14
「学校をサボろうよ」と朝の教室で芥生さんは言った。反応をしていないクラスメイトたちは聞こえていないのか、聞こえたうえで知らぬふりをしているのかは分からなかった。どことなく、その提案をされることに対してばつの悪さを感じて、願わくば聞こえていないままであってくれないだろうかと思う。
「それで、どこか遠くに行こう。誰もついてくることが出来ないくらい遠くまで」
「いいのか、芥生さんは」
その提案は彼女が選んでこなかった最期だからこそ、これからを考えなくていいからこその自由のように思えて尋ねる。もしもそれが迫られた時間によって押されたように求めた選択であれば、それは彼女の意志から乖離したもののように思えた。死に踊らされた選択を取ることを悪いとは言わない。ただ、以前の自分を裏切るような行為を選ぶのであれば、せめて自覚をしていて欲しかった。かつての彼女のために。
「いいんだ」と芥生さんは笑った。
「これが私のやりたいことだから」
「なら、いいんだ」
そう言って僕は鞄を持って立ち上がる。ホームルームまであと十分足らずといったところで、僕たちは教室を出て下駄箱へと向かって行く。靴を履いて、人の流れに逆らうように校門へと向かいながら芥生さんは鞄を持ち直して口を開く。
「今までの日常のままでいたかったっていうのはほんとなんだ。憐れまれたくないのも、もう戻ってこない人だと思われたくないことも。でも多分、私は私じゃなくなるのが怖かったんだと思う。らしくない願いを掲げて、それに振り回されたくなかったんだ」
「今こうして学校から抜け出すことは、芥生さんらしい選択なのか?」
「そうだよ。これが私のやりたいことだって、胸を張って言える」
死を目前にしてやり残したことを並べても生きる意味を見出すことが出来なかったと、彼女は言っていた。その彼女がやりたいのだと胸を張って言えることを見つけることが出来たことは、本当に良いことだと思った。あと少しでも早くに見つかっていればと思ってしまうことも確かではあったけれど。
学校を出て、駅まで歩く。少し遅れても構わないという風に登校していく学生たちは奇妙な目で僕たちを見るけれど、最早それも気にならなかった。今の僕たちには、明確な目的があるのだから。例えどれほど胡乱な目を向けられたとしても自らの中に確かだと信じることの出来るものがあるなら、迷う必要はもうなかった。
電車を待ちながら「どこに行くつもりなんだ」と尋ねる。彼女は思い悩むように沈黙をした後で「どこに行こうか」と逆に僕に尋ねた。
「僕に聞かれても困る。君が誘ったんだから、君が決めてくれよ」
「でも私に聞かれても困るんだよね。どこかに行くことが目的なんじゃなくて、学校をサボってどこでもいいからどこかへ行くことが目的だったから」
その言葉に、鏡花のことを思い出す。彼女もまた、目的もなくどこかへと行きたいのだと言っていた。死へと近付いた人間は、月へと近付いた人間はどこか見知らぬ場所へと向かいたがるものなのだろうか。あるいは、鏡花と芥生さんが似ているのか。
「分かったよ、なら適当に遠くまで行こう。電車に乗って、夕方くらいには帰れるところまで」
幸い、鏡花のお陰で目的地のない遠出には慣れていた。僕たちは電車に乗って、学校から遠のいていく。日常から抜け出すように。
七つほど駅を通り過ぎたところで地方電車は早速終点まで辿り着く。僕たちはどこへ向かうのかも分からない電車に乗り換える。未だ電車の中は人が多く、座ることは出来ない中で吊革に掴まりながら僕たちは並んで電車に揺られていく。
会話はない。人の気配が充満し、轍を踏み抜く無機質な音が響く朝の電車はいつも居心地の悪さと仄かな不快感を覚えていたけれど不思議と今は不快ではなかった。例え会話がなかったとしても、隣に誰かが居てくれるということはそれだけで人間を救うことがあるのかもしれない。自分は孤独ではないのだという事実は、それほど大きなものなのだと思うから。
駅が過ぎるごとに人が降り、同じだけの人が這入って来る。ドアが開く度に生温い夏の熱気が肌を撫でる。既に夏の空気が街を占領してから暫くが経っているというのに、ようやく僕は夏を自覚したような気がした。もう、一週間も経たないうちに夏休みだって始まる。世界はただ時を刻み続けている。
