星の降る夜に

11

 満月の日まで残り十日となっても尚、僕たちは月行病を引き留める方法を見つけられないままでいた。

 絶望や悲壮はない。けれど、焦燥だけが底流を滾々と流れ続けている。それは、何もかもを根こそぎ奪い去ってしまうような、激流ではなかった。ただ、満たされたものを決壊させるには十分なものだった。そう、簡単に想像をすることが出来たはずなのだ。

 想像力の欠如、という言葉があるけれど、僕の人生において繰り返されてきた失敗においてその言葉は適していないように思える。想像力が欠けているのではない。そもそも、想像をするという行為にすら至れなかった、想像力の喪失こそが僕という人間の欠陥を示すうえで正しい表現なのだろう。

 その日も、彼女は空へと浮かび上がっていた。高度はゆっくりと上がり続け、上昇をやめる頃になればもう話すことすらも出来ない。山の頂上にある木を追い越した彼女は、この街で最も高い場所に居て月を眺めている。それは、傍からすれば焦がれているように見えるけれど、実際はその逆なのだ。日常から引き剥がし、死へと誘うそれは彼女にとっては恐怖の象徴でしかない。

 月までは未だ遥か遠いように見えるけれど、ある高度まで到達してしまえば、あとは一瞬なのだということを僕は知っている。そこまで行けば、人は地球の重力から解放され、月に誘われるままに際限なく浮かび上がっていく。空の黒へと吸い込まれていく。

 その姿を確かに見たわけでもない。けれど、鏡花がもう手の届くことのない場所までと去っていく姿は現実かと紛うほど鮮明に何度も、何度も夢で見続けていた。そして根拠のない確信を持って、あれこそが月行病の末路なのだと僕は知っている。喝采も哀叫もない、悲劇でも喜劇でもない、花が散っていくような自然さを持って生命はこの世界から毟り取られていくのだということを。

 ともすれば、鏡花が満月の日に飛び立ったのだという結果は偶然のものに過ぎず、芥生さんはこのまま月へと飛び立ってしまうのかもしれない。そう考えると、心臓が真綿で絞めつけられたような吐き気が全身を毒のように回った。

 結局、足掻くだけ足掻いて、有り得ないと思っていたもう一度を手にしても、何も手に入らないという可能性は、考えるだけでも頭がおかしくなりそうなほど恐ろしいものだった。

 鏡花が月へと行ってから、僕はただそこに居るだけだった。死んでいないというだけで、生きているというと言えるような状態ではなかった。けれど、その不安定な空虚を保つことが出来たのは、希望を知らなかったからだ。何も出来ないままでいることしか出来ないのだという諦念の中に居たからだ。今の僕は、希望を知ってしまっている。絶望を覆す機会を手にしてしまっている。それでも何も出来ずにこのまま芥生さんまでも月へと行ってしまえば、僕は。

 夜が明けていくようにゆっくりと、しかし確かに芥生さんの高度が下がっていく姿が見える。今日はまだ、月は彼女を見逃してくれるようだった。

 雪が地面を白く染めるように静かに、彼女は降り立つ。月並みな表現だけれども、月光に照らされた彼女がそうして降りて来るさまは、天使が降り立ったように見えた。その美しさが白く塗りたる墓のような腐臭を内包しているのだとしても、美しいことには変わりがないのだから、やはりささやかな感動を覚えてしまう。

 降り立った芥生さんの顔は、生気を奪われてしまったように白いものだった。しかし、それは月光に染められたからではない。恐怖により、血の気を失ったからだった。

 見たままでいれば今にも崩れ落ちてしまいそうで、急いで駆け寄る。彼女は遠慮をする様子も躊躇をする様子もなく、凭れかかるようにして僕の腕を掴んだ。今までに見たことのない、芥生さんの弱さに戸惑いながら、僕は問いかける。

