六
九郎は出会ったばかりの、まだしゃべり方がおぼつかなかった月子を思い返した。
しかし要領を得ないだけで、彼女は影狼たちのように動き、殺されることなく逃げ回ることができた。
そして貪欲に学習を繰り返し、それがあの男と九郎を引き合わせたのだ。
そして太陽は。月子のように言葉が通じることはまずないが、月子と同じく頭が回るだろうことが想像できる。そして。
九郎はあの男の研究成果をこのまま野放しにしていいとは思えず、赤い水を完全に塞き止めるための方法を提案してもらった以上、それにすがるしかない。
どのみちこの赤い水をなんとかしない限りは、影狼をこれ以上帝都に出現させないようにするめどが立たないのだ。
あの男からしてみれば、赤い水は研究成果だったのだから、こちらがどれだけ頼んだところで、あの赤い水を消す方法など提示してくれなかっただろうが、太陽は違う。
九郎は太陽を見上げた。月子の端正な顔つきと太陽の丸い顔。成長しない太陽と成長した月子では、顔が似ているのかどうかがわからなかった。
「……太陽。お前は、月子さんになにか望みはあるか?」
「くろさん……!」
月子が悲鳴を上げる。
初めて出会ったとき、彼女はまだあどけなく、まともにしゃべることができなかったが。それでも彼女は帝都で過ごし、大家夫妻に面倒を見られ、銭湯や買い物、花嫁修業、お使いなどで情緒を育てていった。
育てた情緒が、彼女に影狼に対する情を育んだのだろう。
あれはきょうだいなのだと。
本来ならば、きょうだいを殺した九郎のことを憎んでもしょうがないと九郎は覚悟していたが、彼女は九郎を憎むことはなかった。
どちらかというと、彼女は「悪いことをするのはよくない」「理由もなく人に暴力を振るってはいけない」と認識しているようだった。
だが、太陽は月子を掴んだだけ。
父親であるあの男に言われたことをした以外、なにも悪いことをしていないのだ。
だからきっと悲しいのだろう。
太陽は月子にとって、初めて意思疎通のできるきょうだいであった。
他の影狼たちは、どれだけ月子が思いを寄せても、物事を気分でしか捉えない彼らは、月子をきょうだいと認識することはとうとうできなかったのだから。
その中で、太陽は「うーあーうー……」となにかを訴える。それを月子は「なあに」と見上げて聞いていた。
「月子さん、太陽はなんと?」
九郎の問いかけに、月子は悲し気に呟いた。
「……元気でねって。太陽、あなた本当にいいの?」
「うーうーうーなー」
「……きょうだいたちみたいに、痛い思いをしたくない。ここでおとうさまと一緒にいると、そう言っています」
「……なるほど。わかった。太陽がここでお前のお父さんの面倒を見ている限り、帝都側は君たちを襲う理由がない。君たちがなにもしてこない限りは、誰も襲わないから。安心してくれ」
「うー……っ!」
太陽はそう元気よく返事をすると、大きくひっくり返った。
小さな赤子がひっくり返ると慌てて皆が起き上がらせようと抱きかかえるが、太陽は抱えるにはあまりに大き過ぎる。
誰も持ち上げられることができないと躊躇していたら、そのまま赤い水たまりに飛び込んだのだ。
太陽はそのまま、全く浮かんでこなかった。
次の瞬間、だんだん赤い水が減っていった。
そして太陽の体も、だんだん赤子からぶよぶよとした肉塊へと形を変えていったのだ。それはあの男が言っていたほむんくるすなるものなのか、元になるものなのかはわからない。やがて肉塊はカピカピに乾いていき、パキンと音を立てて砕けてしまった。
赤い水の消失に、影狼の消失。
これを持って、地下鉄の影狼騒動は終わりを迎えるのだろうか。
「……あとは、隊長にどう報告するかだなあ……」
原はともかく、医師には絶対に月子のことを教えてはいけない上、あの男を捜してもらっても困る。
月子はしばらく、太陽の消えてしまった場所を眺めていた。しかし最後に彼女はペコンと頭を下げると、「くろさん」と彼の手を引く。それに九郎は微笑むと、手を繋いで原たちの元へと帰って行ったのだ。
やっと、長い長い夜が、終わりを迎えようとしていた。
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