昼過ぎから空の色が変わり始めた。朝のうちは晴れていたのに、西の空に黒い雲が現れて、みるみるうちに広がっていく。風も急に強くなった。

 太郎は相変わらずケヤキの上にいる。高い枝から庭を見下ろして、何かを狙っている様子だ。風で揺れる葉の影に、小鳥でも隠れているのかもしれない。太郎の尻尾が小刻みに動いている。狩りをするときの仕草だ。

 雲が太陽を覆った。庭が急に薄暗くなる。気温も下がったようで、肌寒い風が吹いてくる。私は縁側に戻って、雨が降り始める前に洗濯物を取り込もうと思った。

 バスタオルを物干し竿から外していると、最初の雨粒が頬に当たった。大きくて冷たい雨粒だ。私は急いで残りの洗濯物を取り込む。太郎の方を見ると、まだケヤキの上にいた。雨粒がぽつぽつと落ち始めているのに、降りてくる気配がない。

「太郎、雨だぞ。降りておいで」

 太郎は私の方を振り返ったが、すぐにまた狩りに集中してしまった。雨粒が太郎の毛に当たっているのが見える。でも太郎は気にしていない様子だ。

 雨脚が急に強くなった。最初はぽつぽつだった雨が、みるみるうちに激しくなる。夕立だ。夏の午後によくある、突然の激しい雨。雨粒が地面を叩く音が大きくなっていく。

 私は濡れたタオルを持って庭に出た。太郎を迎えに行くためだ。芝生はすでに雨で濡れ始めている。足裏に冷たい水の感触が伝わってくる。

「太郎、こっちにおいで」

 太郎はやっと雨の激しさに気づいたようで、ケヤキから降りてきた。しかし、家に向かってくるのではなく、庭の奥の方へ走っていく。おそらく雨宿りできる場所を探しているのだろう。

 こういう時、猫という生き物は全く飼い主の言う通りに動いてくれない。風の吹くまま気の向くまま、自分のやりたいことをやりたいようにやる。雨が嫌いだというのなら、家の中に入ればいい話だ。どうして反対方向に走ってしまうのか。

 私は雨に撃たれながら、思わず笑ってしまった。きっとこうして、太郎と追いかけっこしている時間すら愛おしいのだ。

 私はやれやれと口をついて、早歩きで太郎を追いかけた。雨が激しくなって、視界が悪くなってくる。太郎の茶色い毛が雨に濡れて、黒っぽく見える。太郎は庭の隅のツツジの茂みに身を隠した。

「太郎、こっちの方が乾いているぞ」

 太郎は茂みの中でうずくまっている。雨宿りにはなっているが、それでも雨粒が葉の隙間から落ちてきて、太郎の背中を濡らしているのだ。植物の傘は雨漏りが酷い。私はタオルを広げて、太郎を包もうとした。

 そのとき、向こうの道路で音がした。

 ――キィーッ。

 急制動の音だ。耳を劈くような、甲高い音。続いて、何かが地面を擦る音。ガガガガという、アスファルトと何かが擦れ合う音。そして、静寂。

 私の心臓が止まりそうになった。太郎は? 猫という生き物は突然道路に飛び出す生きものだ。ふと目を離した隙に、もしかしたら車の前へ飛び出してしまったのかもしれない。

 そう思って慌てて茂みを覗いた。あぁ、良かった。太郎はここにいる。ツツジの茂みの中で、雨宿りをしている。私は安堵の息を吐いた。

 でも、何かが起こったのは確かだ。普通じゃあんなブレーキ音、聞こえるはずがない。私は太郎を抱き上げて、急いで家に戻った。太郎の体は雨で濡れて冷たくなっていた。おかしい。いつもだったら少し腕の中で抵抗するはずだ。でも、今日はやけにおとなしい。いや、それだけじゃない。どうも小刻みに震えている。

 縁側で太郎の体をタオルで拭いた。濡れた毛からは雨の匂いがする。太郎は大人しく拭かれている。いつもなら嫌がって逃げ出すのに、今日は疲れているのか、私に身を任せている。

