6

 連夜、芥生さんを引き留める方法を模索しても答えは見つからないままでいたずらに時間だけが過ぎ去っていく。それでも不思議なことに、芥生さんの中に焦燥のようなものは見えなかった。もしかすれば、彼女は既に諦観の中に居るのかもしれない。助けを求めてはいるものの、どこかで死ぬことは、月へと行くことは仕方がないという諦めの中に。

 自分の無力さをつくづく感じ入る。結局、僕はあの頃も今も、ただの観測者に過ぎないのだ。全てを解決するような都合のいい一手を思いつくなんていう奇蹟は、訪れやしない。

 そんなことを考えるべきではない、と自分の思考を無理やりにでも打ち止める。僕が彼女を手伝っているのは、あくまでも僕自身の目的のためなのだ。救おうと思うな。情を抱くべきではない。僕はただ、僕のするべきことを行い続けるだけであるべきだ。そうしなければ僕は、いつまでも後悔に囚われたまま死に続けることになるのだから。

 芥生さんと昼食を食べる習慣は、今もなお続いていた。けれど、毎日というわけでもなく、二、三日に一度といったペースで漸進をするように。毎日のように話をしていれば、話をすることもなく沈黙を持て余していたのだろうし、彼女には彼女の続けたい日常が存在しているのだ。これが僕たちにとって丁度良いペースなのだろうと思う。

 彼女は躊躇うことなく、自らのことについて話をした。好きな音楽について。嫌いな授業について。月行病になる前の生活と今の生活について。死生観について。僕も釣られるように、自らのことについての話をする。不可侵的な部分について語ることに対して、僕は抵抗感を抱くけれど、それ以外の事実的情報の羅列は厭うようなものではないと思っている。隠したとしても、現実は何も変わらないのだから。

 今の僕たちはアキレスと亀のようだな、と思う。近付いてはいる。けれど、追いつくことはいつまでもない。そしてそのままで、彼女は手の届かないところまで行ってしまうのだろう。追いつくためには、追い越すためには、今存在している枠組みから抜け出さない限りにはどうしようもない。ただ、肝心のその方法が分からないままで、月光の下で僕たちは溺れるように虚しく足掻き続けている。

 今日は、昼食を共に取るようなことはなかった。それでも、夜になれば僕たちは同じ場所に集まり話をする。昼間の、互いの存在を確かめ合うような会話ではなく、より実際的で実務的な月行病に関する会話を交わす。

 脳に鈍重な感覚がのしかかっていることが分かる。芥生さんとの約束に関係なく、母が死んでから止まない夜への恐怖のせいで慢性的な睡眠の不足に苛まれている僕は、学校から帰ると決まって仮眠を摂ることになっていた。人間は眠らなければならない。至極当たり前の事実だ。どれほど異常な現象と向き合っていても、そうした摂理から逃れて生きることは出来ない。

 早く帰って、眠りに就くべきだ。睡眠が足りなければ、思考は上手く回らない。足りていたとしても、上手く回っているのかは分からないけれど。放課を告げるチャイムを聞いて席を立ち、帰路に就く。そうして下駄箱に着いたところで「白野君」と声をかけられる。ただし、その声はここ最近聞き慣れ、僕の日常に馴染みつつあるものではなく、違和感を覚えながら振り返った。

 そこに立っていた女生徒は、よく芥生さんと話をしているクラスメイトのうちの一人だった。以前であれば、クラスメイトかどうかということすらも把握をしていなかったのだろうと思うけれど、芥生さんを観察していたなかで最低限の顔くらいは覚えることが出来るようになっていた。

