二章
一
九郎の一週間の予定はこうなっていた。
火曜と金曜は定休日。
残りは早番か遅番に地下道に潜り込んで、影狼の探索及び討伐をしていた。
「新入り! ひとりで突っ走るな! 影狼はひとりでは絶対にかなわない!」
「はいっ!」
人数が常にかつかつな地下鉄警備隊は、負傷者が出ても補充の隊員はなかなか来ない。
しかし人数が足りなければ影狼討伐もままならず、現在なお働いている地下鉄開通の作業員たちが死んでしまうため、陳情をして、返答がなくても続けることで、どうにか補充人員を確保し続けていた。
補充人員は専ら警察からの出向か、鉄道警備隊からの出向である。
警察からの出向ならば、よほどのことがない限り突っ走ることもないのだが、問題は鉄道警備隊からの出向だった。
政府高官が新造された駅のオープニングセレモニーに参列する際に警備をするような華々しい活躍にありつけるようなところや、スリ、ひったくりなどが多い区画の警備ならば活躍する場も多いだろうが、鉄道警備はなにもそんなに人や事件の多い場所ばかりではない。
人がいない場所に配属された鉄道警備隊員は、承認欲求に飢えていた。
新聞を読んで、どこかの駅のオープニングセレモニーの警備に当たる同期や、犯罪者逮捕に貢献した鉄道警備隊を見つけるたび、歯ぎしりするのである。
人は暇になるとろくなことを考えない。新聞を読んで承認欲求をこじらせた者たちが、活躍する場を求めて、地下鉄警備隊の出向を申し込む者が後を絶たなかったのである。
影狼討伐は華々しいものではなく、ただの害獣駆除だということをわかっていない者たちから順番に、命を落とすのだ。
元々この班は、原の元に送られてきた警察からの出向や九郎のように配属部隊が壊滅してしまった末に再編成でやってきた者たちで構成されている。この班は、ときおり地下鉄警備隊からの出向隊員のおかげで引きずり回されていた。
その日も、やたらと血気盛んな者に遭遇し、九郎は鼻白む思いを覚えた。
(駄目だ、彼は長生きできない)
目がキラキラと輝くのは、本来ならば蒸気機関車に向けるべきものだが、彼は地下鉄警備隊の行動理念にその目を向けていたのだ。
影狼討伐は、特に新聞記事にはならない。どれだけ影狼討伐をしても英雄にはなれないし、尊敬されることもない。自分も英雄になれると思わなかったら、これだけ目がきらめくことはないのだから。
九郎は何度も新入りに口酸っぱく指示を出した。
「一対一で影狼と対峙するな」
「ひとりが囮。必ず影狼の牙を耐え抜け。残りは全員で背後から刺すこと。絶対に複数対一でない限り対処しようとするな」
「影狼は害獣であり、倒せば英雄になれるようなものじゃない、わきまえろ」
「俺たちは正義の味方じゃない。納期通りに工事を終わらせるのが使命であり、作業員たちを守るのが仕事だ」
自分もここに配属された際に何度も何度も、それこそ耳にタコができるまで言い聞かされた話を口酸っぱくし続けたが、どうも彼には届かなかったようだ。
承認欲求は、人の目を濁らせ鼓膜を鈍らせる。
そのときも、作業員たちからの報告を受け、影狼の鳴き声の聞こえたという方角に出向いた際だった。
「ガラララララララァ」という鳴き声を耳にした途端、新入りは走り出してしまったのだ。
「おい! だから! それは囮のすることであって、お前にまだ囮は無理だ!」
九郎は必死に「戻れ!」と叫ぶが、新入りには届かなかった。
「無理かどうかは先輩があとから決めてくださいよ!」
新入りが影狼の囮になってしまい、彼の腕が噛み千切られたのと同時に、影狼を仕留めることに成功したのだった。
当然ながら新入りは地下鉄警備隊を除隊になってしまった。彼にはどれだけ見舞金が支払われるのかは、九郎も把握できてない。
それには九郎は苦い気持ちになる。
「彼は承認欲求に飲まれてしまった。私たちは何度も言った。あなたも何度も警告した。それでも止まらなかった……それだけのことだわ」
原はそう慰めてくれたが、九郎はそれに「はい」以外に答える言葉を持っていなかった。
慣れることはない。諦めるのが上手くなるだけだ。
地下鉄開通工事は、地下鉄警備隊の防衛がないと進むことはなく、実際に期限ギリギリまで工事が遅れているのだから、巻き返しを図るためにも原因究明を急がなくてはいけなかったが。
そもそも原因究明に人員をほぼ割けないほどに、かつかつの人数で回している。もっと影狼の巣の調査ができる程度に人員を割くとなったら、隊員の定休日は一日だけになっていただろう。