芥生結は夏休みを迎えることが出来ない。終業式よりも前に、満月は訪れる。多くのクラスメイトたちが惰性的な生活の結果として手に入れる歓喜を、彼女はもう二度と手に入れることが出来ない。
去年の彼女は、そんなことを想像もしていなかっただろう。当たり前のように次が訪れるのだと思っていたはずだ。二度と夏休みを過ごすことがないのだと、どうして想像をすることが出来るだろうか。
再び夏は巡る。僕はまた来年も、学校を抜け出してこうして電車に乗り、遠くへと出かけることが出来る。それなのに、隣にはもう芥生さんは居ない。そうした光景を想像すると、心の中に冷たい風が吹いたような気がする。
僕は月へと行きたかった。そのためなら、芥生さんが月へと行こうと、死のうとどうでもいいと思っていた。そのはずだ。けれど、いつの間にか彼女に死んで欲しくないと思ってしまっている。彼女が死ぬことに対して、この世界から旅立ってしまうことに対して恐れや寂しさを感じてしまっている。昨日の告白が原因なのではない。それは感情を露わにしただけで、きっとずっと前から僕は彼女に死んで欲しくなかった。まだ、生きていて欲しかった。
窓外を灰色の人工物が通り過ぎていく。時折、派手な色をした看板が見えては消えていく。徐々に都会へと近付いていることが分かる。無機質なアナウンスによる予告がなされ、電車は緩やかに速度を落として駅へと止まった。多くの人々が降りていく中で、芥生さんは僕の手を引く。まだ遠くと言えるほど進んではいないけれど、ひとまずはここで降りるようだった。
人の流れに従いながらエスカレーターに乗り、「どこか行きたい場所でもあるのか」と一段上に立つ芥生さんに尋ねる。
「いや、全く。でもこういう場所もあんまり来たことがなかったからさ。折角だから行ってみよっかなって」
高校生の世界は極めて狭い。中学生に比べて遠くまで行くことが出来るようにはなるけれど、自分たちが住む街の中でも十分に生活をすることは出来るし、それで満足をすることも出来る。あんまり行くことがなかったということは、何も不自然なことではない。僕もまた、あまり行くことがなかった人間なのだから。
改札を出て視界が広がると、ビルで覆われ狭くなった空が見えた。蝉時雨が降り注ぐ僕たちの街とはまるで様相の違う世界だ。電車に揺られているだけで、世界はかくも簡単に流転し、変貌する。
芥生さんは逡巡する様子もなく、歩き始める。まるでどこか向かうべき場所があるような足取りは、しかし何も考えていないからこそのもので思わず薄く笑ってしまう。目的がないからこそ、答えがないからこそ、迷う必要などないのだ。
「白野君は、今までどれくらい学校をサボったことある?」
「鏡花と――以前出会った月行病の子と一緒にサボった時くらいで、それ以外はないよ」
「へえ、そうなんだ。ちょっと意外」
「意外って、僕は学校をサボってそうな人間に見えるのか」
「サボってそうってわけじゃないけど、欠かさずに来るほど学校が好きそうじゃないし、サボることに対しても抵抗があんまりなさそうだから」
見透かされたようで恥ずかしかったけれど、その分析は正しかった。僕は学校が好きではないし、サボることに対しての抵抗感もない。だからこそ、鏡花と連日学校をサボっていたし、今もここに居る。ただし、彼女の推測は少しだけ違う。
「学校というよりも、世界があまり好きじゃないんだ。どこへ行っても何もないから、惰性的に学校に行っていただけさ」
それは選択とすら言えない。受動的に世界の流れを受け入れ続けていただけだ。嫌っているからこそ、抗うこともなくただ孤独という殻に閉じこもることだけが僕の最大の反抗だった。
生きることになったとしても、死を希うことを許されなくなったとしても、世界は嫌いなままだった。いつかは、多少ましになるとしても、好きになることはないのだろうということだけは断言をすることが出来る。
「生き続けるには嫌いな世界なんだよ、全く」
諧謔めいた様子で言うと彼女は可笑しそうに笑う。
「そう。ならせいぜいそんな嫌いな世界の中で生きてね」
その呪いが果てしなく残酷なものであるということを、恐らく彼女は自覚しながら言う。僕は既に自分の中に根差し始めたその痛みをなぞる。そうだ。僕は生きなければならない。生まれてからずっと嫌いなままの世界を。母も、鏡花も、芥生さんも居なくなった世界を。
