第23話:キャッシュフローと自由主義
カナリア商会の新たな会議室——もとい、ボロ小屋の中に突如として出現した貴族令嬢の部屋で、最初の経営会議が開かれていた。豪華なティーテーブルを挟み、私とカレンフォンが向き合う。モンスーンは私の背後に立ち、マングルは面白そうに壁に寄りかかっていた。
議題は一つ。買収の直接的な原因となった、カレンフォン家の荘園で起きている農奴の反乱についてだ。
「まず、方針を決めます」
私は、マングルが事前に用意した荘園の地図をテーブルに広げ、きっぱりと告げた。
「反乱を、武力で鎮圧するつもりはありません。非効率的です。反乱の首謀者だけを捕らえ、残りの農奴には『取引』を持ちかけます」
「取引、ですって?」
カレンフォンが、不思議そうに眉をひそめる。
「ええ。農奴の身分を解放し、彼らを自由な小作農とします。土地はこちらが所有しますが、収穫した作物の一定割合を税として納めることで、自由に土地を耕し、生活することを許可する。さらに、こちらから新しい農具や灌漑水路への投資も行います。私が以前他の村で行った『自由主義政策』の応用です」
それは、私が以前の失敗から学び、改良した統治モデル。労働者にインセンティブを与えることで、生産性を最大化し、長期的な利益を確保する。完璧な経営戦略のはずだった。 だが、カレンフォンの反応は、私の予想を遥かに超えていた。
彼女は、私の言葉を聞くと、心底理解できないといった顔で、小さく首を傾げた。
「……申し訳ありません、ナツキ様。なぜ、そのようなことを?」
「なぜ、とは?」
「なぜ、彼らを自由にする必要が? 農奴は農奴ですわ。土地に付属する、財産の一部。畑を耕す家畜と同じ。彼らに自由を与えて、一体何になるというのです?」
その言葉には、悪意も、侮蔑もなかった。
ただ、純粋な、そして根深い貴族としての価値観だけがあった。 私の脳が、一瞬フリーズする。 この世界の人間は合理的ではないと学んだはずだった。だが、これは、その次元を超えている。彼女は、人間を人間として見ていない。ただの「資産」として、それも生産性の低い固定資産としてしか認識していないのだ。
《お客様! これは由々しき問題です! 労働力を単なる財産と見なす封建主義的な考え方は、市場の自由な競争を阻害し、経済の停滞を招きます! 人的資本の価値を理解していただかねば!》
脳内で《リスク管理》が警鐘を鳴らす。
わかっている。道徳や倫理で彼女を説得するのは不可能だ。ならば、私が使うべき言語は、一つしかない。
「...カレンフォン。少し、お勉強の時間です」
私は懐から、帳簿と炭を取り出した。そして、テーブルの上に広げられた羊皮紙の裏に、猛烈な勢いで数字とグラフを書きなぐり始める。
「まず、これが現在のあなたの荘園の生産性です。農奴一人が一年間に生み出す小麦の価値を100としましょう。次に、これが私の領地のデータ。身分を解放された小作農一人が生み出す価値は、平均して162。実に6割以上も高い。なぜか? モチベーション、つまり労働意欲が違うからです」
私はグラフを指し示し、早口でまくしたてる。
「恐怖による支配は、短期的には有効です。しかし、労働者は常に監視されなければならず、その管理コストは非常に高い。一方、利益をインセンティブとした自由な労働者は、自らの利益のために、自発的に生産性を向上させようと努力します。管理コストはほぼゼロ。さらに、初期投資として灌漑水路を整備した場合の期待収益率は、5年間で320%に達します。これは……」
「……」
カレンフォンは、私が叩きつけるデータの暴力に、ただ呆然としていた。彼女が今まで学んできた帝王学や作法とは、全く異質の、数字だけが支配する世界。
だが、彼女は愚かではなかった。私の示す数字が、利益と損失という、あまりにも単純で絶対的な結果を物語っていることだけは、理解できたようだった。
「……わかり、ましたわ」
長い沈黙の後、彼女はか細い声で呟いた。
「あなたの仰ることは、まるで理解できません。ですが……その、すうじ、とやらが正しいのでしたら……お任せいたします」
彼女は、まだ心の底から納得はしていない。だが、私の提案を受け入れた。 それでいい。理解は、後からついてくる。
カレンフォンとの基本合意は得られた。だが、私の頭脳はすでに次の問題に直面し、警鐘を鳴らしていた。 荘園の再建計画。それは、私が以前に手掛けた村とは比較にならないほどの規模だ。灌漑水路はより長く、広範囲に掘る必要がある。必要な農具、肥料、種籾の量も桁違い。学校の建設費用も馬鹿にならない。
私は羊皮紙の上で、無意識に予算案を計算していた。 (……カレン家の買収で金貨3万4000枚を支出。残りの資産は金貨1万4500枚。荘園への初期投資費用、概算で金貨2万枚……足りない。全く足りない……!)