「ちょっと一緒に帰らない? 駅まででも良いからさ」

「……何の用?」

「結のことについて少し聞いてみたいなって。二人ってどういう関係なの?」

「ただのクラスメイトだよ。あとは予備校が一緒なんだ。ほら、彼女顔が広いだろ。僕もそうして仲良くさせて貰ってる一人に過ぎない。それだけだよ」

「そうかな。誘われて断らないっていうのは結の気質だけど、自分から誘うことってかなり珍しいケースだと思うんだけども」

 言われてみれば、芥生さんは常に人間関係において受動的な姿勢を取っていた。会話をするにしても、どこかへ行くにしても、自ら誘うようなことは殆ど見ていない。彼女自身が能動的にアクションを起こすことは極めて珍しいことなのだろう。目に留まってしまうことも仕方のないことなのかもしれない。

「でも、そうとしか言えないんだよ。恋人でもないし、友人と呼べるほど親しいかと言われればそれもまた違う」

 僕たちの関係は友人という言葉が持つような便利でリキッドなものではなく、目的を伴った、融通の利かないソリッドなものだ。しかし、知人とだけ言うには僕たちは互いのことを知り過ぎているし、何よりただの知人と毎晩密会をするようなことはないだろう。

 僕の知っている範囲の関係性の言葉を搔き集めても、適したものは見つからず、諦めることにする。言葉を尽くしても嘘にしかならないのであれば、語らないことこそが最も正しい形なのだと僕は思うから。

 答えあぐねたままで下駄箱から靴を取り出すと彼女は付いて来ることが前提となっているとでも言うように同じように靴に履き替える。十代の女子というものは十代の男子にはとても理解を出来ないようなエネルギーを有していて、自分というものの輪郭が明瞭な人間でなければ上手く抗うことが出来ないのだと思う。そして言うまでもなく、僕は自分というものがない人間に位置している。

 何も言わずに歩き始めても尚付いて来たところで、僕は諦めることにした。自らの力でどうすることも出来ない現実と相対した時、人に出来ることはせいぜい流され、見知らぬ場所へと辿り着かないように自分の中にあるものにじっとしがみつき、耐え忍ぶことだけなのだろうから。

「多分、僕は君が期待するような面白い話は出来ないよ。僕と芥生さんの間には面白いくらい面白いものは何もないんだ」

「や、勘違いされてるかもしれないけど、あたしは別に面白い話が聞きたいってわけじゃないんだ。ただどういう関係なのかが知りたいっていうだけで」

「そういう野次馬根性の大本は面白いことを知りたいっていう好奇心だろ。否定をするわけじゃないし好きにすればいいけど、期待をされても困る。ないものを出せと頼まれても僕は小説家でもないんだから、物語を創ることは出来ない」

 月行病という症状と、それを治すために足掻いている僕たちの姿は野次馬的好奇心を満たすには十分な物語性を帯びているのかもしれないけれど、言うまでもなくその秘密を漏らすつもりはない。それこそが、僕と彼女の間に交わした約束なのだから。

 彼女は僕の言葉を受けて悩ましそうな表情をした後で訂正をするように、ひとつひとつ言葉を点検しながら口を開く。

「野次馬ってわけじゃない、とはどうしたって今のあたしの立場からは言えないけど、でも好奇心だけのために聞いてるわけではないつもりなんだけど」

「なら何のために?」

「心配、みたいなものかな」

「そんなに悪い人間に見えるのか? 僕は」

「あー、そういうわけじゃなくて。白野君と話してる時の結はむしろ普段よりも弛緩してるように見えるし、君に悪意があるかどうかとか、そういう心配じゃなくてさ」

 歩きながら、落ちてくることを憂うように彼女は空を見上げる。その先には、初夏の気配のする青い空しかない。月はなく、まばらに見える雲だけがそこには浮かんでいる。

「ほら、あの子って何食わぬ顔で無理すること多いでしょ。ここ最近は特に、努めて明るくしようとしてる気がするし」

 少なくとも、僕から見れば教室でクラスメイトと話をする芥生さんの姿はいつも通りの風に見えたし、多くのクラスメイトから見てもその感想に変わりはないだろう。けれど、多くの人が見過ごすような水面下でのささやかな変化にも気付く人が居た。そして、それを気に掛けるような人が。

