第4章:カナリア商会と経済戦争
第31話:役員任命
モンスーンが教会から退院し、カナリア商会に奇妙な平穏が戻ってから、数日が過ぎた。
ボロ小屋の本部は、静寂に包まれていた。だがそれは、停滞した静けさではない。巨大な機械が、動き出す前の、全ての部品が所定の位置についた瞬間の、張り詰めた静寂。
小屋の壁には、モンスーンが穿った巨大な穴が、いまだに夜空を覗かせている。しかし、そのすぐ隣の空間は、カレンフォンの魔法によって完璧に整えられた、貴族の書斎そのものだった。埃っぽい床と、豪奢な絨毯。歪んだ木の柱と、彫刻の施された書見台。そのちぐはぐな光景こそが、今のカナリア商会の姿そのものだった。
部屋の隅では、モンスーンが黙々と、黒曜石のように輝く新しい剣の手入れをしていた。その所作には一切の迷いがなく、ただひたすらに刃を研ぐ砥石の匂いと、石が金属を擦る心地良い音だけが、規則正しく響いていた。
私の不器用な資本主義的告白以来、彼は私の言葉を絶対のものとして、そして私自身を守るべき唯一の至上命題として、その魂に刻み込んでいるようだった。時折、その視線がこちらに向けられる。それは、主の命令を待つ忠実な騎士の、静かで、しかし燃えるような眼差しだった。
カレンフォンは、元自身の領域である書斎のソファーに腰掛け、分厚い魔導書を読み解いていた。彼女は、もはや没落貴族の令嬢ではない。この商会が持つ未知の可能性に、知的な好奇心を燃やす、一人の研究者としての顔を見せ始めていた。
そしてマングルは、入り口近くの壁に寄りかかり、目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、その全身から放たれる気配は、いつでも飛びかかれるようバネを縮めた獣のそれだ。彼は、この奇天烈な若者たちの集団の中で、自らの役割を静かに、そして正確に見定めている。
私は、その三人の姿を、私の執務机と化したカレンフォンのテーブルから見渡していた。感情、忠誠、好奇心、そしてプロ意識。バラバラだった歯車が、今、一つの目的のために噛み合い始めている。
ならば、私がすべきことは一つ。この機械の、次なる目的地を示すことだ。
「これより、第一回カナリア商会・経営戦略会議を始めるわ」
私の静かな、しかし有無を言わせぬ声が、部屋の空気を支配した。
三人の視線が、一斉に私に集まる。モンスーンは剣を置き、カレンフォンは本を閉じ、マングルは薄目を開けた。
「まず、我が商会の当面の目標を共有する。それは、『財閥化』よ」
《『財閥化』! 来ました、成長戦略の最終形態! 全ての産業を傘下に収める、完全なる市場独占(モノポリー)! ああ、この事業計画書……評価額は、もはや測定不能(プライスレス)です!》
脳内で《リスク管理》が、早速、感嘆の声を上げた。その声には、新たな事業計画に対する純粋な興奮が満ちていた。
「ざいばつ……? それは、どんな魔物なんだ?」
最初に口を開いたのは、やはりモンスーンだった。彼の思考は、常に脅威の有無を第一に判断するらしい。
「魔物ではないわ、モンスーン。もっと恐ろしくて、もっと強力なものよ」
私は、羊皮紙の上にインク壺からインクをつけたペンを走らせ、一つの頂点から無数の線が伸びる、巨大な組織図を描き始めた。その線は、迷いなく、冷徹な秩序を描き出していく。羊皮紙が薄すぎたようで、書斎にいくつもの黒いシミができたが、気にしてはいられない。
「平たく言えば、あらゆる産業を傘下に収める、巨大な企業グループのこと。この国を動かすのは、王家や貴族だけではない。食料を生産する農業、富を循環させる金融、物資を運ぶ物流、そして新たな価値を生み出す製造業。これら全てを支配し、国家の中に、もう一つの経済国家を創り上げるの」
私の壮大な構想に、カレンフォンとマングルが息を呑むのがわかった。カレンフォンは貴族として、その計画が王権に対する静かなる挑戦であることを理解し、マングルは裏社会の住人として、それが既存のあらゆる権益を根こそぎ破壊するものであることを理解したのだ。
「その第一歩として、まず組織の効率化を図る。これより、カナリア商会は『マトリックス型組織』へと移行します。情報と命令の系統を、再定義するわ」
私は、組織図の中心に、自らの名前を書き込んだ。その文字は、この新たな帝国の絶対的な支配者を示す、一つの印だった。
「「「……?」」」
三人は聞き慣れない単語に息を止める。
「CEOである私を頂点に、各部門の責任者を明確にする。部門間の連携は密にしつつ、それぞれの専門分野における意思決定は、各責任者に大幅な権限を委譲する。私が求めるのは、盲目的な服従ではない。それぞれの持ち場で、最大限の利益を生み出すための、自律的な判断よ」
それは、彼らが知る、王が家臣に命じるだけの一方的な封建主義とは、全く異なる組織論だった。私はインクで黒く染まったペンを置き、一人一人と、順に目を合わせた。その瞳に、新たな世界のルールを刻み込むように。
「まず、カレンフォン。あなたを、カナリア商会の**CTO(最高技術責任者)**に任命します」
カレンフォンは、その聞き慣れない称号に、わずかに眉をひそめた。