あれほど嫌っていた生の持続を、受け入れることが出来るようになっていた。僕とよく似た男の言葉を借りるならば、世界をありのままに認めることが出来るようになっていると言えるのかもしれない。
「でも、今日は一旦この話はなし。月行病のこととか、残された時間とか、その後の君についてとか。少しの間だけでも全部忘れてさ、楽しもうよ」
「……そうだな」
わざわざ、昼間から学校を抜け出して終わりについての話をする必要はない。諦観にも思える思考の放棄は、けれどそうした後ろ暗いものではなかった。もっと純粋で単純な、高校生らしい無邪気さがゆえの提案だ。だからこそ、嬉しかった。芥生さんの本当の姿を見ることが出来たような気がして。今までが嘘を吐かれていたというわけではない。月行病について知り、連夜時間を共有していた僕は少なくとも他のクラスメイトよりも芥生さんの素と言えるような部分を見ていたのだろうと思う。
ただ、結局そうして見ることが出来た芥生結は月行病という名の死が近付きつつある、異常下での芥生結に過ぎない。今の芥生さんは、そうした不自然さを全て捨て去った、ただの十七歳の少女に見えて、それが嬉しかった。例えそれが揺らぎのように不安定な一瞬の幻像だとしても、芥生さんが死に囚われずに過ごすことが出来ているということは、これ以上ないほどのように思えた。数か月前までであれば当たり前だったはずなのに。何もない日々の連続こそが、退屈の中で刺激に憧憬を覚えるくらいが、充足した生活なのだということを僕たちは失った後でようやく痛感する。
「ここ這入ろっか」と言って、芥生さんは丁度目の前にあったビルの方へと歩いて行く。エスカレーターの前にあった階層ごとに何があるのかという案内に軽く目を通すとカフェに服屋、本屋など幅広いジャンルの店が内包されているらしい。随分と便利な建物だ。これ一棟で僕としては満足をしてしまいそうなほどに。この街には所せましとビルが乱立し、物質で溢れているけれど、飽和した残骸たちはどこへ行き着くのだろうか。川へと降り注いだ雨が海へと流れ、蒸発により空へと上がり再び雨となるように、目には見えない循環が存在しているのかもしれない。
芥生さんは散歩をするように歩きながら、時折足を止めて店に這入り商品を見つめる。模範的ウィンドウショッピングとも言える様子を間近で見るのは、そして自分もまたそれに参加しているという状況は、なんだかひどく面白かった。実際的な行為を以て世界と接点を持つということは、孤独の内に閉じ籠っていた僕ではとてもすることがないだろうと思っていたことだから。
「こんなものも売ってるんだ」とか、「ウチの近くにもこういう店欲しいねー」とか。他愛のない呟きみたいな声に僕は相槌を打つ。移動先を決める主導権は当然僕にはなくて、次の店へと移るタイミングも彼女が決める。ゆえに、さして店に興味があるわけでもない僕は商品よりも芥生さんの姿を眺めることが多かったけれど、退屈をすることはなかった。人が嬉しそうにしているから自分自身も嬉しいのだ、なんて幸せな感性を持っているわけではない。芥生さんが楽し気にしているからこそ、僕もまた楽しいのだ。
結局、彼女は何かを買うようなこともなく、ぐるりとビルの中を遊覧した後でまた街の中へと戻っていく。僕たちは再び雑踏の中に紛れ込んでいく。制服姿の二人組が居るには適さない時間と場所だけれども、そうしたささやかな異常もこの街は飲み込んでくれる。大勢の人間がこうも集まっていながらもどこか余所余所しさを感じるアンビバレンスなこの街は僕たちを引き留めるようなことをしない。
それから、芥生さんは目についた場所へと這入っていく。家電量販店、古着屋、CDショップ。そのいずれでも先と変わらず、何も買うことがないままで、街並みを楽しんでいく。思い出したように途中で挟まれる会話に規則性はなく、他愛のない内容ばかりだった。
きっと、どれほど忘れたくないと願っても、僕は今を忘れてしまう。「楽しかった」や「嬉しかった」なんて記号的な単語とともに想起をすることは出来るのだろう。けれど、それは今湧き上がっている感情を何も正確に表してくれない。どんな会話をしたのかは覚えていても、どんな言葉を使って話をしたかは思い出せないだろう。彼女が笑ったとしても、どんな笑い方をしたのかは忘れてしまう。忘却の恐ろしさは、薄れゆく鏡花の記憶と向き合う度嫌になるほど実感していた。それが再び起こることになるのだと考えると、憂鬱が鈍く、重く、意識にのしかかる。