背筋に、冷たい汗が流れた。 完璧な計画のはずだった。だが、最も基本的な要素——資本が、決定的に不足している。このままでは、計画は絵に描いた餅。私は貴族の地位と広大な不良債権だけを抱え、破産することになる。
《お客様! 資金ショートの危機です! キャッシュフローがマイナスに転じ、このままでは債務不履行(デフォルト)に陥る可能性があります! 早急な資金調達が必要です!》
脳内で《リスク管理》がパニックを起こしているが、その声は私の耳には届いていなかった。
どうする。どうすれば、短期間で莫大な資金を調達できる? スキル《投資信託》で手持ちの金貨を増やす? だめだ、時間がかかりすぎる。日利3%に成長したとはいえ、金貨数千枚を倍にするには、まだ数十日を要する。反乱を起こした農奴たちは、そんなに待ってはくれない。
私のスキルには、欠点がある。資産が増えれば増えるほど、刻印を維持するために必要な魔力量も増大する。そして、その魔力量は、対象の「価値」ではなく「質量」に比例するのだ。
つまり、同じ価値を生み出すのであれば、重い金貨を大量に増やすよりも……
(……そうだ)
私の思考に、一筋の光明が差した。 必要なのは、価値と質量の比率が極端なもの。 質量が限りなく小さく、価値が限りなく大きいもの。 それさえあれば、私の魔力負担を最小限に抑え、最高効率で資産を増殖させることができる。
私は顔を上げ、不思議そうに私を見つめているカレンフォンに向き直った。
「カレンフォン。一つ、お伺いしてもいいかしら」
「ええ、なんでしょう」
「カレン家に代々伝わる家宝のようなものはございますか? 例えば、宝飾品、あるいは希少な魔法素材……。とにかく、手のひらに乗るほど小さいのに、金貨数千枚、いえ、数万枚の価値があるようなものが」
私の突拍子もない質問に、カレンフォンはきょとんと目を丸くした。
「小さくて、価値のあるもの……ですって? 宝飾品の類は、ほとんど処分してしまいましたわ。どうして、そのようなものを?」
当然の疑問だ。私は、あらかじめ用意しておいた、もっともらしい嘘を口にした。 「計画に必要な追加資金を、外部から調達するためです。重くてかさばる金塊よりも、小さく高価な資産の方が、担保としての交渉がしやすい相手もおりますので」
その説明に、カレンフォンは半分納得し、半分訝しむような顔をしながら、しばらく考え込んでいた。やがて、何かを思い出したように、はっと顔を上げる。
「……一つだけ、ございますわ」
彼女の声は、少しだけためらいを帯びていた。
「我が家に古くから伝わる、『賢者の涙』と呼ばれる宝石が。ですが、あれは……」
カレンフォンはそこで言葉を切り、どこか遠い目をする。
賢者の涙。 その名前が、私の資本主義の新たな起爆剤となることを、この時の私はまだ知らなかった。
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