十 久遠白夜の語れる(五)

 唐突に、胸を焼く痛みがすっと、遠のいた。自分のなかにある明日子の気配も。

 印が消えたのだ。

 感覚的に、それが分かった。では明日子は死んだのか? いや、俺がまだ生きているということは明日子も無事なはず。だが、それならなぜ印が消失したのか。考えろ。脂汗を流しながら思考を巡らせ、ある可能性に思い至って息を呑む。まさか。

「契呪解離か」

 それは、魂に刻まれた印を強制的に剥がす禁術。成功する確率は五分と五分だ。 

 下手したら印だけでなく、魂まで消えてしまう。つまり廃人となる危険性がある。加えて術を行うには、たしか紅涙石とかいう石が必要なはず。それを作るには若い女の大量の血が――。

 そこで、はっとする。なぜ夜叉丸一派はこのところ人間の女を立て続けに襲っていたのか。死体の血を最後の一滴まで吸い尽くしていたのか。それはもしや紅涙石を精製するためではないか。そしてその目的はおそらく、いやきっと……明日子の印を剥がすこと。

 あいつは人間を毛嫌いしている。俺と明日子の婚姻を認めないと言い切った。いつか、何か仕掛けてくるやもしれんと思っていたが、よりにもよって禁呪解離とは。


 会社のビルをでて、円タクを拾おうとするも、こんな時刻に走っている車などない。夜空はすでに薄まりはじめている。

「くそ」

 舌打ちして空気を蹴る。夜叉丸の居場所は見当がつく。研究所代わりにしている、郊外にある朽ちた洋館だろう。

 雲を踏み、街道を駆ける。胸の奥に巣くう「焚魂」が熱病のように脈打つ。ひと息ごとに血が逆流し、視界の端が黒くにじむ。喉の奥から呻きが洩れる。

 自分は焦っている。かつてなく心臓が動揺し、心が急いている。それは新鮮な驚きだった。まるで人間のようだった。

 何かに突き動かされるかのように雲を踏み、切れそうな風をまともに顔に受ける。それでもまだ遅い。逸る心臓をなだめながら速度を上げる。やがて前方に廃墟めいた洋館が、しらじらとした薄明のなか見えてくる。


 正面扉は開いていた。蜘蛛の巣の張る階段を駆け上がり、二階の最奥の広間へ向かう。そこがやつの“研究室”だ。多くの古書や文献に取り組み、実験なども行っていた。速度をゆるめず突進し、壁の一部ごと扉を蹴り飛ばす。

 砕け散った壁板を踏み越え、なかへ足を踏み入れると、黒衣の男たちがいた。床に倒れ、灰になりかけている者もいる。

 カーテンのたなびく窓を背にして女がいた。ガラスの破片を得物えもののように握りしめ、一歩も引かぬ様子で男たちと対峙している。

「明日子!」

 その名を呼ぶ。我が妻の名前を初めて口にする。

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