 少しだけ、安堵する。友人が居るのかどうか分からないと、芥生さんは言っていた。惰性的に続けられているような、虚しい関係なのではないかと。しかし、確かに心配をしてくれる人が居る。見てくれている人が居る。その事実に、報われたような気がした。僕自身の問題ではないとしても、彼女のように上手く世界と接しようとしている人間が報われないことは、救いというものがないようで哀しくなるのだから。

「だから――そう。聞いてみたいっていうよりも、お願いしたかったのかも。あの子のこと助けてあげて欲しいって。ああいう性格だから他人に頼ることが苦手だし、何かあったら支えてあげて欲しいっていうかさ」

「……そういう役割は、僕じゃなくて君が果たすべきだと思うよ」

 利己的な理由のもとに利用をしている僕よりも、全く無私的に気を遣っている彼女の方がずっと助けになるはずだ。僕に出来ることはもっと無機的で事務的な手助けに過ぎず、精神的に寄り添うことなど出来ない。

「そりゃ出来るならあたしだって助けたいよ。でもそれが出来ないから、頼んでるんでしょ」

「僕に出来るわけでもないだろ」

「少なくとも、あたしよりは白野君の方が勝算はあるよ」

「何でそうなるんだ」

「結が一番気兼ねなく話せてるのが、君だからだよ。口惜しいけど、あたしには無理」

 本当に、よく芥生さんのことを見ているんだろうな、と思う。芥生さんは、月行病であるという彼女自身にとって最も大きく不可分的な問題を隠しながら日常をやり過ごしている。そして、その秘密を知ってしまっているのは、僕だけだ。気兼ねなく話をすることが出来ているというのは、彼女が僕に対して最も重要な隠し事をする必要がないからこそなのだろう。それをよく、見ているだけで察することが出来るものだ。

 しかし、だからと言って彼女の言葉を肯ずることは出来そうになかった。果たせない約束を結ぶつもりはない。

「悪いけど、僕には無理な話だよ」

「どうして」

「一度失敗をしたことがあるから」

 恋していた人の孤独を、寂寞を、僕は癒すことが出来なかった。ただ隣に居るだけでは意味なんてなくて、慰めにすらならない。だから、彼女は何も言わずに去ってしまった。飛び立ってしまった。

 今の状況からすれば、芥生さんの傷を癒すことが出来るのは僕だけなのかもしれない。けれど、僕には他人を支えることが出来るような能力はなかった。僕自身を支えることでさえ、精一杯なのだから。他人を支えることなど出来るはずもないのだ。

「……誰だって失敗することはあるよ。繰り返されるとは限らない」

「それは多分、君が取り返しのつかない失敗を一度もしたことがないから言える言葉だ」

 大抵の物事には、代替が効く。失敗をしたならばやり直せば良い。失ってしまったならば他のもので埋め直せば良い。けれど、そうしたやり直しの利かない物事はこの世界に確かに存在している。

 一度でもそうした経験があった者は痛感をする。自らがどれほど無力な存在なのかを。世界というシステムの残酷さを。そうして、自分にはどうすることも出来ないことがあるのだという、当たり前の事実を確認する。

 あるいは、単なる怯えなのかもしれない。一度失ってしまったから、もう二度と失いたくないという情けない躊躇いが踏み出すことを許さないだけなのかもしれない。しかし、如何なるものが原因であったとしても、僕の中には他人に深く踏み入るべきではないという確信めいたものがある。そしてそうしたものを抱えたままでは、何も解決することは出来やしない。

「君が本当に何も出来ないのだとしても、大切に想ってるなら傍に居てやってくれよ。その方が芥生さんからしても望むことのはずだから」

 残された時間は、もう少ない。不確定な僕という可能性に賭けるくらいであれば、今確かにある関係を大切にするべきだ。それは、日常を続けたいという芥生さん自身の希望にもそぐうものなのだろうから。

 しかし、納得をするような様子はなく僕を説得する言葉を探すように彼女は口を噤む。芥生さんが月へと浮かんでいく姿を見たのが、僕ではなく彼女であればどれほど良かったのだろうか。実際的な手助けしか出来ない癖に、それすらも未だ出来ていない僕が傍に居るくらいならば、支えになってくれるような人が隣に居る方がずっと良い。

