親愛なる、月の海を知る君へ

@rikorikorisako

月の兎

 もう立秋だなんて嘘だ……。

 俺はカレンダーを見てそう呟いた。

 八月に入ってから毎日のように続く熱帯夜。

 今日やっとその熱帯夜が終わりを告げたわけだけど、暑いものは暑い。

 これを″秋″だと言われるなんて、たまったもんじゃない。

 コップ一杯の水を飲み干して、エアコンの切れたリビングから逃げるように自室に戻った。

 部屋に入ると薄らと汗がにじんだ身体を冷気が包み込む。

 ベランダからは蒼白い月明かりが差し込んできていて、少しまぶしかった。

 ベッドに寝転がり、何度か寝返りを打つとだんだん意識が遠のいてきた。


 ※


 次に目を開けたとき、俺はぽつんと波止場の端に立っていた。

 おかしな状況からすぐに夢だと気づいた。

 気づいたけれど、だからといってどうすることもできない。

 俺は裸足のまま、ひんやりしたアスファルトの上に寝間着姿で突っ立っていて、足下には海が優しく波打っていた。

 海をのぞき込んでも真っ暗な闇が広がるだけで、星と月が煌めく夜空の方がよっぽど明るい。

 周りを見渡してみたが、船は一隻も泊まっておらず、人の気配もまるでなかった。

 ざざっという波の音だけが耳に入ってきて心地よい。

 その場に座り込んで、しばらくの間はうごめく黒い海をながめていた。

 ふと、どのくらい深いのだろうかという純粋な疑問が浮かんできて、興味本位で足湯のように足を海水に着けてみた。

 氷みたいに冷たい水がふくらはぎ当たりまでを覆い、自分の足先が闇に消えた。

 まだ、底に足は付かない。

 どうやら相当深いらしい。

 さすがに怖くなって足を引き上げようとしたとき、あろうことか俺の体はひとりでに海面へにじり寄り、勢いよく飛び込んだ。

 激しい水飛沫を上げながら、仰向けに海中へと沈んでいく。

 月光が揺らぐ水面がだんだんと遠ざかり、口からは肺にある空気が余すことなく漏れ出ていった。

 耳が痛い、息ができない、体が重い……。

 早く夢から覚めたいと必死で願いながら、暗い海底へと引き寄せられていく。

 すると、誰かに背中を支えられ沈む体が止まった。

 突然の生々しい人間の手の感触に、心臓が口から出るかと思った。

「大丈夫。ゆっくり息をして」

 そう言いながら俺の体を支える人には見覚えがあった。

 お母さん……。

 声を発したくても、水中だとままならない。

 とりあえず言われるままゆっくりと深呼吸を試みると、予想外にも息ができた。

 先ほどまでの苦しさも消え、体も自在に操れる。

 嬉しさと安堵を感じて振り向くと、そこにお母さんの姿はなかった。

 体をひねって周りを見渡すと、数メートル先に揺れ動く影を見つけた。

 急いでそちらの方に体を進めると目の前を小魚の群れが横切った。

 慌てて止まるが間に合わず、魚の群れに視界を奪われる。

 かなり大きな群れのようで、銀色に光る鱗が何十回も目の前を通り過ぎていった。

 ようやくそれが収まって、揺れ動く影に手を精一杯伸ばした。


 ※


 目を開けると、見慣れた自室の天井が広がっていた。

 海中の影に向けて伸ばしていたはずの手が空を掴む。

 ゆっくりと手を胸の上に置いて、浅く短い呼吸をなんとか整えた。

 上半身だけを起こすと、シーツの上にぽたぽたと汗が滴り落ちる。

 怖い夢なんて、久々だ……。

 お母さんが夢の中に出てきたことは何度かあるけれど、なぜか今回の夢はとても恐ろしく感じた。

 枕元に置いてある時計は午前三時を指している。

 微妙な時間に起きてしまった。

 寝た方がいいのだろうが、夢から飛び起きたせいか目が冴えてしまって、寝直すには時間がかかりそうだ。

 エアコンで冷えた空気がどうにも息苦しくて、無性に外の空気を吸いたくなる。

