夏を閉じ込める
ミーンミンミンミン──────
夏の声が今年もまた、そこかしこで響き渡る。鳴き方には差異があって、声の主であるセミも種類が豊富にある。だけど、総じてそれは"夏の声"だ。たかが人間に夏の声など判別できる訳がない。
空を見上げると積乱雲が群れとなって山々を覆い、横をみると殺人級の陽光を浴びせる太陽へと伸びる向日葵の軍勢。下を見るとアスファルトに調理された焦げミミズがそこかしこに散らばる。
神秘と狂気を混ぜた掴みどころのない夏が少女は好きだった。しゃくりと音を立てて喉を冷やすアイス片手に夏の景色を堪能していた。木陰で休んでいると、上からセミが落ちてくきた。足で小突くと叫び散らしながらアスファルトの上を低空飛行し、再び地面へと不時着する。
「可哀想に、あれも夏を越えられない」
どこからともなく声がする。その声は風に攫われそうなほどか細く、聞き間違いかと思えるほどだった。いつもならそんな声に反応しない。しないのだが、今日は魔が差した。
「それはどういう意味?」
しばらくの間を置いて、囁き声が聞こえてくる。それはとても小さく、内容までは聞き取れない。しかし、声は向日葵畑の方から聞こえる気がした。好奇心に負け、溶けかけた残りのアイスを一気に口に含んで不気味な向日葵畑と歩く。
「向日葵ってなんか圧があるし、中心が妙に黒くて気持ち悪いんだよね……」
恐怖心を紛らわすためか、思っていたことが口に出てしまう。気のせいなのか、向日葵は私を避けるようにして道を開けているような気がする。何の障害物もなくただ真っ直ぐ歩いていると、言い表せない不安と恐怖が心臓を鳴らす。そのうちに足は重く感じるようになり、半ば引きづるようにして前へ前へと進む。
まるで断頭台へ向かう囚人のよう。
嫌な汗が背中を伝い、服をじっとりと濡らしていく。引き返そうか悩んだ時、声が聞こえた。
「夏を越えるのか? お前は本当に夏を越えるつもりなのか?」
ハッキリと聞こえた。今度は囁き声なんかではなく、耳元でハッキリと……
「あのセミは夏を越えようとしたが寿命は越えられなかった。そして、お前も夏を越えられない」
「それはどういう……」
それまで聞こえていた"夏の声"が止んだ。
今まで観衆であった向日葵の軍勢が私を一斉に見下ろした。軍勢の中には私ほどの身長をした向日葵がいて、風に揺れていた。
「君は夏を越えられない。秋になる頃には死んでいるから」
"夏の声"は耳を劈くほどに鳴き喚き、まるで私を嘲笑っているかのようだ。
私が夏を越えられない? 私が死ぬ?
脳裏に浮かんだのは先程見た、低空飛行するセミ。私もこの夏の終わりにそうなるのだろうか。見たこともない、想像したくもない自分の死体を嫌でも想像してしまった。性別の判別ができないほどに潰れた自分、その四肢はアスファルトに焼かれて断裂された肉の表面が焦げているかもしれない。
猛烈な吐き気に視界が歪んでその場でうずくまる。
「う、うぅ」
「可哀想、可哀想。夏も越えられないなんて」
陽炎のように歪んだ視界の先にいたのは、向日葵。うずくまる私に合わせて茎を曲げ、花弁を私の顔にピッタリと合わせる。目と鼻の先にある花は驚く程に無臭で、黒い部分は小さな花々がひしめき合っており、どの花も私を笑いながら哀れんでいるようだ。
そこから先の記憶は断片的で、向日葵の首を絞めるようにして押さえつけた。次の瞬間には踏み潰された虫のようにペシャンコになって、辺りに黄色や黒の花弁が散らばっていた。
「あぁ、夏が散った……閉じ込めなきゃ……閉じ込めないと」
───────……
「ほぉ、娘さんが精神錯乱にねぇ……」
根暗そうな男が隈の目立つ瞳でやつれた母親を見つめる。
「はい、部屋に閉じこもっては夏がなんとかって」
「まぁ、夏に閉じこもる若者は想像以上に多い。我々、大人には聞こえないでしょうなぁ……夏の声に惑わされる感覚も我々は忘れているのですよ。そして、夏を越える度に我々は死んでいるのです」
「は、はぁ?」
理解が追いついていない母親は困惑する一方だったが、男は不敵な笑みを浮かべたまま少女のいる2階へとずんずんと階段を上がっていく。部屋の前に立つと、わずかに酸っぱい臭いがした。古い油を放置したかのようなまとわりつく臭いだった。
「よーお嬢さん。そろそろ夏を終わらせようぜ」
ノックをするも返事はないが、部屋から物音がする。男がグッとドアノブを掴んで、鍵を壊す勢いで扉を開けようとする。しかし鍵はかかっていなかった。ゆっくりとドアノブを回すと、ムワッとするほどの夏の熱気と湿気が男を覆う。
「おー、真夏みたいだ」
部屋には声の主はいないのに、"夏の声"が溢れ返っており、自分が喋っているかどうか分からないほどの声量であった。枯れた向日葵の軍勢の中心に少女は座り込んでいた。四方八方に散らばったプリントや教科書は全くと言っていいほど手がつけられておらず、新品同様であった。
「高校最後の夏、楽しめたか? 残念ながら君は夏を超えるしかないんだ……」
その瞬間、"夏の声"は鳴り止んで少女がすくっと立ち上がる。
「私は夏を閉じ込めれてました?」
「いや? 君に何が聞こえ、何が見えていたのか知らないけど……ここにあるのは手がつけられていない宿題と汚い君だけかなぁ。君は夏に閉じこもったんだよ」
少女が顔を上げた時、景色が一変する。枯れた向日葵だと思っていたのは積み上がった服。"夏の声"だと思っていたのは、窓から鳴る隙間風で、夏一色に染められたはずの部屋には色のない景色だった。部屋中から臭うのは劇物と化した自身の体臭で、油のような臭いは自分から臭っていたことにここでようやく気づく。
「あー、君も聞こえない、見えない年齢になったのか。ようこそ、夏休みのない大人の世界へ」
呆然とする少女の前に男は鼻を押さえながら笑みを浮かべる。
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