「大丈夫か、どうしたんだ」

 鏡花が浮かび上がる中で、このようなことはなかった。けれど、人によっては月へと近付くことで何か体調にまで変化を齎すことになるのかもしれない。

 芥生さんは「大丈夫」と言った後で憂鬱そうな目を月から逃れるように下へと向けた後で「嘘」と小さく呟いた。

「大丈夫じゃないかも」

 彼女は何度か呼吸をして夜の空気で肺を満たした後掴んでいた僕の腕を離し、独りで立ち上がり韜晦めいた笑みを浮かべる。

「白野君の言ってた通り、時間がもうないみたい」

「何があったんだ」

「何があった、ってわけじゃないんだけど、妙な感覚がしたの。歯車が噛み合うような、またひとつ自分の身体がここから離れていくような感覚が」

 錯覚に過ぎないという慰めは無意味だ。きっとその感覚は実際に彼女の身体の中に起こったもので、そしてそれは彼女が予測した通り月へと近付きつつあるのだという宣告なのだろうから。

 彼女は、今にも倒れてしまいそうだった。たった一回の飛翔で起こった変貌の衝撃は、僕から言葉と思考を奪い去っていってしまった。今まで、死や飛翔への恐怖を言葉として漏らすことはあっても態度にまで表し、ここまで弱っている芥生さんは見たことがなかったから。

 けれど、突然ということではないのだろう。気丈に見えても、死という現実は十代の人間にとってあまりにも未知で、そして暴力的だ。どれほど歳を重ねても、それは変わらないのかもしれないけれど、死という現実に触れ合ったことのない人間にとって、その冷たさと痛みは特殊な残酷さを持っている。

 今までは、耐えていただけだったのだ。恐怖は彼女の中に一杯まで溜まっていて、それが逃れることの出来ない宣告によって決壊し、溢れ出してしまったのだ。

「ごめん」と言って、彼女は崩れ落ちるようにしゃがみ、そして蹲った。まるで、世界から迫害をされているかのように、独りきりの殻に閉じこもるように。

 そのまま、彼女は夜の闇に吸われて消えていってしまうのではないかと思った。月へと行くことを拒んだ代償として、溶けていくように夜へと還ってしまうような気がした。けれど彼女は消えないままで、ただ蹲っている。嗚咽を漏らすことも、身体を震わせることもなく、時間から切り離されたように動かずに。

 何も、出来ない。彼女を救うことも、支えるような言葉をかけることも、何も。

 今の彼女は月へと行こうとしているわけではない。目の前で蹲っている、ただの同級生の少女だ。方法はあるはずなのだ。手を差し伸べ、それが例えその場凌ぎのものに過ぎなかったとしても、痛みを誤魔化すようなことは出来るはずなのだ。

 それなのに、僕には出来ない。必要な能力が欠けている。考えるための回路が存在していない。確かにあるものにすらも、触れることが出来ない。

 違う、と自己嫌悪を否定する。それは、僕が果たすべきことではない。不必要な後悔は無意味な躊躇いを生む。そしてその躊躇いは本来の願望を果たすための足枷となるだけだ。冷静にならなければならない。同情をしてはいけない。

「あー、やっぱり駄目だね」と彼女は呟く。その声は気丈さというよりは、空っぽになってしまった人間の投げやりな諦念に聞こえて、聞いている方の心までもずたずたに裂いていく。

「大丈夫かなって思ってたけど、いざ近付いて来ると怖いなあ。私って、死ぬんだよね」

 恐らくはそうなのだろう、と冷酷な判断を下す自分が居る。漸進でもいい、僅かでも何か彼女に触れることに繋がるものを得ることが出来ていれば、もっと希望的で楽観的な言葉をかけることが出来たのかもしれない。人は認識の中でしか生きることが出来ないのだ。例え嘘だとしても、真実だと思い込ませることが出来ればそれは慰めになる。

 けれど、僕たちは何も進むことが出来ないままで、何一つ得ることが出来ないままで命を浪費し続けた。希望は存在しているのかもしれない。しかし、それは真夜中の海底に沈んだ貝殻を探そうとしているようなものだ。あったとしても見ることは出来ず、決して届くことはない。大丈夫、なんていう言葉は虚しいだけで嘘にすらならないのだ。

「前にさ、やりたいことを連ねてみたことがあるって話したの覚えてる?」

「……ああ」

「頑張って書いてみたけど、それが本当にやりたいことかは分からなくて。でも、実際にやらずに居ても後悔なんて大層なものはなくてさ。立ち止まって考えてみると、不思議なことに思えてくるんだ。どうして私って生きてるんだろって。やりたいことなんて何もないのに。ただぼんやり過ぎ去っていく時間を、車窓から風景を眺めるように見ているだけなのに」

