八月八日
数日、日記を書かなかった。存外、悪いことでもない。以前の私が日記を書く日は決まって精神衛生がドエライことになっていたのだから。しかしドエライの余韻が今の私にも残っている。労働が嫌なのだ。生きていくために仕方なくしているあの飲食店の労働が嫌なのだ。何が嫌か。不特定多数の感情に晒されるのが嫌だ。出勤の度に嫌味を言われるのが嫌だ。馬鹿みたいなミスをなくすことができない、役立たずな私が嫌だ。何もかも、嫌だ。きっとどんな仕事をしたところで私はまともに働けぬだろうと思っている。私はトレーと台拭きとを持って客席を一周する間に台拭きを何処かへやるのだ。気がつけば持っていない。注文されたデザートを作れば個数を間違える。伝票をスキャンし忘れて繰り返し注意される。もう嫌だ、こんな自分は。ミスをするたびに私は自分で自分を殴り殺してしまいたくなるのだ。幾ら気をつけたって一向に治らないのだ。もはや一種の病ではなかろうか。そうだとすれば、これまでの私が恐ろしい程に世界の役立たずだった記憶にも頷ける。特に顕著だったのは教育実習だ。担当教員の見ている前では朝の挨拶ひとつ、満足にできない。評価されていると思うと、もう何も手につかず、馬鹿みたいなことを言い、訂正されるのだ。運転免許を取りに行ったときもそうだった。隣で教官が私を評価していると思うと、後続車にどんなことを思われているだろうと考えると、もうアクセルとブレーキを踏み間違わぬようにするが精いっぱいなのだ。指示器? 内輪差? それどころではないのだ。
結局私は誰かの評価に怯えて生きているのだ。評価が怖いから、ミスをするのだ。そうでなくてもミスをするのだ。そしてそれが治らないのだ。全く、呪い殺してやりたい男である。人並みなところ、何ひとつ発見できない。
世間の好みに少し合わせるなら、駄目な自分を受け入れて得意なことを伸ばそう! なんと言う手の付けられないような言葉が思い浮かびそうだが、私はそんなこと、思わない。駄目なものは、駄目なのだ。その裏に個性があるなどという陰陽論は出鱈目だと信じている。
さて、こんな駄目な人間をどう生かそうなんということを、私は思わない。世間に順応し、まともになれないならどうすべきか。答えを知っている。死ねばよいのだ。使い道のない、自傷の思考ばかり優れたこんな人間、死ねばよいのだ。そうすれば世間が少しプラスになるとは思わない。何の影響も与えないのだ。私のような役立たずひとり死んだところで、世界がどうなりもしない。ただ私といいうレンズを通した世界がひとつ、消えるだけだ。世界を見晴らす大いなる複眼のひとつのセルがなくなるだけだ。
嗚呼、タイプミス、変換ミスが忌々しい。もう今日は書くのを止す。
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