第5話:神の介入

 モンスーンとの森での生活が始まって、一週間が経った。 日中は食料調達、夜は焚き火の番。言葉少なながらも、互いの存在を前提とした奇妙な安定がそこにはあった。飢えと渇きから解放され、私の体力も少しずつ回復してきた。


 体力が戻れば、思考もまた本来の働きを取り戻す。 今の私には、自由という権利はあるが、それを活かすための資本がない。ゼロからの再スタートだ。いや、このサバイバル能力皆無の現状を考えれば、マイナスからのスタートと言っていい。


(……何か、増やせるものはないか)


 再びあの地獄のような苦痛を味わうのはごめんだが、このままモンスーンの庇護に甘え続けるわけにもいかない。彼は優しいが、それはあくまで彼が私を「か弱い仲間」だと誤認しているからに過ぎない。


 対等なパートナーシップを築くには、私も彼に何かしらの価値を提供する必要がある。それが取引の基本だ。


 その日、モンスーンが少し離れた場所に罠を仕掛けに行っている隙に、私は足元に転がっていたドングリを一つ拾い上げた。 銅貨のように価値のあるものではないが、今は他に試せるものもない。何より、魔力への負荷が少ない小さなもので、スキルを行使する感覚を取り戻しておきたかった。


「……刻印を」


 手のひらの上のドングリに意識を集中させる。一年間、魂を削り続けたあの行為だ。体が覚えていたのか、以前よりずっとスムーズに、微かな魔力が指先からドングリへと流れていくのを感じた。ドングリの表面に、私だけが見える淡い光の文様が一瞬だけ浮かび上がり、消える。


《いやー、お久しぶりです、この感覚! やっぱり投資はこうでなくっちゃ! さてお客様、このドングリの将来的な期待収益率ですが、食料としての価値、発芽し木材資源となる可能性を考慮すると……》

 脳内で《リスク管理》が楽しそうに分析を始めた、その時だった。


「——ナツキ? 何してるんだ?」


 背後からかけられた声に、私の心臓が凍りついた。慌てて振り返ると、いつの間にか戻ってきていたモンスーンが、不思議そうな顔で私を見下ろしていた。


しまった。完全に油断していた。


「い、いや、これは……」

しどろもどろになる私に、彼はさらに問いかける。


「それ、もしかして魔法か? 俺、人が魔法使うところ、ちゃんと見たことなくて」


 彼の瞳は、純粋な好奇心に満ちていた。疑っているわけではない。だが、このスキルをどう説明すればいい? 「刻印をつけたものを一日2%ずつ増やす能力だ」と正直に言ったところで、信じてもらえるはずがない。下手をすれば、不気味な魔女か何かだと思われるのが関の山だ。


(どうする!? 何か、うまい言い訳は……!)


 私が内心で悲鳴を上げた瞬間、待ってましたとばかりに《リスク管理》が声を張り上げた。


《お任せください、お客様! こういう時は、当たり障りのない言い訳でその場を切り抜けるのがセオリーです!》

(何かいい案があるのか!?)

《はい! ずばり、『これは、ドングリさんとお話しする魔法なんです!』というのはいかがでしょう!》

(……本気で言っているのか、お前は)

《自然を愛する心優しい少女というキャラクターを印象付けることで、彼の庇護欲をさらに刺激し、恋愛フラグをより強固なものにするという高度な戦略ですよ!》


 そんな言い訳が通じるはずがない。目の前の少年は、私と同い年とはいえ、この過酷な自然の中でたった一人で生き抜いてきた猛者だ。


 そんな彼に「ドングリとお話しする」などという戯言が通用するわけが……。




「——へえ、ドングリと話せるのか。すごいな」


 ……通じた。 私の予想は、あっさりと裏切られた。モンスーンは少しも疑うことなく、感心したように私の手の中のドングリを覗き込む。「どんな話するんだ?」と、彼の目はキラキラと輝いている。どうやら彼は、戦闘能力やサバイバル術に能力値を全振りした結果、他人を疑うというスキルが著しく欠如しているらしい。


 あまりの純粋さに、罪悪感が芽生えそうになる。だが、これで追及を逃れられるなら好都合だ。私が何か適当なことを言って別の話題に話を移そうと口を開きかけた、その瞬間だった。


ガサガサッ!


 すぐ近くの茂みが、尋常ではない音を立てて激しく揺れた。 モンスーンの表情から好奇の色が消え、一瞬で鋭い戦士のそれに切り替わる。彼は私をかばうように前に立つと、錆びついた剣に手をかけた。


「……何か、でかいのが来る。隠れてろ!」


 彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、茂みを突き破って「それ」は姿を現した。 猪。いや、猪などという生易しいものではない。軽トラックほどの巨体に、象の牙のように湾曲した二本の巨大な牙。爛々と血走った目が、明確な殺意をもって私とモンスーンを捉えていた。


《お客様! 推定市場価値、約金貨15枚相当の魔物、グレートボアの出現です!》


 そんな市場価値、今はどうでもいい。 絶望的な体格差を前に、私はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 絶望的なまでの質量が、空気を震わせる。


 ブンッッ!


