風と檻の間で
野々村鴉蚣
庭
私の手の中で、太郎の前足が小さく震えている。いや、震えているのは私の手の方か。きっと、爪切りを持つ手に力が入りすぎているのかもしれない。深呼吸をして、もう一度太郎の肉球を優しく押す。小さな爪が現れた。小さい、小さいが、確かに鋭い。獰猛な捕食者の武器だ。
――パチン。
爪切りの金属音が畳の上に響く。切り落とされた爪の破片が、一度私の視界から消え、畳の縁のところでコロリと転がった。太郎は私の膝の上で、じっとしている。おとなしいものだ。
三歳になったばかりの太郎は、もうこの儀式に慣れている。毎週日曜日の朝、私たちはこうして過ごす。
「次、右の前足な」
太郎は小さく鳴いて、右足を私に差し出す。まるで握手をするような仕草だ。私は思わず笑ってしまう。太郎の肉球は少し湿っていて、ピンク色をしている。小さな指でも器用に物を掴むことができる。昨夜も、私が読んでいた本のページを、この指でめくろうとしていた。
二本目の爪を切る。パチン。今度は爪の破片が私の膝に落ちた。太郎の毛についた小さな欠片を取り除く。太郎の毛は短いが密度が高く、触るとふわりとした感触がある。陽光の当たる部分は少し温かい。
「はい、前足終わり。今度は後ろ足だ」
後ろ足の爪切りは少し難しい。太郎は足を引っ込めたがる。私は太郎の体を少し横向きにして、後ろ足を優しく持つ。後ろ足の肉球は前足よりも硬く、少しざらついていた。外を歩き回っているせいだろう。よく見れば、土色に爪が変色している。
――パチン、パチン。
四本の爪を切り終える。太郎は解放されると、立ち上がって大きく伸びをした。前足を伸ばし、背中を弓なりに反らせる。そのまま後ろ足も伸ばして、全身でストレッチをしている。私はその様子を見ながら、散らばった爪の破片を集めた。小さな三日月のような形をしている。
時折、これを粉にしたら漢方として売れるのではないかと錯覚する。それほどに、蛍光灯の光を受けた太郎の爪は艶やかに輝いていた。
さて、次は首輪だ。太郎の首から青い革の首輪を外す。購入してから二年が経つが、まだ色褪せていない。表面には細かい傷がついているが、それが味わいになっている。首輪の重さは軽い。手のひらに乗せても、ほとんど重量を感じない。
銀色の名札を指でなぞる。「田中太郎」と彫られた文字は、まだはっきりと読める。この名札を注文したときのことを思い出す。ペットショップの店員さんが、「可愛いお名前ですね」と言ってくれた。きっとお世辞であろうことは理解している。ペットに付ける名前が太郎とは、いったいどういう神経しているんだ。そんな風に思われたに違いない。普通猫に付ける名前と言えば、たまとか、ミケとか、その辺だろう。
太郎という名前は、私の祖父の名前だ。
布で名札を磨く。カラン、カランと小さく鳴る。金属特有の澄んだ音だ。太郎は音に反応して、私の手元を見つめている。磨き終わった名札は、朝の光を受けてきらりと光った。
「おいで、太郎」
私の言葉に、愛おしい我が子はすり寄ってくれる。その動きを利用して、首輪を太郎の首に戻す。太郎は首をかしげて、首輪の具合を確かめている。きつすぎず、緩すぎず。呼吸するのに十分な余裕がある。太郎が首を振ると、名札がカランと鳴った。
「よし、できた」
私は立ち上がって、網戸の方へ歩く。太郎も後をついてくる。トトトと軽やかな足音が畳の上を響く。太郎の歩き方は独特だ。足音を立てないように歩くこともできるが、今は私に甘えているのか、わざと音を立てて歩いている様子だった。
網戸の前に立つ。外の空気が網戸越しに入ってきた。海風だ。この家は海から五百メートルほどの場所にある。風には塩気が混じっている。太郎も風を感じているようで、鼻をひくひくと動かしている様子だ。
ふと視線を低くすれば、庭の紫陽花が風に揺れているのが見える。昨夜の雨で花びらが重くなって、枝が下に垂れている。青い花と白い花が混じって咲いていて、角度によってはまるっきり別の風景だ。紫陽花の向こうに、ケヤキの大きな幹が見える。このケヤキは私が子供の頃からここにあった。今では太郎の遊び場になっている。
