第六章:底無しの悪意
蜘蛛が幽霊と同じく“法則”で動くと分かった――それは確かに希望だった。
だが、同時にその巨体と暴力は、幽霊よりもはるかに現実的で、逃げ場を奪う脅威でもあった。
私たちは、幽霊と蜘蛛、二つの悪夢の気配に耳を澄ませながら、屋敷から脱出する手がかりを探して歩き出した。
途中、火傷を負ったメイドの幽霊が食堂の方へ歩いていくのを見かける。その姿が角を曲がって消えるのを待ち、私たちは逆方向――台所へ足を踏み入れた。
幽霊に加え、あの蜘蛛という物理的な脅威が加わった今、もう素手でいるのは無謀だ。
調理台に突き立てられていた銀色のナイフを二本引き抜き、「護身用に」と二人へ手渡す。
「ありがと」
凛と陽菜は、冷たい柄を握り締めた。頼りないながらも、何もないよりはずっといい――そんなわずかな安心だろう、二人の表情にわずかな光を灯す。
進む途中、陽菜がぽつりと呟いた。
「あの蜘蛛……なんだったんだろ。地下の奥にいたりして、なんかゲームのボスっぽくなかった?」
「変身する前の女……あれ、惨殺事件の最有力容疑者って言われてた人よね?」と凛が確認するように私に聞いてきた。
「そう。事件発覚まで屋敷を出入りしたのは、あの女だけ。監視カメラには入る姿だけが映っていて、出る姿はなかったって、記事にはあったわ」
「じゃあ……あの女、この屋敷にずっと……?」
暗い廊下で、陽菜の声がかすかに震える。
「いや、それはどうかしら」
凛がその可能性を冷静に否定した。
「あれだけの事件よ。警察があの女を見逃すなんて、あり得ると思う?」
「うーん……地下への扉がたまたまうまく隠されてたとか、何か細工されて……気づかなかったのかもしれない」
陽菜の推測に、凛は首を横に振る。
「甘いわ、陽菜。それに世間の注目度も高かったのに、警察が手を抜くとは思えない。もしあの女が本当に地下にいたなら、とっくに見つかって捕まっているはず」
「じゃあ、凛はどう思うの?」
少しの間を置き、凛が低く答えた。
「……警察に何らかの圧力がかかって、隠蔽したのかもしれない」
「でもさ、それにしては一家惨殺なんて事件が派手すぎない? それに、屋敷を廃墟として放置してるのもおかしいよ」
陽菜がすかさず返す。
「たとえば事件は突発的なアクシデントで……。廃墟になったのも、隠蔽する前に幽霊屋敷になってしまって手出しできなくなったとか」
凛が反論する。
「前にこの事件の話をしたとき、凛は“これは計画殺人よ”って断言してたじゃない」
いつの間にかいつもの調子に戻った陽菜が、少し意地悪く笑う。
そのやり取りに、私は放課後、オカルト雑誌を前に、他愛のない謎に対してお互いの推理を披露して話し合っていた光景を思い出した。
春になれば、凛はいなくなり、この光景も消える――感傷に浸っている場合ではない。今は、この屋敷から脱出することが最優先だ。
そう考えを今に戻そうとした時、凛が私に尋ねた。
「で、優はどう思うの?」
二人の視線が集まる。
「二人の説、どっちも可能性は低い。陽菜のは……凛の言う通りだし。凛の説も、陽菜が言ったように事件が注目されすぎてる。警察に圧力をかけられる力があるなら、もっと目立たない、例えば単純な強盗殺人事件とかの形に情報操作できるはず。それに、幽霊の噂を放置してるのも不自然。隠蔽するなら、もっと徹底するはず」
「じゃあ、優の説は?」
「……警察の捜査が終わった後に、あの地下道が作られたんじゃないかな」
私の突拍子もない仮説に、二人は驚きで目を見開いたが、すぐに反論が続いた。
「でもさ、トンネルを掘るのってすごく大変だってテレビで見たよ」と陽菜が言い、
