1 髭もじゃと、罵倒



「おい、起きろ! こんなところで寝るな!」


「……ん、んぁぁ」



 夢、ではないようだ。まるで耳元で怒鳴られたような声。


 その日、俺はいつも通り狭苦しいアパートでゲームをし続けて、そしていつの間にか眠ってしまった―――はずだ。いや、眠っただろうか? 記憶が曖昧だ。



「さっさと立て! 死にたいのか!?」



 …………。


 また隣の部屋か? いくら壁が薄いからって聞こえすぎだろう。


 というか、死ぬって何だよ。あれか? 拷問部屋か? そういうのはせめて地下室で……………。



「おい、目が覚めたんなら立て。魔物の餌食になりたいのか」


「………」


「聞こえるか!?」


「あ、………ああ」



 えーと。


 ………。


 アンタ誰?




 目の前には泥まみれの髭もじゃ顔。


 何? 不法侵入? いくら壁が薄いって、これって犯罪だよね……と、そこでようやく目が覚めて回転し始める頭が、次々と違和感を指摘する。



 髭もじゃ顔は、あれだ、まるでゲームのキャラのようなコスプレだった。ご丁寧にあちこち土で汚して、血のりまでつけている。ハロウィンの仮装にしてもやりすぎだろう。


 しかし、そんな常識的な違和感はどうでも良かった。



 交通の便だけで選んだ街中の安アパート。俺の記憶が確かならば、周囲は雑居ビルに囲まれ、緑の景色の一つもない。窓から見えるのはローンとパチンコの看板ぐらいだった。


 しかし今、髭もじゃの背後には広葉樹が見える。それも公園に植えられたような木ではなく、まるで山の中のようだ。それに―――。



「君は冒険者のようだが、常識が欠けているようだな。よく無事に生きていたものだ」


「え? 冒険者?」


「なんだ違うのか? どう見てもそういう身なりにしか思えないが」


「いや、まさか……って? なんじゃこりゃ!?」



 髭もじゃの意味不明な説教に呆れて、そして気づく。


 俺は地面の上に立って…いや、座っていた。


 薄汚れた畳ではなくなぜか土の上。いつものカッターシャツとジーンズの上に、ゴワゴワする革っぽい何かを着て立っている。


 どういうことなんだ? これもまだ夢か? 夢から覚める夢なら、何度か見たことあるからなぁ。




 結論を言えば、夢ではなかった。


 そして、こんな現実について、思い当たる節はなかった。



「あ、あの…ヒゲのおっさん」


「名前で呼べ。俺は義助だ」


「ギ、ギスケさん…、い、いったいここはどこなんだ? どこなんですか?」



 思い当たる節はないが、絶対に愉快な状況でもない。ただただ、頭が混乱しているだけだ。




「い、いったいここはどこなんですか?」


「はぁ? お前、頭でも打ったのか?」



 目覚めると髭もじゃ。


 頭を打ったのはアンタだろうと、リアル過ぎるコスプレ男にツッコミを入れる勇気はない。だって、俺自身も中途半端なコスプレで、まるで本物のような森の中だ。


 しかも王子様ではなく髭もじゃオッサンに抱きかかえられた。ああ、どこから突っ込んでいいのか分からない。



 ともかく、義助と名乗るオッサンに抱き起こされた俺は、少し開けた場所まで二人で歩いて移動した。


 轍のついた道はあるが、ローンの看板どころか人工物の一つもない景色。これが作り物なら、時代を先取りしすぎじゃないか。




「それで、改めてお前の素性を聞かせてもらう。あ、俺は亀沢で警察兵をやっている。身分証だ」


「はぁ、警察……………」



 うーむ。


 警察手帳を見せて「話を聞かせてもらおう」って場面だよな。しかし、義助さんが出してきたのはヨレヨレの紙一枚。そこに義助と筆で書かれ、朱色の大きな印が押してある。それだけだった。



「写真もないんですね」


「あ? シャシン? それは何だ?」


「いえ……、気にしないでください」



 どうもこの世界観では、文明の利器なんて期待できなさそう。その辺はもう分かった。かと言って、石の金だったりマンモスを狩るような世界でもないけど。


 いずれにせよ、見せられた身分証は信用するしかない。偽造だったとしても、見知らぬ場所で話が通じる相手を失うよりマシだ。


 いや、そういう設定の夢か何かだと、俺は思い込もうと頑張っている。どうせなら理想の住居ぐらい用意してもらえれば…。



「じゃあ質問だ。まず、お前の名前は?」


「名前? ああ、俺は…」



 俺の名前。えーと、……………あれ?