土の匂いも風に混じっている。雨上がりの土特有の、濃厚で湿った匂い。ミミズや小さな虫たちが活動を始めた匂いでもある。太郎はこの匂いを嗅ぐと、いつも興奮するみたいだ。きっと狩猟本能が刺激されるのだろう。
「出たいのか?」
太郎は私を見上げて、短く鳴いた。いつものおねだりの鳴き方だ。私はシャッと網戸を開ける。網戸のレールに砂が溜まっていて、少しざらつく感触がある。開けた瞬間、外の空気が一気に部屋に流れ込んできた。
太郎は迷わず庭に飛び出していく。縁側から芝生の上に軽やかに着地すると、振り返ろうともせずに大地を踏みしめた。きっと今は、外の感触を確かめているのだろう。しばらくすると、太郎は私の方を見てにゃぁとだけ鳴いた。こっちに来いという合図だ。私も後に続いて庭に出る。
足裏に芝生の感触が伝わってくる。少し湿っているが、心地よい弾力がある。芝生の間に小さな雑草が混じっている。タンポポやクローバー、名前のわからない小さな花もある。私は裸足で芝生を踏みしめながら、太郎の後を追う。
太郎はケヤキに向かって駆けていく。トトトトと軽快な足音。途中で立ち止まって振り返り、私がついてきているのを確認してから、また駆け出す。太郎にとって、これは私との遊びなのだ。
ケヤキの下に着くと、太郎は幹に前足をかけて上を見上げる。樹皮は深い溝があって、ざらざらしている。太郎の爪痕が無数についている。古い傷は樹皮が盛り上がってかさぶたみたい。新しい傷は木の白い部分が見えている。
太郎は助走をつけて、幹に飛びつく。前足の爪を樹皮に食い込ませて、後ろ足で幹を蹴りながら登っていく。身軽な動きだ。人間には真似のできない、猫特有の動き。
切ったばかりの爪でも、しっかり木登りを楽しむことはできるらしい。私は太郎を眺めながら、ホッと胸を撫でおろした。
三メートルほど登ったところで、太郎は太い枝に移る。枝の上でバランスを取りながら、私を見下ろした。得意げな表情に、私は思わず笑ってしまった。太郎の目は緑色で、陽光の下では金色に見える。
風が吹くと、ケヤキの葉がさらさらと音を立てる。太郎の乗っている枝も軽やかに揺れる。太郎はその揺れを楽しんでいるようで、体を枝の動きに合わせてジッとしていた。まるで船に乗っているかのように、自然なバランス感覚だ。
私はケヤキの根元に腰を下ろす。根が地面から盛り上がっていて、天然の椅子のようになっているのだ。海風が強いから、根っこが盛り上がっているのだと祖父が言っていた。これを板根と言うらしい。その板根に全体重を預け、太い幹を背もたれにして、太郎を見上げながら、この静かな時間を楽しむ。
太郎は枝から枝へと移動している。時々、小さな枝が折れて地面に落ちてくる。折れた枝は乾いた音を立てて芝生の上に落ちるも、太郎は落ちた枝には一切興味を示さない。彼にとって重要なのは、次のステージなのだろう。ほら、また別の枝に向かっていく。
自由は軽い、と私は思う。太郎の動きを見ていると、制約のない動きがいかに軽やかで美しいかがよくわかる。重力を忘れたような軽やかさ。風に乗るような自然さ。太郎は生まれながらにして、この軽やかさを持っている。
庭の向こうで、近所の犬が吠えている。太郎は耳をぴんと立てて、その方向を見る。しかし警戒している様子はない。慣れた音なのだろう。太郎にとって、この庭は安全な場所だ。外敵もおらず、危険もない。太郎は安心してこの軽やかさを楽しんでいる。
風がまた吹いた。今度は少し強い風で、私の髪も揺れる。太郎の毛も風になびいている。風は海の匂いと、どこかの庭の花の匂いも運んでくる。ジャスミンだろうか。甘い匂いだ。
太郎は枝の上で目を細めた。風を全身で受けて、気持ちよさそうな表情だ。この瞬間、太郎は完全に自由だった。何の制約もなく、ただ風と戯れている。
私はその光景をじっと見つめていた。太郎の軽やかな自由を、心に刻み込むように。
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