「それは何も、特別なことじゃないだろ。初めから、人生に意味なんてない。意義なんてない。それは、生きていくうちに見出されていくものだ」

「そうなんだろうね。でも、私はそれを見出せないままで死んでいくんだよ」

 考えなしに言葉を吐いたことに後悔をする。少し思考を巡らせれば、間違いに気が付いていたはずだ。届くはずのない場所にある希望を提示されても、苦しいだけだということを。芥生さんは顔を上げて、僕の表情を覗き込む。

「そんな表情をしないでもいいよ。別に、生きる意味なんてどうでもいいんだ。どうでもいいからこそ、苦しいの。そんなものなくても、人って生きたいんだなって分かっちゃったから。なぜとかどうしてなんて理由は後付けでさ、人間っていうのはどうしようもなく生きたいものなんだって知っちゃったから」

 そうだ。人間は、生を望む。理由なんてなくても、掲げる大義や信仰がなくても。当然のこととして人はそれを渇望する。

 ある者は遺伝子による本能だと言うのだろうし、ある者は生命として果たすべき責務だと言うのだろう。しかし、どのようにしてそうなるのかという問いかけに意味はない。例え目的がなくとも、人生に絶望をしていても、生に縋ってしまうという結果があるだけなのだから。

「……まだ、時間はある」

「君なら分かってるんでしょ。もう時間が残されてないって。本当に、その時間で何かが見つけられると思うの?」

 肯ずることは出来ない。可能性としては、存在しているのかもしれない。しかしそれは、言葉通り可能性として存在しているだけなのだ。多くの場合においてそれは、不可能と同義として扱われる。

「満月が、近いね」

 そう言って、彼女は空を見上げた。夜の黒に浮かぶ月は、未だ半分も満ちていない。それでも、十日もすれば満ち足りて、その全貌を露わにすることになる。そして、彼女を宙へと、決して手の届かない誘う。

 彼女は、僕が告げずとも自らが飛び立ってしまうタイミングを知っていた。類推によって、あるいは本能によって。何一つ不自由のない、健康なはずの肉体が死滅してしまう時を知っているのだ。

 それほどまでに残酷なことがあるだろうか。終わるタイミングを知ることは、幸福なことだ。受け入れる準備をすることが出来るのだから。けれど、月行病において準備も覚悟も出来るはずがない。身体が浮かぶということ以外全く問題のない身体を抱えて、どうしてそんなものの覚悟をすることが出来るというのだろうか。

「生きたいよ、私は。でも、無理なんだ。月が私を誘うから。そこまで飛び立っていかなければならないから」

 彼女は憧れるような目線を地面に落とす。当たり前に僕たちが踏み続けているこの場所から、彼女は未知の力学によって引き剥がされ、死へと飛翔していくことになる。僕たちが日常の中で忘却していく当然のことは、それを失ってしまう人間にとってどれほど切望するものなのかを、僕たちはその日常の中に居る限り永遠に知ることが出来ない。

「いいなあ、みんな。何もせずに、当たり前に人生が続いて行くんだもんね。私は、何もしてないのに」

 多く人は行動の善悪によって結果の貴賤が決まるのだと信仰している。努力は報われ、悪人は神とでも呼べるようなものによって罰せられると、信じている。報われないかもしれない努力を出来る人間は少なく、罰がないなら倫理に従うことすらも馬鹿らしくなってしまう。だから、人は公正な世界を信じなければ、生きていけないのだ。

 しかし、現実は違う。努力は報われず、神が居るのだとしてもそれは悪人を罰することはない。不幸は、罰は、雨のように平等に訪れる。罰されるようなことをしていなくても、例え聖人のような誰もが認める報われるべき人間であったとしても。不条理は容赦なく希望的な運命を攫っていく。

「何か、何かあるはずだ。時間は少ないけど、全くないってわけじゃない。だから」

「無理だよ。白野君も、もう分かったでしょ。奇蹟なんてないんだ」

「でも――」

「でもって何!」

 それは思わず漏らした安っぽい慰めの言葉を刺し殺すような、鋭い声だった。彼女は幽鬼のようにおぼつかない仕草で立ち上がりながら僕を睨む。その眼差しが表しているものは、憎しみだった。自分はこれから死ぬというのに、どうしてお前は生き続けるんだという、強い憎悪。