「あなたの持つ魔法の知識は、我が商会にとって唯一無二の技術資産よ。あなたの任務は、**魔法の工学利用に関する研究開発**。ただの生活魔法ではないわ。灌漑水路建設で見せたように、ゴーレムによる自動化土木工事、エンチャントによる農具の性能向上、遠話魔法を用いた通信網の構築……あなたの魔法は、この世界の産業構造そのものを覆す、革命の起爆剤になる」
私の言葉に、カレンフォンの瞳が知的な好奇心に輝き始めた。彼女は、自らの力が持つ、新たな可能性に気づいたのだ。
「研究開発のための資金は、事実上無制限とします。この金庫にある資産を、あなたの裁量で自由に使って構わない」
私は、部屋の隅に置かれた、重々しい青銅の鍵を彼女の前に滑らせた。第一金庫の鍵だ。その金属音は、部屋に響くにはあまりにも重い。
「ただし、その資金の使用は、現時点では固く禁じます。資金の使用許可は、全てCEOである私の決裁事項。今はただ、最小限のコストで、最大限の可能性を探りなさい。あなたに問うのは、その知性よ。金で解決する安易な道は、許さないわ」
それは、究極の信頼の証であり、同時に、金の力で縛り付けるための、見えざる首輪でもあった。
「……謹んで、お受けいたしますわ。ナツキ様」
カレンフォンは、その意図を正確に理解し、挑戦的な光を目に宿しながら、静かに、しかし力強く頷いた。
「次に、マングル」
「へいへい、会長」
彼の返事は、先ほどまでとは違い、プロの緊張感を帯びていた。
「あなたを、**諜報管理責任者**に任命する。任務は、金融業への再挑戦に向けた、徹底的な情報収集よ」
その言葉に、マングルの目が、夜の獣のように鋭く光った。
《金融市場への再介入……。前回の撤退要因は『信用リスク』の評価不足でした。今回は諜報活動によるインサイダー情報で、そのリスクをヘッジする……完璧な作戦です》
脳内で《リスク管理》が、彼女なりの冷静な分析を加えた。
(金融……銀行、ギルド、闇金)
私は内心で、約一年前の苦い記憶を反芻する。この商会を立ち上げた直後、私たちは酒場でギルドという既存の「信用」の壁に、無様に跳ね返された。あの屈辱が、私を闇金融という裏道へと走らせ、そして、巡り巡って、目の前のこの男との出会いを生んだ。なんと皮肉な運命だろう。
「同じ轍は踏まないわ。正面からぶつかるのは愚策。金融市場は、信用と伝統でできた、見えざる城壁よ。私があなたに求めるのは、その城壁の、腐った石材を見つけ出すこと」
私は、マングルの目を見据えて続けた。
「金の流れ、人の繋がり、法律の抜け穴、そして、彼らが隠している汚い秘密。あらゆる角度から市場を分析し、最も効果的に、そして『合法的』に市場を奪うための戦略を立案しなさい」
私の言う「合法的」という言葉に、マングルは獰猛な笑みを浮かべた。
「……はっ、そいつは面白そうだ。連中の化けの皮、根こそぎ剥いでやる」
彼は、この仕事が、ただの殴り込みよりも遥かに自分の性に合っていることを理解したようだった。
そして、最後に。私は、私の隣で、固唾をのんで話を聞いていた少年に向き直った。
「モンスーン」
「お、おう!」
彼は、背筋を伸ばして、まっすぐに私を見つめている。その瞳には、彼に与えられるであろう任務への、純粋な期待が満ちていた。
「あなたを、カナリア商会の**CSO(最高警備主任)**に任命します」
「さいこう……けいび……しゅにん……?」
彼は、その長ったらしい肩書を、必死に復唱しようとしている。
「ええ。表向きは、商会の全資産に対する物理的な保安業務の最高責任者。ですが、あなたの真の任務は、ただ一つ」
. 私は、彼の燃えるような瞳を、まっすぐに見つめ返した。その瞳の奥にある、純粋な忠誠心に、語りかけるように。
「**『騎士』**として、CEOである私の、完璧な護衛に徹すること。私がこの帝国を築き上げるまで、私の身に何一つ脅威が及ばぬよう、その剣で、全ての障害を排除しなさい。会社の存続は、私の存続にかかっている。故に、あなたの任務こそが、この商会の最重要事項よ」
それは、最も重要な、そして彼にしかできない任務だった。モンスーンは、一瞬だけ驚いた顔をしたが、やがて、その顔に誇りと決意を浮かべ、胸に手を当てて、力強く頷いた。
「……わかった。任せろ、ナツキ。お前は、俺が絶対に守る」
その言葉に、嘘も、迷いもなかった。
《はい、いただきました!『俺が絶対に守る』! 最強の買いシグナルです! 競合(カレンフォン様)の事実上の市場撤退も確認済みです! これはもう……我が社の恋愛事業部、一気に上場来高値更新ですよぉ!》
脳内で《リスク管理》が飛び跳ねる。
CEO、CTO、諜報管理責任者、そして最高警備主任。
私の帝国を動かすための、最初の役員たちが、今、このボロ小屋で、正式に誕生した。
私は、私の作り上げた、完璧な布陣を見渡し、静かに微笑んだ。
非効率な感情は、今、効率的な「役職」という名の器に収められた。
ここからが、本当の始まりだ。
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