 僕だけが芥生さんを助けられるという確証はない。今僕が彼女と共に行動をしているのは偶然の、タイミングの話だ。月へと飛び立つ彼女を見かけたのが僕ではない誰かなら、その人でも代わりになっただろう。だからこそ、そうであれば良かったという正解は存在していて、自らの能力不足が嫌になる。

 僕が隣に居るべきだという言葉は、彼女が芥生結に残された時間を知らないからだ。いつまでも、彼女自身の中にある問題を抱え続けて生きなければならないのであれば、それが彼女を壊すよりも先に治すべきだろう。向き合うべきだろう。けれど、そのような時間が既に残されていないのだとすれば、問題を抱えたままであったとしても幸福に生きた方が良い。僕が支えるべきだという彼女の意見も、僕ではない誰かと今まで通りの日常を過ごすべきだという僕の意見も、視点が異なるだけで正しさを有していることには代わりがないのだからどうしようもない。互いを説得しようとしたところで、話は平行線上を進み、交わることがないのだから。

「そっか。それは残念だな」

 彼女は韜晦めいた様子ではなく、本心から残念だというように零す。言葉は、必ずしも真実を映し出すものとは限らない。意識的に、あるいは無意識的に人は虚飾を身に纏い自らの本質を嘘の中に隠す。だからこそ、素朴に諦めの言葉を吐いたその様子は意外でもあり、感心するようなものでもあった。

「けど、私の言葉は変わらないよ。出来れば、結の傍に居てあげて欲しい。彼女の助けになって欲しい。お願い」

「助けにはなれないって言っただろ」

「うん、聞いた。でも、君が受け取るのかどうかは別として私が言うのは自由でしょ」

 それは、当たり前のことだ。祈りは最も個人的であり、誰にも止める権利のない、止めることの出来ない人間的な行為なのだろうから。

 信頼、というのは違うだろう。彼女はそうしたものを寄せることが出来るほど僕のことを知らないはずだ。けれど、彼女は不思議な確信を持って僕に頼む。それは彼女の強さがゆえなのだろうと思う。思考を止めて託すのではなく、自分には出来ないことだと知っているからこそ、他人に託す。それも、信頼をしていない相手に。根本的に他者という存在を信頼することの出来ていない僕のような者からすれば、とても出来やしないことだ。

「分かったよ、頼まれたということは覚えておく」

「ありがとう。そう言って貰えるだけでも十分だよ」

 毒気のない笑顔を向けられる。僕には何も出来ないのに、何かを期待されるような笑顔を向けられるのは、あまりいい気分のすることではなかった。

 駅へと辿り着くと約束通り彼女は「それじゃ、また明日」と言って先頭車両の訪れる方へと歩いて行く。僕は、反対のホームの端で電車が訪れるのを待つ。

 頼まれたとしても、僕は僕の中の意志を変えるつもりはなかった。同情的であるべきではない。それは、本来の目的のためには不要であり、もっと言えば足枷にすらなるものだ。荷物は少ない方が良い。今回の問題に限らず、人生においてその事実は変わらない。必要となれば、何かを切り捨てなければならない。そうして人は生きていくのだから。

 頼まれたくなんてなかったものだと、つくづく思う。僕は誰かを意識的に切り捨てることが出来るほど強い人間ではない。選ぶような余地を与えないで欲しかった。改めて、僕は芥生結という人間を切り捨てなければならないことを自覚する。

 強くなりたかった。どこまでも汚れて、どこまでも残酷になりたかった。けれど、それは願ってなることが出来るようなものではないのだから、僕は自らの選択の結果を認めなければならない。そうして去来する痛みを、受け入れなければならない。

 早く眠ってしまいたい。そう思いながら、電車に乗る。意識は妙な明朗性を保ったままで、静かに電車に揺られていく。

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