十一 久遠明日子の語れる(十)

 粉砕された壁から立ちのぼる埃の向こうに、久遠がいた。

 なぜここに? どうやって? だってもう、私の居場所を察知することはできないのに。そんな疑問が次々に頭に浮かんでくるけれど、私を見つめる久遠から目が離れなかった。

 冷笑も余裕もない、むきだしの表情。たしかに久遠なのだけど、久遠じゃないような。まるで、いま初めて見る男のようだった。

 次の瞬間、久遠は身をかがめるや、一番近くにいる夜叉丸の部下を壁に向かって投げつける。背骨の折れる音が響く。

「夜叉丸」

 地を這うかのような低い声。

「申し開きがあるなら聞くぞ。言うがよい。頭領である俺の妻をらっして、何をした?」

「おまえの印を剥がした。うまくいったぞ」

 答える夜叉丸の声は、興奮でうわずっている。


 そう。紅涙石は私の胸から印を吸いとった。その刹那、自分のなかの一部まで剥がされるようだった。私から久遠がいなくなったのを、たしかに感じた。

 そして黒衣の男どもに襲われそうになったが、反撃して今に至る。窓ガラスを割って破片を武器とし、なんとか二人仕留めた。だが、まだ夜叉丸を含めて六人もいる。

 破片を握る手から、血がしたたり落ちる。すでに疲労困憊しきっているが、痛みが気つけ薬となっていた。黒衣の男たちが、ごくりと喉を鳴らす音がする。少しでも油断したら、きっと血祭りにあげられる。

 いざとなったら窓から飛び降りよう。

 血魅どもの餌食となるくらいなら、自ら死んだ方がましだ。そう覚悟したそのときに、久遠があらわれた。

「さあ、俺と一緒に、この女の血を吸おう」

 夜叉丸が久遠に呼びかける。

「渇いているのだろう。分かるぞ。おまえのことなら何でも分かる。今こそ我ら血魅が、陰から陽となるときだ。おまえが号令さえかければ、我らは手足となって動く。手はじめにおまえの元妻を血祭りにあげ、人間どもに宣戦布告してやろうではないか」

「断る」

 即座に久遠は言う。

「印があろうがなかろうが、その女は俺の妻だ。そして頭領の妻に害をなすとは、頭領である俺に害をなすも同じこと。よって貴様らを処する」

 その女はおれの妻。

 その言葉が私の胸を深く、深く刺した。心臓まで届きそうなほど。

「………………」

 異様に長い間を空けた末、夜叉丸はつぶやく。「そうか」と。

「俺ではなく、この女を選ぶのか。腹心の友ではなく、昨日今日娶ったにすぎない嫁を。同胞ではなく人間を。残念だ。とても残念だ、白夜。すっかりこの女に取り込まれてしまったか」

 視線を久遠から私へと移す。眼帯に覆われていない目に、混じりけなしの殺意が浮かんでいる。

「ならば、おまえの目の前でこの女を――殺すまで」

 言い終えるのと同時に、夜叉丸が瞬間移動するかのごとく私に迫る。

「――っ」

 破片で応じようとするが僅差で避けられ、肩先をがぶりと噛まれる。鋭い痛みに目がくらむや、夜叉丸の身体が宙を舞った。久遠が投げ飛ばしていた。

「俺の後ろに下がってろ!」

 そう怒鳴る頬の線を脂汗が流れ、腕がかすかに震えている。どうしたのだろう。この男ともあろう者が、ひどく消耗しているようだ。


 間髪入れず黒衣の男たちが、四人同時に向かってくる。

 久遠が最初の一人の首を折り、二人目の喉笛を私が刃物で裂く。そこへ突進してくる三人目に、久遠が体当たりする。骨と骨がぶつかる衝撃音。そのまま久遠は男を持ち上げ、思いきり床に叩きつける。頭蓋の砕ける音がする。

 その間、残るひとりを私は仕留めていた。懐に飛び込み、心臓部に破片を突き立てた。久遠がどう動き、自分がどう動けばいいのか、自然と相通じあった。感じとれた。印はもうないはずなのに。

「大丈夫か」

 夜叉丸に噛まれた肩に久遠が案じる目を向ける。「……ええ」とうなずくと、

「息の合った夫婦だな」

 いつしか夜叉丸は細身の刀を手にしていた。

 日本刀ではなく洋剣術フェンシングで使う剣だ。私に視線の焦点を合わせたまま、ふっと消えたと思うと、久遠が私を突き飛ばす。その腕に夜叉丸の剣が深々、突き刺さる。

「く……っ」

 顔を歪めながらも、そのまま久遠は夜叉丸の首を片手で絞めあげる。夜叉丸の喉から、獣のような唸りが洩れる。互いに一歩も譲らず、男たちは抱きあうような体勢で静止する。ぽたぽたと腕から血をたらしながら、

「逃げろ、明日子!」

 久遠が叫ぶ。

「今のうち、おまえは逃げろ!」

 そんな。

 間もなく夜が明ける。日が昇る。このままだと久遠が――。そう考える間もなく私は動いていた。床に落ちている破片を握りしめ、夜叉丸めがけて振り下ろそうとすると、

「邪魔するなあっ! 女!」

 夜叉丸が吠える。息が止まるくらいに激しく腹を蹴りあげられ、身体が宙を舞い、窓ガラスに叩きつけられる。

 ――そうだ。

 唐突に、ほとんど本能的に活路が視えた。落下しながらカーテンを掴み、身体の重みでぶちぶちと引き裂く。厚い布地がやぶけて、光の奔流が室内を充たす。

「ぐ……ぐあああっ!!」

 朝日を直視した夜叉丸が絶叫する。眼球が焦げるにおい。目を押さえ、よろめいた隙に、

「久遠っ!」

 私はカーテンを広げて久遠のもとへ飛び込む。カビくさい布で自分ごと包み込む。布をとおして差し込んでくる光線から久遠を守るように。剣が刺さったままの腕が背にまわされて、抱きしめられる。自分もまた無言で抱きしめ返す。

「あ゛、あ゛あ゛、あぁぁぁ………ぁ」

 カーテン越しに、夜叉丸が滅していく気配を感じる。皮膚が、髪が、内臓が、魂が焼けるにおいがする。針金のような声が聞こえてくる。

「びゃく、や……その女は、きっとおまえを……ほろぼす、ぞ。俺には……みえ……る」

 ぷすぷすと白煙の立ちのぼる音。やがて、乾いた灰が崩れ落ちる音を最後に、無音となる。


 静かだった。カーテンにくるまったまま、抱きあったまま、どちらもじっとしている。互いの胸の鼓動しか、もう聞こえてこない。

 厚みのある胸につけている顔を上げると、久遠はじっと私を見つめている。吸い込まれそうなほどさえざえとした青みがかった目が、かすかに潤んでいるような。

「どうして……来てくれたの?」見返したまま尋ねると、

「妻を守るのは夫の務めだ」

「守ったのは私の方よ」

 そう言うと、久遠はひねったような笑みを浮かべて、

「そうだったな」

 切れた私の唇を、ぺろりと舐める。そのまま息と息が混ざりあう。血の味がする二度目の接吻を交わしながら、背にまわされている腕の力強さを感じる。

 長い長い夜が明けて、やっと朝がやってくる。新しい一日が、はじまる。

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