「どうかした?」と芥生さんは僕の表情を覗くようにして見る。気付かれたくない部分を見透かされるその勘の良さが嫌いで、けれど何も言わずとも分かってくれる察しの良さは好きでもあった。
「何でもないよ」と言って漠然と浮上してきていた憂鬱を振り切る。今は、そうした事柄を考えるべき時間ではない。せめて今だけでも、忘れよう。
僕たちは少し早い昼食としてファストフード店に這入り、ハンバーガーを食べた。折角遠くまで出かけたのに地元にもあるチェーン店を利用するのはどうなのかと芥生さんは言っていたけれど、都心ならではの店なんて僕は知らないし、何より無計画に飛び出してきたせいで財布の中身があまりない。ここで満足してくれとコカ・コーラを飲みながら言うと、仕方ないと言いながら彼女は僕のポテトから数本を引き取り頬張った。この程度で手打ちをしてくれるなら、悪くない取引と言えるだろう。
昼食を終えた僕たちは駅へと向かい、この街を後にする。再びどこへ向かうのかも分からない電車に乗り、揺られていく。時間のせいか、方向のせいか、二人分の座席が空いている程度には車内は空いていて、僕たちは並んで座り、待った。どこへ行くのかも分からないけれど、どこでもないどこかへと辿り着くことを。
車内の沈黙に中てられてか、話すことが見つからないからか、間近に迫った死について考えているのか。僕たちは何も話さない。静寂と窓から差し込む陽光は時間の感覚を融解させていき、永遠の最中に居るのではないかという風な錯覚をする。何度駅を通り過ぎても、そこは僕たちが降りるべき駅ではなくて、電車は彷徨をするように走り続ける。馬鹿馬鹿しい妄想だけれども、本当にそうなるんじゃないかと思う。
元より少なかった車内の人々が、都心から離れていくにつれて減っていく。這入って来る人の数は減り、やがて誰も乗って来なくなる。窓外は灰色で覆われた無機質な街から、再び緑の多い自然が増えていく。僕たち以外の全員が車両から消えても、電車は終点まで止まることなく進み続ける。
幾つ駅を通り過ぎたのだろうか。今が何時かも分からないけれど、座り続けたせいで固まった身体が長い時間そのままの姿勢でいたことを訴えている。
「次の駅で降りよっか」と芥生さんが言った。いつまでも走り続ける電車なんていうものは、所詮幻想に過ぎない。旅は、終わりがあるからこそ旅なのだから。僕は頷いて、次の駅に着くのを待つ。
そうして辿り着いた駅は、誰も居ないひっそりとした場所だった。去って行った電車の後に見える線路の向こうの風景はやはり自然が多いけれど、全く人工物が存在していないというわけでもない。生活の気配はする。
改札を出ると、初夏の陽射しが襲ってくる。生温い風が剥き出しにされた腕を撫でた。都心とは違う、夏の気配が鼻腔をつく。
「夏って感じがするね」
「そうだな。原風景にある景色みたいだ」
畦道にひぐらしというほど誂えたようなものではなかったけれど、この暑さは、匂いは、風景は、見たことがないはずなのにノスタルジイに訴えかけるものがあった。
僕たちは当てもなく、線路沿いを歩き始める。ただ、そこに道があるからという理由だけで進んで行く。そこには何かの儀式が執り行われるような必然性があるように思えたけれど、儀式的な荘厳さは全くなかった。傍から見れば、ただの高校生の帰途に見えるかもしれない。僕たちが身に纏っているのはこの辺りの制服とは異なるものだけれども、夏のお陰で僕も彼女も学校を示唆するような分かりやすく特徴的なものは身に纏っていなかった。
迷いのない歩みも相まって、僕と芥生さんの存在が徐々にこの街に馴染んでいくような気がする。この街に住み、ここから遠くない学校へと通う高校生になったような。ずっと昔からこうして歩いていたような錯覚をする。僕たちが出会ったのは一カ月前であり、この街の名前すらも知らないというのに。
「随分遠くまで来たね」と彼女は青空に放り投げるように呟いた。
「どうだろう。案外、後で地図を見てみればそんなに遠くない場所のような気もするけど」
「実際的な距離は問題じゃないんだよ。こうして普段住んでる街とは違う景色を見るとさ、遠くまで来た、って感じがするでしょ」
「ああ、確かにそうかもしれない」