「ええ。それだけの大掛かりな作業を、郊外とはいえ誰にも気づかれずにやるのは考えにくいわ」と凛も頷いた。
「……優、何を考えてるの?」
凛が私の表情を読み取り、低く問いかける。
私は一度深く息を吸い、ほぼ確信に近い仮説を口にすることにした。
その内容はあまりに悍ましく、できれば口にしたくはなかった。だが、そう聞かれてしまった以上、隠し通すわけにはいかない。
「もう一度、考えてみて。偏屈な富豪が建てた奇妙な館で、一家惨殺事件が起きる。やがて幽霊の噂が広まり、その通りに幽霊たちが徘徊し始める。さらに地下には秘密の洞穴があって、その奥には事件の容疑者がいて化け物に変わる……まるでゲームのように綺麗に舞台が整いすぎていると思わない?」
「……舞台、ってことは」凛の声がかすれる。「この館で起きた惨殺事件の動機って、まさか――」
「ええ。この“幽霊屋敷”という舞台を完成させるため、だと思う」
あまりに非人間的な結論に、二人は息を呑んだ。
「そんなの……そんな理由で……?」陽菜の声が震える。
「狂ってる」凛が低く吐き捨てた。
人間性を根底から踏みにじる考えに、二人の表情は強い嫌悪と恐怖に染まっていた。
「そんな途方もない芸当ができる“何者か”なら、誰にも気づかれずに地下道を掘るくらい、造作もないはずよ」
「でも、妙よね」と凛が言った。「噂や記事にあった死に方と、幽霊たちの姿が一致しない」
「それは、この状況を作った“何者か”が、人の死そのものに微塵も関心を抱いていないからだと思う。死に方なんてどうでもよくて、恐怖の象徴として適当に配置した、ただの駒なんでしょう」
陽菜が小さく震え、凛も表情を固くする。――一家惨殺事件が、ただの舞台装置。人の命を、物語の小道具としてしか見ていない……それはまるで底無しの悪意。
私は二人の肩に軽く手を置き、声の調子を落とした。
「……とにかく、今は脱出の手がかりを探そう」
「ねえ」陽菜が思い出したように言う。「さっき私、あの蜘蛛がゲームのボスキャラみたいって言ったでしょ。……あれが、この屋敷を作った張本人なんじゃない?」
その言葉に、私と凛は顔を見合わせた。
「なるほど……裏に黒幕がいるにせよ、実行犯はあれで間違いない」
「だとしたら、あれを倒せば外に出られるかも……!」
凛の目に思考の光が宿る。
「そんな簡単に……いや、でも、この状況を作ったのがあの女なら、元凶を絶てば……」
「可能性はあると思う」私は頷いた。
「でも、あんな化け物を倒せるの?」陽菜が不安げに尋ねる。
「おそらく、これまで通りなら何か糸口があるはず……そうよね、優?」
「ええ。幽霊と蜘蛛の行動パターン、地下への鍵……この状況にも必ず攻略のための手段が隠されてるはず」
「それなら……!」陽菜の顔に光が差す。
話しているうちに、私たちはいつの間にか一つの扉の前に立っていた。倉庫のようだ。
錆びついた取っ手に力を込めてこじ開けると、中は奇妙なほど整然としていた。農具や家具はどれも古びているはずなのに、まるで今まさに使われるのを待っているかのように、埃ひとつかぶっていない。
そして――その奥に、それはあった。
赤い塗装が鮮やかで、金属の光沢を放つ真新しい灯油タンク。軽く揺らすと、チャプン、と中身の液体が満ちている音が響く。すぐ横の壁には、注意書きのシールが貼られた新品同様の消火器が掛けられていた。
私はその光景を見据え、静かに、しかし確信を込めて告げた。
「――ええ。あいつを倒す手段は、手に入ったわ」
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