第1話 希望の門出
第1話 希望の門出
灰色の大気を割って、軌道エレベーター《ハバナ・スパイン》は雲を貫き、宇宙港へと伸びていた。
地上の広場には、色褪せた国旗と手作りの横断幕が風にあおられている。泣き声、笑い声、祈りの声。誰もが空を見上げ、点のように輝く母船群を探していた。
霧島蓮は、エレベーターの観察窓からその群衆を見下ろし、深く息を整えた。
胸元の識別章には〈太平洋船団 連絡局〉の紋章。青い海図を模した小さな円の上で、白い四本の線が放射状に伸びている。
エレベーターが終点に到着すると、重力がふっと軽くなり、人工重力のわずかな遅れが足裏をくすぐった。
「来たな、蓮」
待ち構えていた真壁晶が、ヘルメットを小脇に抱えて手を振った。
機関主任の作業服は式典仕様に替えられているが、袖口には油じみが残っている。彼の眉間に刻まれた小さな皺は、寝ていない証拠だ。
「昨夜も機関部か?」 「最終点検だよ。クーラント配管の一本が泣いててな。泣き止ませるのに一晩かかった。……お前は?」 「演説原稿の修正。『希望』という語の回数を五回から三回に減らした」 「多すぎても軽くなるからな、言葉ってのは」
二人は笑い、同時に笑みを引っ込めた。分かっている。笑っている場合ではないことを。
ドックの観覧窓に並ぶ影は、八つの船団の旗艦たちだった。
連邦アークの〈プロミネンス〉は、白金色の船体が眩しく、千の窓に電子の星が灯っている。
東方同盟の〈天穹〉は鈍い灰色の装甲に包まれ、要塞のように無口だ。
大洋連合〈カリブディス〉の艦首には、渦潮の紋章。
北極圏連合〈ポラリス〉は氷の棘のように鋭いシルエットを持ち、
砂漠圏同盟〈アシュール〉は太陽炉の環を背負っている。
インド洋〈マハーラ〉は緑の農業モジュールを連ね、
遊牧船団は旗艦を持たず、群れのように小型艦が流動し、
そして太平洋船団の母船〈オケアノス〉は、青い鯨のように静かに息づいていた。
式典ホールの扉が開くと、空気は一段と洗い上げられていた。再生された芳香が薄く漂い、床には各船団の紋章が円環状に埋め込まれている。
中央の演壇に
「諸君。これは終わりではない。始まりである」
静寂が、音になった。
「先発移民団は、後に続く数十億のための礎を築く。
居住地、食糧、エネルギー、防衛、そして航路。
君たちの成功は、人類を連ねる橋となる。
君たちの失敗は、地球の空に、重く沈む。
――だが我々は失敗しない。そうであってはならない。ここに、八つの船団は一つの誓いを共有する」
掌が重ね合わされるように、拍手が波をつくった。蓮はその波を胸の内で受け止め、短く目を閉じた。
この言葉の重さを、いつまで支えられるだろう。支えなければならないのだが。
各船団代表の挨拶が続く。
連邦アークのエリザ・ハートマンは、節のない声で言った。
「先頭に立つ責務を果たします。新世界に秩序をもたらすのは、準備された者の義務です」
東方同盟の李迅は、薄く微笑み、静かに。
「団結の力を、疑わぬこと。我々は数を、そして規律を持つ」
大洋連合のマリーナ・ハワードは、華やかに手を広げる。
「海はすべてを繋ぐ。交易は争いをやわらげる。私たちは橋になります」
北極圏のセルゲイ・ヴォルコフは、短く。
「守り、進む。それだけだ」
砂漠圏のアミール・バシュールは穏やかに笑い、指を空へ向けた。
「太陽は裏切らない。私たちの炉もまた、裏切らない」
インド洋のラヴィ・チャンドラは、握った拳を掌で包む。
「耕し、育む。初めに足りないのは、いつも水と土です」
遊牧船団のカイ・ローグは、肩をすくめた。
「必要なら呼んでくれ。必要ない時は、好きにやってる」
そして最後に、太平洋船団の代表が立つ。