大切なことは実際的な距離ではなくて、普段居る日常とはかけ離れた場所に居るのだという心象的な距離なのかもしれない。そういう意味では、彼女の言った通り随分と遠い場所に来たものだ。ここは僕たちが行くことが出来る、言い換えれば帰ることが出来る、現実的で最も遠い場所と言えるのかもしれない。
道端に古びた自動販売機を見つけて、僕たちはそれぞれ飲み物を買う。彼女は麦茶。僕は水。値段が昔から変えられていないのか、普段見かける自動販売機よりも二十円安い金額だった。キャップを捻り、水を飲む。冷たい液体が、身体の中に這入っていくことが分かった。それは、生きているという当たり前だけれども忘れやすい事実を思い出させてくれる。
「こうやって暑い中で冷たいものを飲むとさ、夏も悪くないかもって思えるよね」
「僕は最初から暑くなければいいのにって思うよ」
「じゃあ、好きな季節はって聞かれて春か秋って答えるタイプだ」
「よく分かったな」
どの季節も好きだとは言えないけれど、強いて挙げるのだとすれば僕は秋と答えるだろう。夏や冬と比べれば言うまでもなく過ごしやすく、温かさよりは涼しさの方が好ましい。僕という人間を象徴するような、面白みのない、凡庸な回答。
「芥生さんは違うのか」
「私は夏かな」
「こんなに暑いのに」
「暑いからこそだよ」
「暑いのが好きなのか」
「そういうわけじゃなくてさ。春とか秋って過ごしやすいけど、だからこそ実感みたいなものが残らない気がして」
確かに、春や秋は過ごしやすいけれど、分かりやすいイベントがないこともありあまり記憶がない。夏や冬の物語を挙げることは出来ても、春や秋を舞台にした物語は思い出すために少しの思案を要する。不快とも言える気温は、その分だけ印象を色濃く僕たちの中に落とし込んでいるのかもしれない。
「冬よりも夏が好きなのはどうしてなんだ」
「冬はなんか、寂しい感じがするからさ」
その言語化出来ないなんかは理解出来る気がした。僕の寂寥は、かつて好きだった人が去ってしまった季節だからという理由でもあるのだろうけれど。
夏は冬よりも寂しくない。蝉の声や真夏の暑さは、寂しさを感じるには煩わしすぎる。けれど、いつか夏を思い出す時、僕は必ず芥生結という少女についても思い出すことになる。何も出来ずに見送ることしか出来なかった、クラスメイトのことを。
その時、全く寂しさを伴わないことは出来ないだろう。晩夏の夕暮時に得も言われぬ寂しさが身体の中を通り抜けていくように、何かが終わってしまうという実感には寂しさが付き纏うものなのだから。ただ、寂しさだけで終わらなければいいと思う。僕たちの記憶は必ずしも寂しさだけで構成されたものではなくて、もっと他愛のない、陽光のように温かく柔らかなものもあってこそ完成されたものなのだから。
汗が首を伝う。道には何もない。進むべき道を示すように延びている線路には電車が通らず、錆びついた茶色いレールが夏の陽射しに晒されているだけだ。果ては見えず、それはいつまでも続いている。遠く、遠くまで。
「ねえ、白野君。月って綺麗な場所なのかな」
月行病についての話をしないと言っていた彼女は、不意にそう呟く。しかし、思い出してみれば彼女は一旦話をするのを止めようと言っていたのだ。電車に乗り、僕たちの日常とは不連続的な場所まで辿り着いた今、その一旦は既に終わっているのかもしれない。あるいは、その問いかけは殆ど無意識のうちに零れたものなのか。
僕は少し考える。語る内容をではなく、それが今語るべき内容なのかということを。彼女が月へと行ってしまってから、月へと焦がれてから。僕はずっと月について考えていた。ゆえに、定まった答えはずっと、僕の中に存在している。しかし、それは僕の中にある真実であって普遍的な事実ではないし、何より例えそれが正確な内容だったとしても物事には語るべきタイミングが存在している。僕が今ここで月について語ることは果たして正しいのだろうか。
微かな逡巡の後で、僕は語ることにする。その話がどのような作用を持つのだとしても、逃げることなく、誤魔化すことなく告げるべきだと思ったから。
「一九六九年の七月二十日が何の日か、知ってるか?」
イエスノーで答えることの出来るクローズドクエスチョンだというのに、答えないままで逆に質問をする。しかし、僕にとってその過程はなくてはならないもののように思えて、省くわけにはいかなかった。ある種の物事には、正しい過程がなければならない。僕にとって、その質問に答えるためには正確な過程を踏まなければならなかった。