 カラカラとベランダを開けると、生温かい夜風がカーテンを揺らした。

 もわっとした熱気に体を包まれて、また汗がにじむ。

 ベランダの柵越しに空を見上げていると、雲と雲の間から星が顔を覗かせていた。

 こうしていると、さっきの夢もだんだん記憶が薄れてくる。

 二回ほど大きく深呼吸をして、部屋に戻ろうとしたとき、こつんと何かが当たる音がした。

 音の出処を調べようときょろきょろしていたら、隣の部屋のベランダに誰かが立っている。

 よくよく目をこらすと、白いTシャツ姿の男の人が立っていた。

 何してるんだろう、こんな時間に。

 男の人はベランダから体を少し乗り出して、腕をだらんと柵の外に出していた。

 片手にはグラスを持っていて、それが一定の間隔を置きながらこつんと柵に当たる。

 どうやら音の出処はあのグラスらしい。

 隣の部屋は外から見るとあまりに生活感が感じられないから、ずっと空室だと思っていたけど、どうやら人が住んでいたらしい。

 男の人はうつろな目で空を見上げ、少し長い襟足を風に弄ばれていた。

 月明かりのせいかは分からないけど、やけに色白の肌で髪もグレーがかっているように見える。

 見覚えがない顔だけど、最近引っ越してきたのか、それとも自分と生活時間のサイクルが合っていないだけなのか……。

 ぼーっと見ていたら、男の人もこちらを向いて目が合った。

 横顔も綺麗だったけど、正面から見ると整った顔立ちがよく分かる。

 小学校の遠足で行った、美術館に展示されている彫刻が、頭をよぎった。

 しばらく何も言わずに見つめ合っていたからか、男の人がこちらを見る目は、だんだんと不信感に満ちたものになっていく。

 まずい、完全に怪しまれている……。

 ご近所さんとトラブルにでもなったら、まず間違いなくお父さんに怒られるだろう。

「あ、えっと、こんばんは」

 聞こえたかどうかは知らないけど、とりあえず挨拶はした。

 だいたい俺は子供だし、ここはマンションの三階だ。

 泥棒みたいな変質者だとは思われないはず。

「ああ、こんばんは。……おやすみなさい」

 どうやら俺の挨拶は聞こえていたらしい。

 男の人は相変わらずうつろな目でにこりともせず、無愛想にそう答えて部屋に入っていってしまった。

 かなり疲れ切っているようだけど、こんな時間に起きているということは夜勤の仕事なのかもしれない。

 お隣さんのためにも、夜はできるだけ静かにしよう。

 俺はもう数分だけ夜空を堪能してから、部屋に戻った。

 少し外の空気を吸ったからか、気分もだいぶマシになってまた深い眠りに落ちた。

 翌朝、お父さんの呼びかける声で目が覚めた。

 あの後は熟睡できたようで何か夢を見た記憶はない。

 まだ眠い目をこすりながら、リビングへよろよろと歩く。

「おはよう、寝ぼすけ。夏休みだからって夜更かししてたんだろ。気持ちは分かるが、ちゃんと生活リズム整えておけよ」

 お父さんがフライパンの目玉焼きを皿に移しながら苦笑した。

 時計を見ると、まだ朝の八時。

 普段ならもう一眠りするところだ。

 しかし、なぜお父さんがいるんだろう。

 今の時間だととっくに仕事へ出掛けているはずなのに。

「父さんな、今日は半休なんだ。だから十一時頃昼ご飯作ったら、会社行くからな」

 お父さんは俺の疑問を見透かしたかのようにそう答えた。

 今年の夏休みに入ってから一緒に朝ご飯を食べるのは、今日が初めてだ。

 パンの焼ける匂いにお腹が空いてきて、エプロン姿のお父さんを少し急かした。

 こんがり焼けた食パンの上にのせられた目玉焼きの、満月みたいな黄身を見て昨晩のことを思い出した。

「ねえお父さん、俺たちの部屋、お隣さんいたんだね。ずっと空室だと思ってたんだけど、昨日の夜ベランダ越しに会ったんだ。あ、ちゃんと挨拶はしたよ」