本来ならばもっと人手を増やしてほしいというのは現場の隊長たちの意見ではあるが、現場の部隊員たちからしてみると「これ以上無鉄砲な者が増えると戦えない」という声も飛び交い、増員の話は遅々として進まない。
せいぜい九郎たち地下鉄警備隊が討伐した影狼が、医師たちによってどこかに持ち運ばれていくくらいである。
これで生態調査をして、影狼討伐に貢献しようという話だったが、どの辺りに貢献されているのか、いまいち九郎には理解ができなかった。
唯一影狼から無傷で逃げ切った月子を九郎が引き取り、早二週間が過ぎた。
彼女は定期的に地下鉄警備隊の詰め所に連れて行かれ、事情聴取を受けていたが、どうにも話す内容は要領を得ないままだった。
「彼女、なかなか記憶が戻らないのね?」
その日も月子の事情聴取を終えた原は、歯がゆい顔をしながら九郎に語りかけてきた。
地下道の最奥で、工事が続いている。
今日は順調らしく、駅がひとつ完成しつつあった。
帝都に地下鉄が開通し、帝都の各地が繋がれば、たちまち交通が便利になる。
なんと言っても車は未だに庶民には高くて手が出せず、だからと言って地上の列車だけでは車内が混雑し過ぎて出かけたい人が全員乗り込むことができない。他の地ではしがらみが多い分、心機一転して帝都に越してきた人々は多いのだから、列車に人が耐えず集まり、それだけでは足りないのは当たり前の話だった。
駅が増えればその分利用者も分散され、行きたいところに行けてやりたいことをやれる人が増える。
そんな中、九郎は原に何度も何度も月子について尋ねられていた。そのたびに、彼女の世話役を任された九郎は、首を振るしかなかったのである。
九郎が出かけなければならないときは、大家夫妻に彼女を任せ、九郎は影狼に剣を振るっていた。彼女は大家夫婦とならば和やかに会話ができるようになったし、あれだけおぼつかなかった言葉も、少しずつだが年相応の言葉遣いに近付きつつあったが。
それでも彼女の記憶は戻らなかった。
「……医者にも診せましたが、記憶喪失の人間というものは、二種類あるそうです」
「二種類?」
見かねて九郎は、近所の医者に診てもらったが、その医者に見立てによると。
「ひとつは一時的な記憶喪失です。頭を打ち付けたり、深酒で記憶が飛んだりですね。これらはしばらくすれば記憶が戻ってくるものらしいですが」
「まあ、そうね」
頭を打ち付けた話や酒の失敗なんかは、落語でも定番のネタである。その中、九郎は重々しく続ける。
「もうひとつは心的傷害によるものだそうです」
「心的傷害?」
「はい。心身共に深く傷を負った場合、なにかの拍子に痛かった記憶を封印してしまうとのことです。この場合は、いつになったら思い出すのかがわからないのだとか」
「つまりは……彼女は影狼に会った際に記憶を封印されてしまって、思い出せないとか?」
「その可能性はありますが……」
しかし九郎からしてみると、医者の見立てではあるが、どちらもあまりしっくり来なかった。月子にはどちらの見立ても当てはまらないように思えたのだ。
彼女は九郎が地下鉄に出かけて影狼討伐をしている中、大家夫婦に面倒を見てもらっているが、たびたび首を傾げられるのだ。
「彼女、どこかのお嬢さん? こんなことも知らないのよ」
たびたびそう聞かれるのだ。
地名がわからない。同じ帝都でも、大通りと裏通りだと風情も様式美も変わるから、まだギリギリわかる。瓦斯の使い方がわからない。これも必要最低限の瓦斯の整備も大家夫婦の家以外、長屋を改築した寄宿舎にはないからまだわかる。
ただ、近所の銭湯に出かけた際、体の洗い方や髪の洗い方、顔の洗い方まで大家の妻が面倒を見てくれたと聞いたときにはさすがにおかしいと思った。
体を自分で洗ったことがないなんて、相当金持ちの令嬢でなければ聞いたことがないし、今は女子校の寄宿舎に入れられる令嬢だって存在するのだから、自分の身だしなみは必要最低限は自分でできないと寄宿舎生活だってままならないだろう。
まるで月子は、大きくなって突然生まれた赤ん坊のように、毎日たくさんの刺激を受けて成長している最中のように思える。
彼女を閉じ込めていたところは、いったいどうして彼女をここまで育てておきながら無知に育てたのだろうと、信じられないものを見る目になる。
九郎は原にそう報告して帰ったある日。