「「でも」も「もしも」も「だけど」も、今更ないんだよ! 私は死ぬの! 月に行くんだよ! もう、どうしようもないんだよ!」

 どうせ、と彼女は言う。僕の中で、何かが軋む音がする。彼女の奥底から、深い部分から汲み上げられた言葉は同じだけの僕の深い部分にまで到達し、僕が守り続けていた領域を容易に蹂躙していく。

 これ以上聞いてはならないと思った。もしも聞いてしまえば、歯止めが効かなくなるような気がしたから。僕もまた、決壊寸前の不安定な状態を保ち続けていたのだから。けれど、止めることは出来ない。彼女の感情の濁流は容赦なく溢れ出す。

「どうせ、君には分からないよ!」

 その拒絶の言葉は、あと少しのところで堰き止められていた僕の中の何かを壊し、暴走させるには十分なものだった。身体の中から、どす黒く、どろどろとしたものが湧き上がって来るのが分かる。それを吐き出すべきではない。それは、僕と彼女の間に存在する僅かな繋がりを不可逆的に破壊してしまうものなのだから。

 しかし、理性は本能には追いつけない。人間がどれほど走っても、沈みゆく太陽には追いつくことが出来ないように、永遠にそれらが交わることは、ないのだ。

「分かるわけないだろ!」

 焦燥によって膨張した感情が弾けるように、慟哭として現れる。熱は理性によって装飾されることがない、醜い剥き出しのままで吐き出される。

「僕は、僕は――」

 思考が纏まっていないせいで、続く言葉が見つからない。そこでようやく、これ以上は言うべきではないのだと、理性が追い付いて来る。彼女のためにも、そして僕のためにも。

 けれど、何もかもが遅かった。吐き出してしまった言葉はもう元には戻らない。既に、動機は関係がないのだ。僕が死の際に居る彼女を突き離してしまったのだという事実だけが、残酷に世界に刻まれたままそこにある。

 耐え切れずに、身を翻して走り出した。壊してしまった残骸を見つめていれば、生きていることにすらも耐えられなくなるような気がして、僕は逃げる。

 暗い道を、何度も転びそうになりながら走っていく。後悔のような何かが、脳の中でのたうち回り、吐き気がする。いつもであれば足を動かすことで誤魔化すことの出来る迷いは、返しのついた釣り針のように、いつまで経っても振り切ることが出来ない。

 違う、違う、違う。後悔なんて、するべきじゃない。初めから、お前は決めていたはずだ。と。ならば、これはいずれ訪れる必然だったのだ。後悔を覚えるべきはお前自身の目的が果たせなくなったことにだけであって、彼女を傷付けたことにではない。

 防衛本能として、思考は僕の中から責任を取り除き、捨て去ろうとする。それでも、言い訳がましい理屈は何も解決をしてはくれない。僕の中には確かな後悔が蟠り続ける。吐いた言葉への悔悛が消えて、くれない。

 彼女は僕の言葉を聞いて、どんな表情をしていたのだろうか。見ていたはずなのに、上手く思い出すことが出来ない。彼女の顔は検閲された機密文書のように黒く塗り潰されて、見えない。

 このまま走り続けて、身体がばらばらに砕けてしまえばいいと思った。肉体も、魂も、跡形なく崩れ去り、塵になり、消えてしまえばいいと。走り続ける中で、そうあるべきだという確信すら抱く。それでも僕の身体は壊れないままで、みっともなく走り続ける。肉体はここに在り続ける。

 この世界は、絶対的に不平等だ。どうして、芥生結が死に、どうして僕が生きているのか。望む者に与えられず、望まぬ者に押し付けられるのは、どうしてなのか。狂っているのだ。何もかも、徹底的に。

 それとも、僕が狂っているのだろうか。最早何も分からない。価値観が、認識が、融解していくことが分かる。死んでゆく。腐敗していく。

 確かなことは、空に浮かぶ月だけのように見えた。それだけは、表情を変えずに、ただ僕を照らしている。どれほど伸ばしても、手は届かない。それに触れることが出来るのは死へと近付いた者だけで、僕にその権利はないのだから。

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