないでええええええええええええええええええええええっ」
夕の身体から小さなオサキの大群が現れた。その数は、廊下や部屋で隊列を組んでいた群れの比ではない。あんな大群に攻撃されたら、一溜りもない。だけど……。
「樹は、手を出さないで」
私は、身構えた樹に言い、さらに続ける。
「これは、姉妹喧嘩だから」
決意していた。私自身の力で、狐霊オサキの大群を止め、統制オサキを封じる。私の目的は変わらない。これ以上、夕に危険な力を使わせない。私の霊力と体力で、屈服させる。
◇
夕、何も変わらないよ。変わらないの。だって、これは、私の我儘だから。
最初から、ただの姉妹喧嘩なんだよ。だから二人で決着をつけよう。
「ああああああああああああああっ!」
私は、両足に霊気を纏わせると地面を強く蹴り、オサキの大群へ正面から突進する。衝突する瞬間、私は、高く跳んだ。
オサキの群れを跳び越えて、統制オサキを、夕を捕まえるんだ。直後、空中にいる私に向かって、地上から対空砲のようにオサキたちが跳び上がる。
「かはっ」
衝撃に息が止まりそうになった。鳩尾に突進するもの、牙をむいて服をひきちぎるもの、腕や足に噛みつくもの……。足止めを目的とした攻撃とは異なる、明らかな敵意を感じた。それだけオサキたちも必死なんだ。
◇
「いやああああっ」
私は、地面に叩き落とされ、大量のオサキたちに噛まれる。霊障なのに、実際に出血もしていた。上着もズボンもボロボロに引きちぎられる。
「がはっ、ひぐっ」
背中から強く地面に叩きつけられ。追い討ちで噛みつかれて意識が飛びそうになる。死を覚悟するような痛みと衝撃に目の前が暗くなる。
「ちびオサキたち、やりすぎだよっ。近づけさせなければそれでいいのに」
霞む眼の向こうで、夕の慌てる様子が見えた。
「いいよ、夕は自分を必死に守りなさい。手加減はいらない。これは、どちらの想いが、どちらの我儘が強いかを決める喧嘩なんだから」
オサキの大群に身体を押さえつけられながら顔を上げて叫んだ。右手に纏った霊気で小さなオサキを思い切り薙ぎ払う。
「ギャウッ」
数匹の悲鳴が響く。
「私も、容赦しないから!」
フラフラになりながら、オサキの群れを払いのけた。
◇
「もうやめてよ。お姉ちゃん。いくら霊感が強くても、はじめから人間のお姉ちゃんに勝ち目なんてないよ」
夕の言う通りかもしれない。こちらはもうボロボロ、傷だらけだし、頭もフラフラで霊力も尽きそうだ。いつ倒れてもおかしくない。対してオサキの群れは増え続けている。これが、オサキを統制する夕の強さ。狐筋として代々受け継がれ、積み重なった力、私の身体ひとつでは勝ち目がない。
「はぁ、はぁ」
呼吸が荒くなる。立っているだけで精一杯だ。数が多すぎる、せめて私も狐筋の力を使えたら……。
狐の力……クダちゃんは?
「クダちゃん、ここに来て」
クダちゃんを呼んでも姿を現れない。より強い霊力をもつ夕が、クダちゃんも使役しているからか。私がより強い霊力を発揮しなければならない。
夕よりも、統制オサキより、強い霊力が欲しい。でも、どうすれば……。
◇
「手は出さないが、口なら出してもいいよな。霊力の仕組みを知らないあんたが不利すぎるから、1つだけ助言するよ。あんた達の霊力の差は、妹さんの姿にヒントがある」
樹が、あくまで武力介入はせず、言葉による助言だけをする。
妹の姿?
夕は、金色の髪に白い肌を露にして全身から霊力を放っている。対して私は、腕や足など一部分から霊力を放っているだけだ。
まさか、服を脱ぐってこと?
それで霊力が強くなるの!?
「心配するな。俺は、第三者的、かつ紳士的に戦いの行方を見ることができる」
「それでも見ないでっ」
医者や祓い屋みたいなものだからとかは関係ない。樹に見られるのは色んな意味で恥ずかしくなっていた。なんていうか、その、まだ早い。
だ、け、ど……。なりふり構っている場合ではない。破れていたシャツとズボンを脱ぎ捨て下着姿になると、露出した肌の部分から強い霊力の光が放出される。本当に衣服が霊力の放出を抑えていたんだ。やりすぎかもしれないけれど、できることは全部やる。下着は脱がないけどね。
私は、大きく息を吸い込む。高まった霊力を身体に纏いながら、天を仰いで空に叫んだ。
「クダちゃんっ! そろそろ言うこと聞きなさいっ!」
◇
次の瞬間、目の前にクダちゃんが現れた。同時に庭の穴と夕を結び付けていた光線が消滅する。やっぱりクダちゃんがオサキの霊力の受け渡しをしていたんだ。
「行くよ、クダちゃん。私を夕のもとまで連れてって」
私は、クダちゃんを肩に乗せると光を失って驚いている夕へ向かって突進する。全身に霊力を纏い、隊列を組んでいたオサキたちを弾き飛ばす。
「嘘……でしょ。オサキっ、上に飛んで!」
夕の命令にオサキの群れが反応して、夕の身体を空へと持ち上げる。夕が高く、高く、宙に浮かぶ。
「クダちゃん、力を貸して。今までで一番のジャンプをするから」
私は、溢れる霊力を両足に集中すると、地面を強く、強く蹴った。
「いっけえええええええええええええっ」
これまでの競技生活において、生涯最高の走り高跳び(ハイジャンプ)、私は、両手を伸ばして、上空に浮かぶ夕の身体に跳びついた。そのまま夕を抱き締める。ついに統制オサキを、いや、夕を捕まえた。
絶対に、離さない!
