第2話

 白塵院の朝は、いつもと変わらない音から始まる。


 消毒液の噴霧音。低く鳴るアラーム。

 鉄の扉が開閉するたびに、一瞬だけ重くなる空気。

 

 僕の仕事も、毎日何も変わらないルーティーン。

 与えられたマニュアルの通り、淡々と進めるだけ。



 

 さあ、今日も白塵院に新しい被験者たちが運ばれてきた。

 

 全部で16名。

 年齢は、およそ7歳から13歳といったところか。

 全員、識別番号だけが割り振られている。


 

 チェックリストに沿って、僕は一人一人の健康状態を確認し、番号を読み上げる。


「被験体B-387、眼球反応正常、関節の可動域問題なし。次──」


 

 一人ずつ、正確に。丁寧に。

 彼らの表情に、恐怖が滲んでいようが、震えていようが、それはあくまで“測定すべき反応”にすぎない。

 僕がそこに介入する必要はない。


 

 ただ、ふとした瞬間。

 少しだけ、気になるものが視界に入った。

 


 後列に並ぶ被験者の中に、一人だけ髪に装飾をつけた少女。

 白塵院では、搬送時に個人所有物はすべて没収されるはずなのに──

 

 素材は……ナディシュの花か?


 ナディシュは式国この国の国花で、特別な日や相手に贈る習慣のある花だ。誰かから貰った物だろうか。


 けれど、よく見てみると不恰好で、不器用で、形も整っていない。

 はっきり言って、失敗作と言っていい出来だ。

 

 

 ――それでも、なぜか妙に印象に残る。

 花の中にこもるような、何か……言葉にできないざらつきがあった。

 


「──被験体B-394、外部所有物の持ち込み記録が不明です。後で再調査対象としてマークを」


 後方の研究員がそう言って、僕は小さく頷いた。

 

 でもその少女の顔を、僕は見なかった。

 正確には、見ることをしなかった。


 必要のない情報は、切り捨てる。

 それがこの施設での正しさだ。

 

 そう、僕は“助手”として、日々の任務を忠実にこなしている。


♔♔♔


 選別を終えたら、被験者たちを監房まで先導する。


 鉄の床を踏みしめる靴音だけが、規則正しく廊下に響く。

 

 彼らはまだ、何も知らない。

 いや、知る必要などない。

 

 これから受けること。これから失うもの。

 その全てに、この国の希望と未来がかかっているということ。


 僕はそんな彼らを等しく扱う。

 

 機械のように正確に、監房の端末を操作し、識別番号を入力する。一人ずつ、部屋の中に送り込む。

 彼らが扉の奥に消えていくたび、静かな「終了」の合図が心の中で響く。


 

 すると──

 最後のひとりが、突然、僕の腕を掴んだ。



 

 

「――迎えに来たよ、ヒオウ兄ちゃん!」





 まるで鈴のような、弾んだ声。



 ――――''ヒオウ''とはなんだ?

 まさか、僕のことを言っているのか?

 


 次の瞬間、少女は一気に距離を詰め、僕の胸に飛びついてきた。


「ヒオウ兄ちゃん! 私だよ! ''リネ''だよ!」

 

 柔らかくて、小さな体温。

 潤んだ目で、必死に僕の顔を見上げてくる。



 僕は慌てて彼女から目を逸らし、低い声で問いかけた。

 

「……なにを、している」

 

 被験者と馴れ合うつもりは毛頭ない。

 それに、万が一こんな場面を上司に見られたりしたら溜まったもんじゃない。

 

 でも、少女は僕から離れようとしない。

 視線の端に見える、今にもこぼれ落ちそうな瞳は――僕をまっすぐに捉えている。



 その瞳の奥には、まるで、何かが映っているような――――――いや、見えない。

 一瞬、何かが見えそうな気がしたけれど、やはり何も見えない。

 

 だが、言葉にできない、強くて重たい何かが――不意に胸の奥を打った。


 

「……はなせ。ここは、こどもの、あそびば、じゃ、ない」

 


 澱みなく放ったつもりの言葉は――なぜだか、喉の奥でひっかかる。


 

 ……なんだ?

 僕は、何かを──間違えている?

 


 少女の髪に触れたナディシュの飾りが、わずかに揺れた。その瞬間、僕の記憶の扉をノックしようとする。


 

 でも、扉は開かない。

 いや、そんな扉などハナから存在しない。

 

 だって僕は“118番”。

 白塵院の優秀な助手。


 それ以上でも、それ以下でもない。

 何も、思い出すことなんてない。


「……さあ、入るんだ」


 僕の腕に絡みつく彼女の手を強く振り解き、無理やり監房の中へと押し込んだ。

 

 ――扉が閉まる音が、やけに耳に残った。

 

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