濃紺のスーツの襟に、海図のピンをつけた女性――船団長のオオトリ。
彼女は観客席の最上段まで届くように、言葉を一つずつ置いた。
「海は寄せ集めです。潮、風、温度、塩分、魚群――そして人。
私たちの船団も寄せ集めです。けれど寄せ集めは、強い。
異なるものが、互いの穴を埋めるから。
私たちは、互いの穴を、埋めに行きます」
蓮は思わず口角を上げた。彼女の言葉は、太平洋船団の等身大の矜持だった。
式典の終わりとともに、ホールの照明が落ち、天井の全天球スクリーンに星図が浮かんだ。
二十光年の弧に赤い航路が描かれる。点滅するビーコン。補給予定の無人ステーション。
最終表示に《目的地:アルカディア》の文字が浮かんだ時、ホールのどこかで嗚咽が漏れた。歓声に紛れて、それはすぐ消えた。
式典が散会すると、裏の動脈が動き出した。
各船団の代表は、公式の笑顔を剥ぎ取り、実務の声音に戻る。
蓮もまた、太平洋船団の随行室へ急ぎながら、腕端末に届く通知をスワイプした。
――【資源配分会合:議題更新】
――【緊急:連邦アークより航路提案/別紙参照】
――【注意:遊牧船団の一部艦、ドック規定違反】
随行室の扉を開けると、既に数名がテーブルを囲んでいた。船団長オオトリ、機関主任の真壁、補給統括、法務士官。
壁のスクリーンには、各船団の燃料・水・反応炉材の希望量が並んでいる。希望量――美しい言い方だ。実際は要求だ。
「蓮、連邦アークの提案書が妙だ」真壁が言った。「推力配分の前提が、彼らに有利に偏っている。中型艦群のトラフィックをあいつらの後ろに並ばせるつもりだ」
「『安全のため』という名目で、ね」蓮は席につき、書式を流し読みした。
航路帯のデブリ分布、推進剤消費曲線、熱放散の上限、通信スロットの割り当て。
どこにも露骨な不正はない。ただ、数字の選び方が上手い。結果として、先頭を握った者が補給ステーションで優先権を得る設計になっている。
「拒否するか?」補給統括が問う。
「正面からは難しい。『安全性を低下させるのか』と返される」蓮は首を振った。「別案を出そう。安全性は維持して、並列進行の余地を残す。遊牧船団の可変軌道を緩衝材にできる」
「そう簡単に乗るかね」法務士官が眼鏡を押し上げる。「あの自由連中が」
「利益があれば乗るさ」真壁が肩をすくめた。「燃料フィルターの新型を一式、貸すってのはどうだ」
議論が続くうち、ドアベルが一度だけ鳴った。
見慣れない制服の男が、扉の隙間から顔を入れる。東方同盟の副官だ。蓮は立ち上がった。
「霧島連絡官。司令の李が、非公式のブリーフィングを希望している。……五分だけ時間をもらえるか」
李迅。蓮は視線でオオトリに問うた。彼女は一拍置き、静かに頷いた。
東方同盟の控室は、無駄がなかった。室内の一番奥、窓もない壁の前に李は立っていた。
彼は蓮の顔を見ると、目だけが笑った。
「出発、おめでとう。太平洋は小さく見られがちだが、私は好んでいる。柔らかいが折れにくい」
「お褒めにあずかり光栄です、司令」
礼を終えるより早く、李は小さなデータキーを差し出した。
「航路の中間点に、予定外の重力異常帯が出ている。昨日、我々の遠隔観測網が捉えた。
公式にはまだ発表できない。混乱を避けたいからだ。だが、君たちの母船〈オケアノス〉の軌道選択に影響が出る。――知らぬ顔をしているのは、礼ではない」
蓮は眉根を寄せた。
「なぜ我々に? 連邦アークにまず伝えるのが順序でしょう」
「順序は、時に毒だ」李は肩をすくめた。「あれは強い。強い者に情報を先に渡すと、流れは固まる。私はまだ、流れを見たい」
彼の言葉の裏を読むべきか、素直に受け取るべきか。蓮は一瞬迷い、ポケットにキーを滑らせた。
「ありがたく」