 タオルで拭いても、太郎の震えは止まらない。体が冷えてしまったのだろうか。私は太郎を抱いて、暖房をつけた。太郎の体温が私の胸に伝わってくる。あぁ、良かった。少しずつ、震えが収まってきたみたいだ。

 雨は激しさを増していた。窓を叩く雨音が部屋に響いている。外は昼間だというのに薄暗い。街灯が点灯している。

 さっきの音が気になって、私は窓から道路の方を見た。雨で視界が悪いが、何台かの車が止まっているのが見える。人が集まっている。何かが起こったのは確かだ。

 太郎は私の膝の上で丸くなって、目を閉じている。濡れた毛はまだ完全に乾いていないが、震えは止まっている。体温も戻ってきたようだ。

 雨音に混じって、サイレンの音が聞こえてきた。救急車だろうか。それとも警察だろうか。音は徐々に近づいてきて、家の前を通り過ぎていく。

 私は太郎を膝に乗せたまま、雨を見つめていた。窓ガラスを流れる雨粒が、外の景色を歪ませている。庭のケヤキも、雨に煙って霞んで見える。

 太郎が小さく鳴いた。夢を見ているのだろうか。前足が小さくぴくりと動く。狩りの夢かもしれない。それとも、さっきまで遊んでいた庭の夢だろうか。

 雨は夕方まで続いた。途中で何度か弱くなったが、また激しくなることを繰り返した。私は太郎と一緒に家の中で雨が止むのを待った。

 夕方になって、やっと雨が小降りになった。私は太郎を膝から下ろして、道路の様子を見に行くことにした。さっきの音が気になっていたのだ。

 玄関を出ると、雨上がりの匂いがした。アスファルトが雨に濡れて、独特の匂いを発している。空気が洗われたような、清々しい匂いでもある。熱を含んだ地面から、湿度の高い風が優しく吹く。

 道路に出ると、アスファルトには濡れた足跡があった。人間の足跡ではない。小さな足跡。雨に半分溶けかけた、泥の足跡が点々と。四つ足の動物のものだ。屈んで様子を確認すれば、肉球の形がはっきりと見えた。猫の足跡だ。

 足跡は道路の端から始まって、道路の真ん中へと続いている。そして、道路の中央で途切れていた。足跡の最後の部分は、雨で少し滲んでいるが、まだはっきりと識別できる。

 道路の端に、折れた小枝が落ちていた。ケヤキの枝だ。おそらく雨と風で折れたのだろう。枝の折れた部分は新しく、まだ樹液が滲み出している。

 アスファルトには、車のタイヤ痕が黒々と残っていた。急制動をかけた跡だ。タイヤ痕は道路の中央で終わっている。その先に、何かが地面を擦った跡があった。

 私は足跡を辿ってみた。足跡は近所の庭から始まっている。おそらく、雨宿りをしていた猫が、小降りになったタイミングで道路を横切ろうとしたのだろう。そして、車と接触した……。

 私は足跡を見つめていた。小さな肉球の跡。太郎の足跡と同じ大きさだ。この足跡の主は、もういない。車のタイヤ痕とこすった跡、そして赤のラインが、その事実を物語っている。

 家に戻ると、太郎が玄関で私を待っていた。心配そうな表情で私を見上げている。私は太郎を抱き上げた。太郎の体は温かく、確かな重さがあった。生きている重さだ。

「太郎、よかった。君は無事だ」

 太郎は私の顔を見上げて、短く鳴いた。いつものおねだりの鳴き方だ。太郎は私の腕の中で、安心しているようだった。

 でも、私の心は重かった。道路で見た足跡が頭から離れない。あの足跡の主は、太郎と同じような猫だったのだろう。自由に外を歩き回り、雨宿りをして、そして……。

 自由は軽い。でも、その軽さは時として危険でもある。風に吹かれて、思いもよらない場所へ運ばれてしまうこともある。

 私は太郎を抱いたまま、雨上がりの空を見上げた。雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。でも、その光は何だか悲しげに見えた。

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