フラグメント・メモリー
夏
第1話
「──118番、今すぐ第二実験室へ。被験体の処置が遅れてるぞ」
すれ違いざま、白衣を翻した研究員が僕に視線すら向けずに命令を飛ばした。
鋭く響いた声に、思わず背筋を伸ばす。
カツカツと、廊下に靴の音が響いた。
「118番」――それが、ここでの僕の呼ばれ方だ。
「了解しました」
短く答えて、僕は慌てて廊下を駆け出す。
第二実験室のドアに手をかけると、自動ロックが音を立てて開いた。
ここは、
一言で言うと、我が国の未来のために設置された、国家機密の研究施設。
この国には、敵が多い。
思想的な反逆者、遺伝的に危険な個体、外部からの脅威。それらから国家と国民を守るために、ここでは日々研究が続けられている。
主な研究内容は、記憶と知能の最適化。
人の脳を整え、正しい方向に導く。
僕の役目は、その研究の一部を補佐すること。
さあ、今日も、朝の点呼のあとに担当の被験者が案内されてきた──
♔
年齢は八歳。
身体が小さく、ぶかぶかの囚人服が肩からずり落ちかけている。
震えている。怖がっているのが分かる。
でも、ここは怖い場所じゃない。
むしろ、助けてあげる場所だ。
「こんにちは。名前は覚えてるかな?」
被験者は首を横に振る。
怯えた瞳が、まっすぐに僕を見ていた。
「そっか、でも大丈夫。今から、少しお薬を使うね。これは……君の中にまだ残っている、危険な知能を和らげるものだよ。“ハンギャクシソウ”っていう、間違った考えを取り除くお手伝いなんだ」
そう説明すると、ほんの少しだけ、瞳の怯えが和らいだように見えた。
僕は注射器を手に取り、規定量の薬剤を正確に計量し、針を細く整える。
針先が柔らかい肌に触れた瞬間、また少し震えが走った。
「……大丈夫。すぐに楽になるよ」
注射を終えた彼のまぶたが、とろんと重くなる。
数秒後、目の焦点がふっと揺れて、次の瞬間には、完全に虚ろになっていた。
まるで魂が抜けたみたいに、ただ口をぽかんと開けて僕を見ている。
「もう怖くないね。偉いね」
僕は優しく頭を撫でた。
この子はきっと、これで正しくなれる。
♔
記録室に戻ると、タブレット端末が新しいログの入力を促していた。
僕は被験者番号と注射の時刻、反応の様子を入力する。やるべき処理は決まっていて、迷うことはない。
分類項目にチェックを入れる。
「感情反応:低下」
「自己認知:未定着」
「言語反応:不明」
最後に、グレードを選択する欄。
Cランク。再教育対象。処分未定。
タップ音が、静かな空間にカツンと響いた。
♔
午後は、被験者の「記憶再生テスト」に呼ばれる。
要するに、被験者がどこまで“過去”を忘れているかを確認するためのセッションだ。
僕の前に座ったのは、細身の女の子。
髪の毛はぼさぼさで、目の下にくまがある。
きっと、もう何日も眠っていないのだろう。
「こんにちは。昨日はどんな夢を見たか、覚えてる?」
僕はできるだけ優しく、朗らかに話しかける。
この子は、すでに数回の記憶安定化処置を受けている。
僕としては、そろそろ結果が出てほしいと願っているのだが……。
「……うん。昨日ね、ママが……おかえりって言ってくれたの……」
瞬間、彼女の脳に刺さる電極と繋がったタブレットが、小さく反応した。
僕はそれを見ないフリをしつつ、メモを取りながら相づちを打つ。
「そっか。それって、良い夢だった?」
「うん……でも、なんでママの顔が、すごくぼやけてたのか……わかんない……」
「なるほど。じゃあ、今日も夢を見たら、また教えてね」
僕は笑ってそう伝える。
そう、笑って。穏やかに。
うーん。
今の発言は、おそらく「再改変」行きか、もしくは――――
そんなふうに、この子のこれからの処遇について熟考していると。
「……ママに、あいたい」
自然の定まらない虚な目で、そうポツリと呟いた。
……ああ。また駄目だったか。
この子は、まだ記憶の核心部分が消えていない。
つまり、処置の失敗。
たった今、処分対象となった。
それでも、彼女の顔に向けて、いつも通りの笑顔を忘れない。
「残念だね。……また明日、続きを聞かせて」
♔
この仕事は、誇りだと思っている。
だって、こんなに正しくて、崇高な仕事は他にない。
国家を守る。子どもたちを救う。未来を作る。
そのための処置と、管理と、記録。
――ああ、なんて。
なんて、すばらしい、しごと――――
なんて、すばら、しい、しご、と、なん……
な、んて、すばら、し、い、しご、と……ッ
すばらしい、すばらし、すばら、
すばばばばばばばばばばばば…………!
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