◇
「やめて、お姉ちゃん。……夕、消えちゃうよ」
夕が泣きながら懇願する。私は、それでも夕を強く抱きしめる。
「消さないよ。他人の生気じゃなくていい、私とクダちゃんの力だけで、夕は絶対に消さないから」
「いやだよ。それはまた、お姉ちゃんの生気をもらっちゃうから」
「いいの」
「そんなの、わがままだよ!」
「そうだよ、これはわがままだから。どっちのわがままが強いかを決める喧嘩。姉妹喧嘩は私の勝ちだよ。だから、私の言うことを聞いて!」
そう、喧嘩は決着がついた。どちらが自分のわがままを突き通すかの。互いが互いに自分を犠牲にして助けようとする、どこまでも平行線で、子供のような姉妹喧嘩に決着がついたのだ。
◇
「私は、自分を犠牲にしてるなんて思ってないよ。私のわがままで夕と一緒にいるだけなんだから。あのね、夕は、勘違いしているんだよ」
私は、夕の両目をしっかりと見つめる。
「勘違い?」
「うん。夕は、私から元気を、生気を奪ってるって思っているでしょ?」
「そうだもん。お姉ちゃんの生気がないと夕は消えちゃうから……。あたしのせいでお姉ちゃんの元気を奪ってるの」
「夕。反対だよ? 私だって、夕から元気をもらってるんだ」
「えっ?」
「私は、夕に生きる希望を貰ったの。妹を失って絶望していた私を、夕が救ってくれたんだよ」
「夕が、お姉ちゃんを?」
「そう。だから、これからも元気をちょうだい。お返しに私も夕に元気を渡すから」
「いいの? 嘘の姉妹でも」
「嘘じゃないよ。あの日から、出会った日から、夕は、ずっと私の妹でしょ」
「うん」
「私たちは、本当の姉妹だよ。そう思っているんだもん。嘘の訳がないよ」
「うん。……うん。ありがとうお姉ちゃん。大好き」
「私も大好きだよ、夕」
私と夕は、ゆっくりと手をつないで、ふわりと地上に降りた。月明かりに包まれた私たちは、しばらく二人で抱き合っていた。
◇
二人で抱き合い、夕の温かさを感じながら、私はふと、あることに気づくと、心臓が止まるかと思った。
(樹……全部見てたよね?)
私は慌てて夕から離れ、破れた服を身体に巻き付ける。
「樹! どうして平然と見てるの! 下着姿なんですけど!?」
庭の隅にいた樹は、私の叫びに一瞬ビクッとなりながらも、真剣な表情で返した。
「祓い師としてプロの目線で行く末を見届けているだけだ。問題ない」
「問題あるよ!」
私の悲鳴が庭に響き渡る中、隣にいた夕がキョトンとした顔で私の服を引っ張った。
「お姉ちゃん、樹にお嫁にいけばいいんだよ」
私の顔は一瞬でさらに真っ赤になった。感動的な雰囲気は完全に吹き飛び、私は叫んだ。
「ちょっと、夕、何言ってるの!」
◇
こうして、私達、狐憑き姉妹の問題は解決した。家に伝わっていた狐霊、管狐も尾先も私が使役するという、欲張りでわがままな方法を選んだ。樹に言わせると、これは狐憑きの事例にない珍しい選択らしい。
わがままでいいんだ。私たちは、互いに我儘で自分を犠牲にし合っていたのだから。これからも二人で助け合って、こうして抱きしめ合って生きてゆく。
「例を見ない姉妹想いの強さが怪異の理(ことわり)を曲げたんだろう」
そんなふうに樹は、まとめていた。本当に樹には、助けられた。ちゃんとお礼をしなくちゃね。
「樹、私も、貴方を手伝いたい」
私は、想いを込めて伝える。純粋に樹の力になりたいと思ったからだ。それに、もっと傍にいたいと思っていた。
「ありがとう」
即答した樹は、私の手を引いた。
「えっ」
「ちょうど良い話がある。手伝ってくれ」
この会話が、あんな日々につながるなんて、想像すらしていなかった。
第2話 END
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