二
その日、九郎は久々に表通りに出るのだからと、服を真剣に見つめていた。
服に対して無頓着な九郎はろくなのしか持っておらず、警備隊の詰襟が一番ましという体たらくであった。でもそれだと月子に対して申し訳がないだろうと、どうにか一番しっかりとしている着物を一枚選び、それに袴を合わせて出かけることにした。
月子を大家の家に迎えに行ったとき。妻は出てこずに大家が出てきた。
「うちの奥さんずいぶんと張り切っててねえ。娘が早くに嫁に出てしまったし、うちの寄宿舎にいる女性たちはしっかりし過ぎて世話を焼かせてもらえないからと、世話焼きを持て余していたんだよ」
「……なるほど」
日頃の彼女の月子に対する過保護さを思えば、納得できることだった。
彼女は母性愛というか、世話焼き欲を持て余していたところで、月子が転がり込んできたのだ。
寄宿舎で厄介になっている男たちはあまりに馬鹿過ぎる上に、着飾らせても面白みに欠けるが、その点月子は教えればへちまのたわしのようにぐんぐん吸収していく。その上、いろんな服を着せて化粧するといい具合に化けるものだから、世話をするにもやりがいがあるのだろう。
やがてガラリと大家妻が月子を伴ってやってきた。
「お待たせしました! さあ行ってらっしゃい!」
「は、はいっ!」
バシンと叩かれて出てきた月子を見て、九郎はあからさまに狼狽えた。
日頃から月子は大家妻に大変可愛がられ、着物を着せられて化粧を施されていたが。
今日はどこで用意してきたのか明らかに上物の友禅を着せられている。真っ赤な布地に真っ白な芍薬が咲き誇り、そこに真っ黒な蝶が飛んでいる。どんな柄の布地も、蝶が飛んでいるとどの季節でも着られるから人気のある絵柄であった。
「月子さん……お似合いです」
「そうですか? 嬉しいです」
月子は九郎の言葉ににこにこと無邪気に笑うのを、それはもう大家夫妻は温かい眼差しを向けて「行ってらっしゃい」と送り出してくれたのだ。
煌びやかな表通りを歩きながら、月子はあっちこっちに視線を向ける。
「くろさん、あれはなに?」
「あれはフルーツパーラーというものですよ。果物のお菓子が食べられます」
店の向こう側では、お皿に盛られたケーキを楽し気に食べる令嬢たちが見られた。
フルーツパーラーは庶民にとっても憧れの店である。
ミルクホールや珈琲店など、牛乳を普及するためにつくられた店は数多くあれど、高級果物をふんだんに使ったお菓子の食べられる店は貴重であった。
「あれは?」
「あれは洋服店ですね。所謂モガやモボは普段から洋服を着るのだそうです」
ショーウィンドウに並んでいるのは人形に最近流行りの背広を着せたり、ドレスの着せたりして、雑誌の表紙のような姿勢を取っている。店から出てくるのは、華やかなスーツを着た男性や、その男性の腕を取って颯爽と歩く女性だ。
「じゃあくろさんはモボ?」
「制服が洋服なのは、どうなるんでしょうねえ……」
仕事着として背広を着る人々も増えているし、ミルクホールで働く女給などは専ら洋服を着ている。しかし私服として洋服で歩き回る人たちは、若者以外は未だにそこまで多くない。
月子の言葉に、九郎は「どうなんだろうな」と考えている間に、目的の劇場に到着した。
もぎりに券を渡して千切ってもらうと、中へと入っていく。
女性にも人気な源義経を使った演目なのだから、多分月子も気に入るだろう。
しばらくしたらスクリーンが暗くなり、その手前に弁士が座って、弁士が気風よく語りはじめた。
最初は月子はよくわかってなかったらしく、九郎の顔を見ていたが、九郎は他の客の迷惑にならない程度に耳元で囁く。
「あそこに弁士が座っているでしょう? あの方が活動写真の説明をしてくれています。彼の話をよく聞いてくださいね」
「べんし?」
「あの口調で扇子をべんべん叩いて解説してくれるから、弁士ですかね」
実際のところ、九郎も「弁士は弁士」と思っているために、どう説明すればいいのかがわからない。落語家は落語を話す人だし、弁士は弁舌する人だから、それ以上説明しようがなかった。
九郎の胡乱な説明に最初は月子も訳がわかっていなかったが、とかくこの弁士は力のある人物で、座布団の上に座り、扇子を絶妙なタイミングで叩き、立て板に水と言った様子で滑らかにしゃべるものだから、最終的には大きく動き回る映像と一緒に夢中になって見ていた。
かく言う九郎も、最初こそ月子が退屈しないかを気にしてちらちらと横を見ていたが、彼女が純粋に楽しんでいるのがわかってからは、こちらも活動写真に夢中になっていた。
平家を滅ぼした英雄になったところから一転、兄の頼朝との確執、都落ちして恋人の静と別れる場面は涙を禁じ得ず、最後の華々しい最期には胸が締め付けられる思いだった。
最終的に拍手喝采だった中、九郎は気を揉んで尋ねた。