「九郎くん九郎くん」
大家妻に預けた月子を食事に誘おうとしたときだった。彼女がやけにニヤニヤしながら声をかけてきたのに、九郎は首を捻った。
「ただいま戻りましたが……あのう、なにか?」
「活動写真なんて興味ないかしら?」
「活動写真ですか……」
なんでも動く写真らしい。
演劇や時代劇など荒唐無稽な写真を動かし、弁士が滑舌よくその物語を語ってくれる。演劇や時代劇には舞台上のお約束をわかっていないと楽しめないものが多いが、活動写真は弁士の説明により比較的お約束を知らなくても楽しめるために、最近は活動写真専門の俳優なども出るようになっていた。
九郎もそこまで詳しくないが、前に警備隊の面子と出かけて見たことがあるが、なかなか楽しい体験だった。
「券を二枚いただいたのだけれど、うちの人、あんまり長いこと座ってられない性分でね。悪いんだけどこの券をもらってちょうだいな?」
「そりゃかまいませんけど……でも誰と行けと」
「月子さんがいるじゃないの」
「えー……」
「あら、嫌だったかしら?」
大家妻に言われても、九郎もどう返せばいいのかがわからない。
(月子さんは活動写真の最中、大丈夫なんだろうか。退屈して歩き回らないだろうか……)
月子は基本的に言われたらその通りに行う、比較的融通の利く性格をしているが。それでも彼女に活動写真を見せるのは未知数なため、どんな反応をするのかが全く読めなかったのだ。
大家の家にいる月子に「月子さん」と声をかけると、月子は大家妻に習っていたのか、繕い物をしていた。
最初のほうを見ると縫い目が大きく、どこをどう継いだのか丸わかりだったのが一転、だんだん繊細な縫い目に変わっていき、最終的には縫い目の隠し方が上手くなり、どこをどう継いだのかわからなくなっていた。
「ほら、月子さん。最初は本当に育ちがよ過ぎたのかしらね。ちっとも裁縫ができず、針穴に糸を通すことすらできなかったんだけどね、こんなに上手くなって。これたった一日教えただけでよ?」
「そうですか……」
たった一日で職人顔負けの腕になったというのには、さすがに九郎も目を見張った。
思えば彼女は学習能力が異様に高い。最初はたどたどしかった言葉がだんだん妙齢の女性のものに変わっていったのと同じように、箸の使い方、道の覚え方など、その日のうちに覚えてしまう。
地頭がいいのだろうとは思うが、彼女の育ちがよかったかは九郎にとって疑問であった。
もし育ちがいい娘であったら、彼女が初めて出会ったときに着ていた襦袢と変わらないほどの薄い着物の説明が付かないのだ。
いいところの女子の着物は布地の柄が派手なだけでなく肌触りもよく、夏は涼しくて冬は温かいと聞く。絹を日用着にしているというのは、田舎育ちの九郎にとっては信じられないことだった。その点月子のあの着物は、どう見ても安い麻だったのだから、彼女が大切に育てられていたのならあれを着ていた説明が付かない。
九郎がそう考え込んでいたら、月子は針山にブスリと針を刺すと、九郎の元に寄っていった。
「くろさん? どうかなさいましたか?」
「ええっと……すみません。今度の休みの日、出かけませんか?」
「出かける? うなぎ? 天ぷら?」
「あーあーあーあーあー……すみません。食事以外はあまり出歩かなくって」
出かけることを食事と結び付けてしまった月子に対して、九郎は心底申し訳なく思う。
九郎はそもそも逢引できるような余裕のある都会で育ってなかったため、帝都の女子を逢引に誘う際にどこに連れて行けばいいのかなんて、知る訳がない。
九郎は気を取り直して、咳ばらいをした。
「活動写真の券を奥さんからいただいたんですよ。よろしかったらいかがですか?」
「かつどうしゃしん……?」
案の定というべきか、月子はいまいちピンと来てない様子だった。それに九郎は頷く。
「動く写真に物語が付いたものですよ。面白いです」
「面白いんですか? なら行きたいです」
「そうですか。なら参りましょう」
まるで初等学校の男女の会話なのだが、残念ながら九郎はなにを言ったら気が利いているのかがわからなかった。
彼は世の作家のように洒落た言い回しなんかはできる訳がないし、色男のようになにを言っても様になる役得も持ち合わせていない。
結局は実直に伝える術しかなかったのである。
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