芥生さんは僕の迂遠な答えに対して胡乱な目を向けることもなく「知らない」と答える。
「アポロ十一号が月面に着陸した日。つまり、その日を境に月からは神秘性がなくなったんだ。月は空想的な別世界ではなくて、科学的に解剖することの出来る地球の衛星だということが、証明されたんだよ」
あらゆる月の物語は、月への空想的な憧憬は、あの時に一度殺された。月に人間が託していたような幻想は存在しない。そこは全く冷たい、ただの岩肌に過ぎずそれ以上でもそれ以下でもない。
「それでも、僕たちは月に夢を見る。月に関する物語を想像する。何かを、期待して、希望する」
月という衛星に神秘性がないという事実が明らかになっても尚、人々はそこに何かを希望した。願った。科学がそこには何もないのだということを証明した後でも、それでも。
「月は、特別な場所なんだと僕は思う。人間を精神的にも――肉体的にも惹きつける、科学では解明出来ない力学が作用している、不思議な場所なんだ。来栖さんの言葉を借りるなら、今でも人間を惹きつける魔力が、確かにある場所なんだ。だから多分、人々が希望を託すそこはきっと綺麗な場所だよ」
理屈はない。ともすれば、それは月に憧憬を抱き続けた人間の拙い希望なのかもしれない。けれど、確信を持って僕は言える。そうした歪んだ認識の中での信仰ではなく、彼女に対する慰めでもなく。彼女が到達しようとしているその場所は綺麗な場所なのだと。
「そっか」と芥生さんは頷いた。綺麗な場所だからといって、救われるわけではない。最も決定的な死という事実には変わりがないのだから。けれど、頷いてくれた彼女の言葉には死に対する悲壮が拭われていたような気がする。諦観に近く、されど諦観と言えるほど無気力でも後ろ向きでもない、鮮やかな響きがあったから。
「もしもさ。月行病なんていうものがないままで会っていたら、私たちって仲良くなれたかな」
芥生さんは見えない月を探すように空を見ながらそう問いかける。
「月行病がなかったら会ってないだろ。それが僕たちの関係の前提条件なんだから」
「そういう真面目な考え方はいいの。もし、月行病がなくても何かしらの出来事があって話すことがあったらと仮定しての話」
それは、僕からすればもしも空が飛べたらとでもいうようなあまりにも現実から乖離した仮定のように感じた。だから、そのうえで僕は考える。空想をする。もしも、白野四季と芥生結が偶然により月行病なく話すことが出来ていたとしたら。
今僕たちの間にある会話の殆どは月行病か、それから延長されたものであり、それを失ってしまえば僕たちに共通項は存在しない。信頼を築くために犠牲にされた秘密もまた、月行病についてのものだ。繋ぐものが存在していない以上、例えきっかけがあったとしても関係は解けていく可能性が高いだろう。それが、重力に従い物質が落下していくような、自然な結果だ。
ただ、共通項が何もなかったとしても、秘密の交換がなかったとしても、今のような関係になることが出来たのかもしれない。
「今か、今以上に親しくなることが出来ていたんじゃないか」
その答えは、僕がこの一カ月で得ることの出来たものだった。希望的な仮定を信じることは、悪いことではない。例え現実にならないのだとしても、それは生きていくために、真っすぐ歩いて行くために必要なものなのだろうから。
芥生さんは眩しそうに眼を細めて笑った。月行病なんていうものがなければ、僕は彼女に恋をしていたのかもしれない。そう思うほどに、芥生結という少女は死という不安定な魅力を抜きにしても魅力的な少女だということを、ようやく知る。
月行病がなければ。あるいは月行病があっても。あと少し時間があれば、僕は彼女に恋をしていたのかもしれない。けれど、最早時間はなかった。僕の彼女に対する感情は名前を付けられていないままで、そのまま終わっていくのだ。
線路沿いを、僕たちは歩き続ける。果ては未だ見えないままで、しかしもうすぐ終わるのだという気配がした。遠くに聞こえる蝉の声が、肌を刺す陽射しが、夏が、何故だか寂しくて堪らなかった。
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