第七話「再会と亀裂」
僕が姉の愛佳と再会したのは、それからさらに数年が経った、二十五歳の夏のことだった。
仕事で付き合いのあった編集者が、偶然にも姉の共通の知り合いだったのだ。世間は僕が思うよりもずっと狭いらしかった。
ファミレスのプラスチックの椅子に座り、僕は落ち着かない気持ちで入り口の方ばかりを見ていた。他人と、特に家族とこうして会うのは何年ぶりだろう。僕のことなどもう忘れてしまったのではないか。そんな子供じみた不安が胸をよぎる。
「……愛都?」
かけられた声に顔を上げる。そこにいたのは僕の記憶の中にいるよりもずっと大人びた、綺麗な女性だった。けれどその困ったように笑う癖は昔のままだった。
「姉さん……ほんとに、久しぶりだね」
ぎこちない挨拶。けれど一度言葉を交わしてしまえば、空白だった十数年の時間は嘘のように埋まっていった。お互いの仕事のこと、暮らしのこと。他愛もない会話が乾いた僕の心を少しずつ潤していく。
ああ、よかった。姉さんは変わっていなかった。
僕と同じ、あの家で同じ痛みを抱えて生きてきた、たった一人の僕の半身。彼女ならきっと僕のことを、そして「彼」のことすらも理解してくれるかもしれない。
そんな淡い期待を僕は抱いていた。
会話が途切れたとき、姉さんが意を決したように口を開いた。
「あのね……私、ずっと愛都に謝らなくちゃって思ってた」
そして彼女の口から語られたのは、僕と母が家を出た後の彼女の地獄だった。父の執拗な束縛。そして高校生の頃から始まったという、娘の寝室へ忍び込む父親のおぞましい蛮行。
僕はそれを怒りと、そして歓喜にも似た奇妙な高揚感の中で聞いていた。
そうか、そうか。姉さんも同じだったんだ。あの男に心も身体もめちゃくちゃにされたんだ。僕たちはやはり共通の「敵」を持つ同志だったんだ。
「……生きる価値もない、虫けら以下の存在だ。僕らを散々踏みにじって弄んだこと、どこかで『分からせて』やらないと……」
僕がそう呟いたときだった。
「駄目だよ、そんな風に思っちゃ」
姉さんは怯えたように僕の言葉を遮った。
「もう、いいの。前に進むためには……大きすぎる荷物は、置いていかないと」
荷物?
僕の心の奥が急速に冷えていくのを感じた。僕がずっとたった一人で抱え続けてきたこの痛みも、孤独も、思い出も。姉さんはそれを前に進むために捨てるべき「荷物」だと言うのか。
「実は私ね……」
彼女はそれまでのか細い声が嘘のように、嬉しそうにはにかんでこう続けた。
「今度、入籍するの。お父さんには秘密でね。作戦があるの。私がね……」
その顔は僕が今まで一度も見たことのない、幸せに満ち溢れた満面の笑みだった。
僕の知らない光の世界の笑顔だった。
姉さんは楽しげに語りつづけたが、僕の耳には雑音としてしか響かなかった。
ああ、まただ。
また僕は一人だけ取り残されるんだ。あの暗い納戸の中で、家族の遠ざかる車の音を聞いたあの日のように。
姉さんは僕という「荷物」を捨てて、一人で光の中へ行ってしまうんだ。
僕は唇の端を無理やり引き上げた。そして心のこもっていない空っぽの言葉を、ただ口にした。
「……おめでとう、姉さん」
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