「タビト、旅人です。年齢は二十歳」


「ふうむ」



 一瞬記憶が飛んで、そして俺は名乗っていた。


 そう。ゲームのデフォルト名が嫌で、その時目にとまったから名付けた適当なやつを。


 本当の名前を口にする気になれなかったのは、ここが現実だと受け止められなかったから? よく分からない。


 まぁいいだろ。


 義助がありなら、旅人でも不自然さはない。歴史上は、そういう名前の人はいたのだし、キラキラネームでもないし。



 なお、本当は年齢も偽っていたわけだが、その時の自分は偽ったことに気づいていなかった。




「しかし、どこから来たか分からない。この国の名も知らない。それなのに言葉はしゃべれる? デタラメにも程があるぞ」


「すみません。嘘だったらもう少しそれっぽく言います」



 髭もじゃ義助さんに冷静に突っ込まれて、こちらも頭が覚めていく。


 そしてまだ疑っている。眠っているうちに、どこかのテーマパークに連れ去られただけじゃないかと。


 何かのゲームの舞台で、素人を放り込んでリアリティショーでも始めるのではないかと。



「持ち物は?」


「……………、ありません?」


「俺に聞くな。呆れた奴だな、今までどうやって生きてきたんだ」



 今さらのように周囲を確認するが、PCはもちろん、カバンも財布も何もない。


 髭もじゃの哀れむ顔を見ると、日本の安アパートに住むただのフリーターだと叫びたくなる。しかし、そこを我慢する程度の理性は残っていた。


 それに、気がつけば丁寧語になっている。知らない人には丁寧な言葉遣い。日本の教育はすごいな。




 そのまま小一時間の休憩。森に囲まれた小さな広場は、その隅に水場があった。


 緊張でのどが渇いていた俺は、その水を一口すくって飲む。


 冷たい。手のひらの感触。のどを通り抜ける感覚。


 これがゲーム? テーマパーク? ないない。仮にそうなら天下取れるぜ。



「風がふいています?」


「当たり前だろ? 旅人は何言ってるんだ? さっさと町に行くぞ」


「え、ああ…」



 水を飲んだら、明らかに音を立てている腹に気づく。もう「ゲーム」は頭から排除したほうがいい。むしろ生水を飲んで良かったのかとか、考えるべきことは――――。



「止まれ! ヤバイ奴に遭ってしまった」



 …………何だよあれ。


 右腕で俺を制止する義助さん。その前方十メートルぐらいの距離で何かが動いて、やがてこちらに向き直った。



 小さな逆三角形の頭に、細身の身体が反り、細長い手足。


 強いて言うなら、カマキリ。


 ただし大きさが違う。大人の人間ぐらいのサイズ。鎌も包丁みたいだ。まるっきり通り魔じゃないか。



「とりあえず逃げるぞ。あれは脚が早くないからな」


「は、はい」



 慌てて元の道を引き返す。生きた心地がしないまましばらく走り、さっきの広場に戻ってしまった。


 大カマキリは、後ろを追って来なかった。


 水曜スペシャルの新作に巻き込まれた? まさか。こんな本物、あってたまるか。




「あ、あんな化け物がいるなんて」


「え? お前、アレを知らないのか? いくら記憶がないって、カマイダーを知らない奴がいるのか」


「カ、カマイダー?」



 酷い名前だった。


 しかし、良く分からない。あんな物が現れた時点で、ここは異世界確定。なのに命名は日本っぽい。それとも、俺の耳にそう聞こえているだけで、本当は全く別の言語とか? だったらファンタジーって気がする。




 周囲を警戒しながらしばらく広場に留まって様子見。


 カマイダーの気配はない。


 とても気乗りがしないが、あの遭遇地点を通らないと町に行けないらしいので、再び進むことになった。


 カマイダーは人間を捕食することはなく、刺激しなければ襲って来ない。だから近づかないように進めば大丈夫だというが、常に刃物男と遭遇する危険があるなんて、この世界はハードモードすぎ。




 などと呑気に構えていた時もあったわけである。



「ギギィイイ」


「やべぇ! これはダメだ! お前だけでも逃げろ!」



 金属がこすれたような不快な音が響き、覆い被さるような影。


 ああそうだな。これはダメだ。


 短い人生だった。人生っていうほど長くもなかったな…。



「マスターに危害を加える者を排除します」



 観念して目を閉じた瞬間、謎の声がして、そして――――――。



「貴方がマスターですか。つまらない人のようですね」



 恐る恐るまぶたを動かすと、そこには切り刻まれた魔物。そして、こちらを向いて不服そうな表情を見せる女がいた。


 え?


 なに? つまらない人って、まさか俺のこと?



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