「どうでしたか? 面白かったですか?」
「はい、すっごく面白かったです。頑張って頑張っても、最後に報われなかったんですね?」
そう言われると、九郎も言葉に詰まる。
実のところ、源義経は伝説が多過ぎる上に、能や狂言にはなにかに付けて出てくる。
それこそなんで出てくるのかわからないところでも出てくるため、この国の人間は彼への親しみが刷り込まれていた。だからこそ、彼が報われない人生だったかと言われると、どう答えるのが正解かがわからない。
「そうですね……彼の生き方はやりきれないと思うかもわかりません。ただ、彼は英雄として名を残して、今でもずっと親しまれてるんですよね。それは帝都民が判官贔屓なのかもしれませんが」
「はんがんびいき?」
「可哀想と思った人や不幸な人について、同情してしまうことのことですよ」
九郎の言葉を月子が理解できたかどうかはわからない。ただ、彼女は何度も何度も「はんがんびいき……」と唱えていた。
帰りに彼女がずっと凝視していたフルーツパーラーへと出かけることにした。
お品書きに乗っている値段は九郎にとってはやや痛い出費だったが、彼女がおいしそうにバナナショートケーキを食べる様を見ていると、高い金を支払ってよかったと思えた。
それからも、彼女はあっちへフラフラ、こっちへフラフラ歩くのを、九郎は必死で付いて回る。
「月子さん、今日はもう帰りますよ」
「は、い……あれは、なんですか?」
「ええっと……」
月子が指を差したのは、女性の頭だった。それに九郎は慌てて「人を指差してはいけません」と止めると、月子はおずおずと手を降ろした。
それでも一応月子が指差した方角に視線を移した。
指を差された女性は、九郎と月子の視線に気付くこともなく、楽し気に友達としゃべって歩いている。
彼女は派手な染色の施された銘仙を纏い、袴を合わせて軽やかに歩いていた。
そして月子が凝視した先の彼女の髪。昨今の女学生はリボンを留めるのが流行っているが、一部は髪留めで留めていた。
かつてよく使われていた簪では、今風の髪型にはいまいちそぐわず、洗濯ばさみのように髪にはさみ込むものが流行の兆しを示していた。彼女の髪留めは銀色の金属でつくられた菊の花束のようだった。
「髪留めですね。どうしましたか?」
「かみどめ……」
月子は自分の髪を留めているリボンに触れていた。それに九郎は少しだけ戸惑った。
彼女は一を覚えれば十を学ぶほどに成長が早い。それと同じように、ずっとあどけない幼いと思っていた彼女が、勢いを付けて思春期に突入しているように思えた。
九郎は十代の頃合いのとき、女学生との接点はほぼなかった。ただ田舎の母に口酸っぱく言われたことがある。
「十代の年頃の女の子は、十代の男子と比べるまでもなく大人びてるから、あまりふざけたことばかりしていたら、子供扱いから抜けなくなるから」
それが一緒に過ごした月子にも起こっているように感じたのだ。
(……妙齢の人って、なにを贈ったらいいんだ?)
九郎はそもそも、髪飾りに限らず女性になにを贈ればいいのかということを知らなかった。ただでさえ女性との接点がほぼほぼない田舎で育った上に、娯楽の欠けた田舎で育ったのだから、女性に贈り物をする習慣すらなかった。
九郎は寄宿舎に帰ってからも、悶々と月子の喜ぶ贈り物について悩むことになってしまったのだった。
月子には謎が多い。
いったいどこの誰かなのかにはじまって、どうして影狼から逃げていたのか、どうして影狼から逃げ切れたのか。そもそもどうして記憶がなく、ほとんど童女同然だった彼女の成長速度の速さはいったいなんなのか、なにひとつわかっていない。
ただ、ふたりで一緒に歩いているときだけは、任務のことを見ている人は誰もいない。
活動写真で描かれる義経は、皆と一緒にいるときは英雄として振る舞わなければいけなかったが、静といるときだけは、ただの仲睦まじい恋人同士として過ごすことが許された。
今の九郎にとって、月子とふたりっきりでいるときだけは、他の任務を考えずに済んだ。影狼のことも地下鉄開通のこともそっちのけでいることができた。
しかし、九郎は残念ながら英雄ではなく、月子もただの悲劇の白拍子ではなく、影狼騒動の解決の糸口だった。
いつまでも見て見ぬふりはできない。
(でも……)
それでも九郎は祈らずにはいられなかった。
月子がどうか平穏に過ごせるように、記憶を取り戻さず渦中に放り込まれることがないようにと。
今のふたりは、帝都の表通りを一緒に歩く少し洒落たふたりにしか見えない。
未だに誰も、地下鉄開通のためにおぞましい化け物の討伐が行われていることなんて知るはずもないのだから。
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