 グレートボアの突進は、もはや生物のそれではなく、一種の自然災害だった。空気を切り裂く凄まじい音が響き渡る。その攻撃をモンスーンは紙一重で牙をかわし、その勢いを利用して側面に回り込むと、錆びついた剣を脇腹に突き立てた。


「食いやがれッ!!!」


グニュ...


 しかし、返ってきたのは分厚い脂肪と筋肉に阻まれる鈍い感触だけ。剣は浅く突き刺さったものの、致命傷には程遠い。


グルォォオオオ!


 致命傷にはならずとも、痛みは与えたらしい。逆上したグレートボアが巨体を旋回させ、横薙ぎに牙を振るう。モンスーンは咄嗟に後方へ跳んでそれを避けるが、体勢を立て直す間もなく、追撃の頭突きが彼の体を無慈悲に打ち据えた。


「ぐっ……!」


 小さな体が木の葉のように舞い、数メートル先の太い幹に叩きつけられる。一度、二度と地面を跳ね、動かなくなった。 私は息を呑んだ。市場価値、金貨15枚。その価値が、今、目の前で暴力的なまでにその力を誇示している。対するモンスーンの市場価値は、ゼロだ。この取引は、始まる前から結果が見えていた。


「……ナツキ、逃げろ……!」


 瓦礫の中から聞こえるような、か細い声。見ると、モンスーンが片膝をつき、折れたかもしれない腕で体を支えながら、必死に立ち上がろうとしていた。その目は、まだ死んでいない。だが、彼の視線は私を捉え、ただ逃げろと、そう訴えかけていた。


 そうだ、逃げなければ。 これが、最も合理的な判断だ。ここで二人とも死ねば、全てが終わる。私だけでも生き延びれば、再起の機会はある。モンスーンという資産は失うが、自己という最重要資産は守れる。


 それが資本主義の、生存戦略の鉄則だ。 恐怖と、冷徹な計算が、私の足を動かそうとする。踵を返し、この絶望的な市場から撤退しようとした、その時だった。


《いやですっ! お客様、行かないでください!》


 脳内に響いたのは、いつもの能天気な声ではない。しゃくりあげ、涙で震える、悲痛な声だった。


《ここで逃げたら……ここで逃げたら、私の理想のラブストーリーが台無しじゃないですか! 絶体絶命の危機を、命を懸けて守る彼と、彼を信じて共に戦う彼女! そうやって二人の絆が深まって、ハッピーエンドを迎えるんですよぉ! 私の……私の唯一の楽しみを奪わないでくださいぃぃ!!うわああああん!!!》


(……なんだ、それは)


 あまりにも身勝手で、あまりにも場違いな絶叫。私の思考が、完全に停止した。 友が死にかけている。私も死ぬかもしれない。そんな極限状況で、このスキルは「自分の見たい物語の展開」のために、私に戦えと泣き叫んでいる。 狂っている。こいつも、私も。


 その一瞬の硬直が、運命を分けた。 グレートボアが、とどめを刺さんとモンスーンに向かって最後の突進を開始する。もう、間に合わない。




 その、瞬間だった。




 世界が、白く染まった。 私の背後から、太陽が落ちてきたかのような強烈な光が放たれ、森のすべてを照らし出す。それは熱を伴わない、どこまでも神聖で、温かい光だった。


「――『原罪を喰らう浄化の光ホーリー・イーター』」


 凛とした声が響くと同時に、光はグレートボアに収束する。


 グギャッアアアッ————


 獣の断末魔は、苦痛のそれとは違った。まるで、その身に宿っていた穢れそのものが浄化され、消滅していくような、甲高い悲鳴だった。


 光が晴れた時、そこには何も残っていなかった。いや、正確には、黒く焼き焦げた巨大な魔物の亡骸だけが、煙を上げて転がっていた。


 何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くす私とモンスーン。


  恐る恐る、光が来た方向を振り返る。 そこに立っていたのは、一人の男だった。


  質素だが清潔な法衣を身に纏い、手には聖印が刻まれた簡素な木の杖を握っている。歳の頃は三十代だろうか。穏やかな笑みを浮かべたその顔には、一切の敵意も殺気も感じられない。


 男は、私とモンスーンをその優しい瞳で見つめると、静かに口を開いた。


「神のご加護を。怪我はありませんか、迷える子羊たちよ」



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