SCENE#58 Passing strangers〜1度だけ交差した見知らぬ人

魚住 陸

Passing strangers〜1度だけ交差した見知らぬ人


第1章:途切れた糸





大粒の雨が降りしきる午後。千明はスマホを耳に当て、人ごみの中で立ち尽くしていた。彼女の声は焦燥に満ち、怒りと不安が入り混じっていた。




「だから、財布をなくしたって言ってるでしょ!」




「落ち着いてって言われても、落ち着けないのよ!全部なくなっちゃったの!クレジットカードも、保険証も、今日の面接のために下ろしたお金も!」




「どこでなくしたか覚えてないの?」と友人の声が受話器の向こうで苛立ちをあらわにする。




「覚えてないのよ!カフェを出たあたりまではあったはずなのに、それからどうなったか…もう、本当に最悪!」




千明の視界は雨で滲み、まるで世界が自分を拒絶しているかのようだった。カフェから地下鉄の駅までのわずか数百メートルが、彼女にとっての絶望の道に思えた。スマホの充電も残りわずか。どうやって家に帰ればいいのだろう。どこで助けを求めればいいのかも分からない。ベンチに腰を下ろし、顔を手で覆った。雨は容赦なく彼女の髪や肩を濡らしていく。その日の朝、新しい仕事の面接に意気込んでいた自分が、まるで遠い過去の出来事のように感じられた。





第2章:声なき観察者




ベンチのそばにタクシーを停めていたのは、ベテラン運転手の健太郎だった。彼の顔には深い皺が刻まれ、その目は雨に濡れた街をぼんやりと見つめている。彼は一日中、客のいない空車状態で待機していた。このタクシーは、彼にとって単なる仕事場ではなかった。




会社が倒産し、家族を養うためにハンドルを握ってから十年あまり。この狭い空間は、人々の笑い声、怒鳴り声、そして涙を乗せてきた。しかし、目的地を運ぶことに慣れてしまった彼は、いつしか自分自身の人生の目的地を見失っていた。





健太郎は千明を観察していた。彼女が友人と電話している声は、悲鳴のように聞こえた。




「どうして今日に限ってこんなことになっちゃうのよ…」




その言葉が、健太郎の心の奥底に沈んでいた後悔を呼び起こした。かつて、彼の妻が病に倒れた日、助けを求めることもできず、ただ見ていることしかできなかったあの無力感。千明の絶望的な顔を見て、その時の自分と重なった。彼女の目に宿る、今にも消えそうな「明日への希望」の光。彼はその光を守りたいと思った。彼は静かに車を降り、彼女のそばへと向かったのだ。





第3章:差し伸べられた手




千明がスマホを閉じ、顔を上げたとき、視界の隅に一人の男が映った。彼は何も言わずに、小さな手を差し出していた。そこには、くしゃくしゃになった千円札が握られていた。千明は彼をまじまじと見つめた。タクシーの運転手帽を被り、疲れた顔をしている。彼女は戸惑い、一瞬、警戒さえ感じた。





「あの…これは…?」




千明はかろうじて声を絞り出した。健太郎は静かに答えた。




「大した額じゃないが、コーヒーと地下鉄の運賃にはなるだろう…」




千明は受け取ることができなかった。




「いいえ、お金は受け取れません。私には、こんな…」




「受け取ってくれ。君、困っているんだろう?」




健太郎は静かに言った。




「時には、見知らぬ人だけが助けになれるんだ…」




彼の言葉は、何十年もの人生経験が凝縮されたかのようだった。それは、ただのお金ではなく、見知らぬ人からの思いやりという、彼女が最も必要としていたものだった。少し離れた場所でその光景を目撃していた通行人は、一瞬の不思議な光景に目を奪われた。見知らぬ二人の間に流れる、言葉にはならない温かさ。その光景は、彼ら自身の心にも何かを投げかけていた。





第4章:夜が明けるとき




千明は結局、その千円札を受け取った。彼女は何度も頭を下げ、「本当にありがとうございます…」と繰り返したが、健太郎はただ静かにうなずくだけだった。彼女は地下鉄の駅へと向かい、健太郎はタクシーに戻って再び、雨の街をぼんやりと見つめた。





彼に、後悔はなかった。




「ま、たまにはいいか…」




あの女性の顔に一瞬灯った希望の光は、彼にとって千円以上の価値があったのだから。




千明は家に戻り、安堵の涙を流した。友人に事情を話し、彼女は信じられないと言った。




「タクシーの運転手さんからお金をもらったの?大丈夫だった?危ない人じゃなかった?」




「ううん、全然。すごく疲れてる顔してたけど、優しそうな人だった…」




「でも、良かった。千明が無事に帰れて!」






第5章:交差する道




数日後、千明は、カフェに財布を忘れていたことが判明し、無事に取り戻した。彼女は財布を手に取り、真っ先にあのベンチに向かった。しかし、健太郎の姿はどこにもなかった。彼女は彼を見つけるために、何日もその場所を訪れたが、彼のタクシーを見ることはなかった。





この日を境に、千明は街中で困っている人を見ると、以前のように無関心でいられなくなった。小さな親切を心がけるようになったのだ。




ある寒い日の夕方、千明は地下鉄の駅の階段を上がっていた。その時、彼女は一台のタクシーが、客を降ろしているのを偶然見かけた。それは健太郎のタクシーだった。彼は疲れた様子で、客から受け取った小銭を数えていた。彼は彼女に気づかなかった。千明は彼に近づき、声をかけようとした。





しかし、なぜか言葉が出なかった。彼は、あの日の凛とした姿とは別人のようだった。それでも、千明は、震える声で健太郎に尋ねた。




「あの…、私のこと、覚えていらっしゃいますか?」




彼は驚き、顔を上げた。




「ああ、君は…あの時の…」




「あの時はありがとうございました。おかげで家に無事に帰れました。あの、これ…あの時のお返しです」




千明は、彼に借りた千円札と、彼女が持っていたすべての現金を、彼の手に握らせた。あの日の凛とした彼の姿と、目の前の彼の姿があまりにもかけ離れていて、彼女の胸は張り裂けそうだった。彼に差し出したお金は、借りた千円の返済だけでなく、彼女が彼に贈ることのできる唯一の感謝の形だった。彼は何も言わなかったが、その目に光が戻ったようだった。





「…ありがとね」





彼はそう呟いた。二人の間には、言葉は必要なかった。そう、彼らは、人生の中で一度だけ交差した見知らぬ人であり、そして、互いの人生を少しだけ変えた二人だった。千明は微笑んで、人ごみの中に消えていった。健太郎は、彼女が去った後も、しばらくの間、その手の中に握られた温かさを感じていた…

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