「それと」李は続けた。「君の船団の機関部に、よくない影がある。私のところに落ちてきた断片情報だ。出所は不明。――気をつけたまえ」
部屋を出ると、真壁が壁に寄りかかって待っていた。
「で、どんな勧誘だ? 米と中の板ばさみなら、俺は耳をつまんで寝るぞ」
「勧誘というより、貸しだ」蓮は歩きながらキーを掲げた。「重力異常帯のデータだ。非公式。もうひとつ――機関部に影があるってさ」
真壁は短く舌打ちした。「影じゃなくて、足かもな。引っかけて転ばせるための」
「それでも、足は見ておくべきだろ」
蓮は苦笑した。「お前の袖の油じみ、洗濯に出した方がいい。影がつく」
「俺の油は守り神だ」
二人が笑うより早く、ドックの警報が低く鳴った。始まる。
全船団に、出港シーケンスの時刻が配信される。
通信視界が縦に二分割され、各母船の艦橋映像が並ぶ。
蓮は太平洋船団の管制室に戻り、席についた。船団長オオトリはヘッドセットを耳にあて、静かに指示を始めている。
「〈オケアノス〉、一次推進――スタンバイ。連結艦は順序通り。農業モジュール、温室圧の最終チェック。機関部、熱交換器を四パーセント余裕に」
「四パーセント?」真壁が眉を上げた。
「重力異常帯の可能性がある。余裕は命よ」オオトリは振り返らない。「……蓮、連邦アークの提案へ返答は?」
「提出済み。安全性を維持した並列進行案。遊牧船団の調整に入る」
「カイには私からも一本入れておく」オオトリの口元がわずかに釣り上がる。「あの男は、恩を好む」
カウントが十から始まった。
ホールの全照明が落ち、窓の外の宇宙が一段と濃くなる。
八つの巨影が、同じ星を見ていた。
――七。
蓮の端末が震え、短い通知が走る。【機関部ログ:未知のアクセス試行】
彼は真壁に目配せした。真壁は即座に端末をかざし、薄い笑みを消した。
「誰かが、主推進の冷却ログに触ってる。位置は……外部じゃない。艦内だ」
――四。
蓮は咄嗟に席を立ち、警備士官に視線で合図した。「ログ監視を強化。機関区画へは私たちで行く。出港は止めない」
「止められないさ」オオトリが低く言った。「出港は、この星の重力よりも重い」
――二。
真壁は蓮の肩を叩いた。「行くぞ。影を踏む」
「出港後にしろ」オオトリが二人を制した。「今は座って、見届けなさい。誰が先に走るのかを」
――一。
星々が一瞬、遠くなった。
四方に伸びる推進光が、闇に線を引く。
八つの母船がゆっくりと、しかし決定的に、地球の重力井戸から離れていく。
蓮はスクリーンの片隅に目を走らせた。連邦アークの〈プロミネンス〉が、規定より半ステップ早く加速を始めている。
東方同盟の〈天穹〉はわずかに追い上げ、遊牧船団がその間隙に滑り込む。
太平洋の〈オケアノス〉は静かに、等速を保った。均整と、信頼と、わずかな余裕。四パーセントの余裕。
出港の振動が、遅れて胸に届いた。
歓声なのか、嗚咽なのか、蓮にはもう判別できなかった。
彼はただ、手元の端末に浮かぶ小さな文字を見つめた。【未知のアクセス:保留】
影はいる。だが、出港は果たした。
「……出たな」
真壁の声は、小さく、どこか祈りに似ていた。
蓮は無意識に背筋を伸ばした。
地球の青は、もうスクリーンの端にしかない。
航路上で待つものは、重力異常か、誰かの仕掛けか、彼ら自身の愚かさか。
それでも――彼は知っている。
この旅は、希望の名を冠して始まった。
そして希望は、ただ掲げるだけではなく、毎時毎分、選び直すものだということを。
〈オケアノス〉は、星の川へと滑り込んだ。
宇宙艦紀アルカディア、その第一歩が、静かに確かに、刻まれた。
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