第二話「納戸」
新しい家に移り住んで一月が経った。
僕はリビングの隅で画用紙にクレヨンを走らせるのが好きだった。空想の生き物を描いている時間だけは、家族の輪から外れた自分の存在を忘れられるような気がしたから。
その日も僕は一人で絵を描いていた。姉の愛佳は買ってもらったばかりの人形で遊んでいる。平和な日曜の午後。
ふと愛佳が僕の絵を覗き込んで、「へんなの」と笑った。子供らしい他愛のないからかい。僕もむきになって「へんじゃない」と言い返し、追いかけっこが始まる。きゃっきゃと明るい笑い声ががらんとした家に響いた。
悲劇は些細なきっかけで起こる。
僕がソファを回り込んで逃げる愛佳の腕を掴んだとき、バランスを崩した彼女が床に置いてあった人形の家に足を取られて転んだ。
「痛い!」
愛佳の目にみるみる涙が溜まる。膝が少し赤くなっていた。
「ごめん、愛佳!」
僕はすぐに駆け寄って謝った。愛佳も「ううん、だいじょうぶ」と涙を拭う。
僕たちの間では、もう終わったことだった。
しかし、そのやり取りをリビングの入り口で父が見ていた。
「また、お前か」
地響きのような低い声。父の顔は能面のように無表情だったが、その奥のどす黒い怒りを僕は敏感に感じ取った。
「違うの、私が――」
愛佳の言葉を無視して父は続ける。
「愛都。お前は愛佳を泣かせてばかりだな」
母もおろおろと「あなた、事故みたいなものですから」と庇おうとしたが、父の鋭い一瞥でその声はかき消された。
父の大きな手が僕の細い腕を万力のような力で掴む。
「少し、頭を冷やせ」
引きずられていく。抵抗は無意味だった。連れて行かれる先はもうわかっていた。あの家の奥にある、冷たい木の扉。
「いやだ、ごめんなさい、もうしませんから!」
僕は泣き叫んだ。けれど父は僕の言葉などまるで耳に入っていないかのように、無言で廊下を進む。
そして、あの扉が開けられた。
ひやりとした黴の匂いが僕の顔を撫でる。僕は闇の中へ乱暴に突き飛ばされた。
ドン。
重い音を立てて扉が閉まる。外からかんぬきを掛ける重々しい音。
完全な闇だった。
一寸先も見えない、質量を持ったかのような黒。床からじわじわと体温を奪う冷気。僕は必死に扉を叩き、叫び続けた。母を、姉を呼んだ。
しばらくして、玄関のドアがバタンと閉まる音がした。
そして遠ざかっていく車のエンジン音。
僕はその時理解した。家族は僕をこの闇の中に一人残して、三人で出かけてしまったのだ。
扉にすがりつき、しゃがみ込む。声はもう出なかった。ただ闇の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく耳の奥で鳴り響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます