第五章:奈落の番人
――カチリ。
重い錠が外れる乾いた音が、静まり返った屋敷にやけに大きく響いた。私がゆっくりと古びた鉄扉を押し開けると、ひやりと湿った空気が顔を撫でた。黴と、もっと古い土の匂いが鼻を刺す。
そこにあるはずの地下室への木の階段はなかった。懐中電灯の光が照らし出したのは、ごつごつとした岩肌――だが、よく見ると表面には規則的な削り跡が残っていた。人の手で掘り進められた痕跡だ。自然にできた洞窟ではない。屋敷の地下に隠された、人工的な洞穴だった。
「……嘘でしょ。地下が、こんな……」
陽菜が息を呑む。見取り図に記載がなかった理由も分かった。これは影山源次郎が建てた「屋敷」の一部ではない。屋敷の下に、意図的に造られた構造物だ。
「……行くよ」
私が声をかけ、凛と陽菜が頷く。覚悟を決め、人工の通路を思わせる緩やかな下り坂へ足を踏み入れた。
洞穴の中は、しんと静まり返っていた。時折、天井から滴る水滴の音が規則正しく反響する。懐中電灯の光は奥へ進むほど吸い込まれ、数メートル先までしか届かない。壁面には古びた木材や錆びた金属の補強材が埋め込まれ、ここが意図的に形作られた空間であることを示していた。
どれくらい進んだだろうか。やがて道が開け、私たちは広大な地底空間に辿り着いた。
その中央には、周囲の岩とは明らかに違う、滑らかに磨かれた黒い岩でできた祭壇のような台座が鎮座していた。そして、その上に「それ」は立っていた。一人の女。十数年前の事件当日の姿のまま、完璧なスーツに身を包み、あの「仮面のような笑顔」を浮かべて。あまりに現実離れした光景に、私は言葉を失い、その場に立ち尽くした。新聞で、ネットで、何度も見たあの女が、今、目の前に――。
「……なんで……」
その瞬間、私の両腕が背後から強く引かれた。
「優、ダメ! 見るな、逃げるよ!」
凛の悲鳴に近い切迫した声。陽菜も泣きながら私の服を掴んで引っ張っている。二人の異常なほどの反応に私が戸惑っていると――祭壇の上の女の姿が、ぐにゃり、と歪んだ。
ミシミシ、と骨が軋むおぞましい音を立てながら、その手足は有り得ない方向に引き伸ばされ、胴体は風船のように膨れ上がっていく。人間のフォルムが崩壊し、黒い甲殻のような皮膚がスーツを突き破って現れる。その背中からは、まるで黒い刃物のような鋭利で巨大な蜘蛛の足が八本、一気に突き出した。
数秒後、そこにいたのは天井に届くほど巨大な、おぞましい蜘蛛の化物だった。人間の面影を残す口元だけが、歪んだ笑みの形を保っている。
『ギシャアアアアアアア!』
化物は、鼓膜を突き破るような甲高い咆哮を上げた。そして、その巨大な脚の一本を、自らが立っていた黒い祭壇へと容赦なく叩きつける。ゴウッ!という轟音と共に、祭壇は木っ端微塵に砕け散った。その破壊の余波だけで、私たちは吹き飛ばされそうになる。
化物の巨大な複眼が、一斉にこちらを向いた。
「逃げて!」
私は絶叫し、二人の手を引いて来た道を駆け戻った。背後からは、硬い岩盤を無数の脚で引っ掻きながら追いかけてくる悪夢のような音が迫っていた。
私たちは洞穴の暗闇から屋敷の廊下へと、転がるように飛び出した。
「早く、扉を!」
私が叫ぶと同時に、凛が重い鉄扉に全体重をかけて押し閉める。私は震える手で先ほど使ったばかりの鍵を鍵穴に差し込み、必死に回した。
――カチリ。
再び錠がかかる。だが、こんなものであの化物が止められるとは思えなかった。
一瞬の静寂。次の瞬間、鉄扉が内側から、ありえない力で殴りつけられたかのように、凄まじい音を立てて膨れ上がった。
ドゴォォォン!!
耳をつんざく轟音と共に、鉄扉は蝶番ごと壁から引きちぎられ、私たちのすぐ横の壁に突き刺さった。爆風と舞い上がった埃が視界を覆い尽くす。
「こっち!」
煙に紛れ、私は二人の手を引き、すぐ近くの部屋のドアへと飛び込んだ。私たちは部屋の奥の、ひっくり返ったソファの陰に身を滑り込ませ、息を殺す。
やがて埃が晴れ、廊下に静寂が戻る。ゆっくりとソファの隙間から廊下の様子を窺うと――そこに「それ」はいた。巨大な蜘蛛の化物が、破壊された扉の残骸の中から、屋敷の廊下へとその巨体を滑り込ませていた。
だが、その動きは、先ほどまでの破壊的な暴威が嘘のように静かで、ゆっくりとしていた。あれほど暴れ回っていた化物は、まるで自分が場違いな場所にいることを理解しているかのように、壁や床を傷つけないよう慎重に、一歩、また一歩と歩を進める。その姿は獲物を探す獣というよりも、定められた巡回ルートを確かめる冷たい機械のようだった。
そのあまりに不自然で不気味な光景に、私たちの間には重い沈黙が流れた。
「……ねえ、優」
凛が囁くような、しかし確信めいた声で言った。
「あの動き方……まるで、自分がどこまで動いていいのか、範囲を確かめているみたいだった。……もしかして、あれも、今までの幽霊たちと同じなんじゃないかしら」
凛の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。そうだ。あの慎重すぎる動き。破壊の限りを尽くせるはずなのに、あえてそうしない不自然さ。それは、定められた「法則」に縛られているからではないのか。
「……確かめてみよう」
私は自分でも驚くほど冷静な声でそう言った。
「やめてよ、優!」
ほとんど悲鳴に近い声で、陽菜が私の腕を掴んだ。
「無理だよ! あんなの、他の幽霊とは全然違う! 見たでしょ、鉄扉が……! 死んじゃうよ!」
「でも、このまま隠れていても、いずれ見つかるわ」
私が反論すると、凛も険しい表情で私を制した。
「優、待って。陽菜の言う通りよ。危険すぎる。他の幽霊とはパワーが違いすぎるわ。もし法則が違ったら、今度こそ終わりよ」
私は二人の目をまっすぐに見て、静かに、しかしはっきりと告げた。
「大丈夫。確証が欲しいの。だからお願い、手伝って欲しい」
私はスマートフォンの画面を二人に見せ、そこに表示された見取り図を指さした。そして小声で、しかし切迫した様子で計画を伝える。二人は恐怖に顔を青くさせながらも、私の言葉にやがてこくりと頷いた。
計画は決まった。凛と陽菜が息を殺してベッドの下に隠れるのを見届け、私は深く息を吸う。そして廊下に姿を晒す。ひたり、ひたりと、化物の足音が近づいてくる。心臓が早鐘のように鳴り響く中、私はただその時を待った。
しばらくして、廊下の角から巨大な影がぬるりと現れる。蜘蛛の化物が、ついにやってきた。その無数の複眼が、廊下に一人佇む私を捉え、ぴたりと動きを止めた。
『ギシャアアアアアアア!』
獲物を見つけた歓喜の咆哮と共に、化物は床板を軋ませながら私めがけて一直線に突進してきた。
――来る!
私は背を向け、計画通りに部屋の奥へと全力で駆け込んだ。部屋に飛び込むと同時に、わざと足をもつれさせ床に倒れ込む。その瞬間、すぐ傍にあったベッドの下から二本の腕が伸びてきた。凛と陽菜だ。二人は私の体を掴むと、力一杯ベッド下の暗闇へと引きずり込んだ。
間一髪だった。私たちがベッドの下に完全に隠れた直後、先程まで荒ぶっていたのが嘘のように、化物は静かにその巨体を室内へと滑り込ませてきた。
ベッドの僅かな隙間から、黒光りする巨大な脚が、床板を軋ませながら室内を歩き回るのが見えた。心臓が喉から飛び出しそうだった。陽菜が隣で声にならない悲鳴を噛み殺しているのが分かる。
やがて巨大な脚が部屋の中央でぴたりと止まり、こちらに背を向けた。
(今しかない……!)
私はほんの少しだけ頭をベッドの縁から覗かせ、蜘蛛の様子を窺った。化物は、まるで首を傾げるかのように巨体を揺らし、感情のない複眼で室内を機械的に見渡すだけだった。私がこの部屋に逃げ込んだのを間違いなく見ていたはずなのに、ベッドをひっくり返すでもなく、クローゼットを破壊するでもなく、ただ定められた手順をこなしているかのようだった。
そして――まるで最初から何もなかったかのように、静かに踵を返し、またゆっくりとした足取りで廊下へと出ていった。
化物の足音が完全に遠ざかり、部屋には私たちの荒い呼吸音だけが残された。賭けは、私の勝ちだった。
どれくらい息を潜めていただろうか。やがて凛がゆっくりと体を起こし、ベッドの隙間から廊下の様子を窺った。
「……行ったみたい」
その声で、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。私たちは埃まみれになりながらベッドの下から這い出した。
「もぉ……!」
陽菜が涙声で私の腕をぽかぽかと叩いた。
「心臓止まるかと思った……! 優のバカ! 本当に死んじゃうかと思ったんだから!」
「ごめん……」
謝りながらも、私の心は高揚していた。仮説は証明されたのだ。
「予想は正しかったみたいね。でも……」
凛が壁に手をつきながら、白皙の顔で私を睨んだ。その声は安堵よりも疲労の色が濃い。
「全く……今回のは特に心臓に悪かったわ。こんなやり方、ダメよ。リスクが高すぎる。もしあの化物が、少しでも賢かったら、私たちは今頃……」
そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせた。二人の恐怖はもっともだった。死と隣り合わせの、あまりに無謀な賭け。だが、その賭けに勝ったからこそ見えたものがある。
私は安堵と疲労で壁に寄りかかる二人に向き直り、静かに、しかし確信を込めて言った。
「これであいつも、他の幽霊と同じように『法則』で動いていることが証明できた」
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