 言おうかどうか少し悩んだけど、実は起きた後もあの男の人が忘れられなかった。

 あれだけ綺麗で儚げな雰囲気をまとっている人が、うちのお隣さんだったのに今まで気づかなかったことが不思議で仕方ない。

 会ったのが深夜の三時なだけあって、さすがに起きていたことを知られたら怒られると思い、そこだけはごまかして伝えた。

 お父さんは大口を開けてパンにかぶりついて、しばらく考え込んだ後、話してくれた。

「ああ、お隣は……確か風峰さんだったかな。父さんもあんまり喋ったことないからよく知らないけど、引っ越してきたとき挨拶には来てくれたよ。お前はまだ保育園だったから、覚えてないか」

 お父さんに言われてもいまいちピンとこないから、やっぱり覚えていないのだろう。

 風峰という名字にも聞きなじみがない。

 失礼なのは分かっているけど、昨日のあの感じだとかなり無愛想だし、マンション内でも見かけないから人とあまり交流しないタイプの人なのかもしれない。

 ぼんやりニュースを聞きながら、朝食を食べ終え、食器を片付けた。

「星輝、久しぶりに父さんとゲームでもするか」

 お父さんはそう言ってコントローラーを俺に渡してきた。

 せっかくの半休なんだから、ゆっくりすればいいのに。

 お母さんが小学一年生の頃に亡くなってから、お父さんは仕事をより頑張るようになった。

 お金に余裕もないからヘルパーさんなんて雇えないし、俺はお父さんの手を少しでも楽にしたくて、家事をするようになった。

 何より、お父さんはお母さん一途だったから、再婚するなんてことは考えなかったみたいだ。

 お父さんの帰る時間はだんだん遅くなって、今となっては夜の十時を過ぎないと帰ってこない。

 そんな中、去年のクリスマスに小学校卒業と中学校入学の前祝いもかねて、初めてお父さんがゲーム機を買ってくれた。

 複数人でも一人でも遊べる戦闘ゲームのカセットまで買ってくれて、お父さんが休みの日はこうして遊ぶのが楽しみだった。

 ピコピコとゲーム音を鳴らしながら、二人でなんでもない話をした。

 学校のこととか、友達のこととか、ゲームをしながらお父さんは俺の話を何でも聞いてくれる。

「いやあ、相変わらず星輝は強いな! 父さんも昔はゲーセンで勝ちまくってたんだけどなあ。……おっと、もう十一時か。昼ご飯作るからちょっと待ってろ」

 何試合目かが終わったときに、お父さんのスマホのアラームが鳴った。

 お父さんと遊んでいると、時間が過ぎるのが早い。

 お父さんは二人分のそうめんを素早く作って、慌ただしく食べた。

 まだのんびり食べている俺を横目に、お父さんはスーツを着て仕事の準備をし始める。

「何時に帰ってくる? 晩ご飯、何がいい?」

 鏡の前でネクタイを締めるお父さんに問いかけた。

「今日は……たぶん帰りは夜遅いだろうな。晩飯は、今朝おかず作っといたからレンチンして食べてくれ。……いつも、ごめんな」

 玄関の戸に手をかけながら、そう謝られると、俺はいってらっしゃいしか言えなくなる。

 お父さんが仕事に行った後は、家がすごく寂れてしまったように感じた。

 冷蔵庫を開けると、夕飯のおかずらしきハンバーグと一緒に付箋に書かれたメモが貼ってあった。

 ”たくさん食って、父さんとまた遊ぼうな”

 活力に溢れる字を見ていると、感傷的な気分もいつの間にか吹き飛んだ。

 今日は、ちょっとだけ宿題でも進めようかな。

 よしっと自分に活を入れて、自室に戻った。

 窓の外では容赦ない日光を浴びながら、蝉がひっきりなしに鳴いている。

 レースカーテンを閉めて、蝉の声をできるだけ意識の外へと追いやりながら机に向かった。

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