第二部 そして、夏は巡る

第六章 久しぶり

 真夏の午後、図書館の自動ドアが静かに開いた。外の陽射しは鋭く、白く焼けつくように強くて、建物の影から差し込んだ光が床にまっすぐな帯を描いている。相川はいつもの席で無心に新聞を広げていた。


 ページをめくる。


 ふと、目の端にどこかで見覚えのある歩き方が映った。背筋はすっと伸び、足取りは軽やかで、トートバッグの端が揺れるたびに、あの頃の記憶が少しずつ蘇ってきそうだった。視線を上げると、茶色がかった髪が肩で揺れ、参考書が詰め込まれたトートバッグをぶら下げた若い娘が図書館の入り口に立っていた。日焼けした頬は、まるで夏そのものを抱きしめているかのように輝いて見える。年齢は十八、浪人生のようだ。


 ――どこかで見たことがある気がする。でも、どうしても思い出せない。


 胸の奥で微かな予感が芽生えるが、それを確信に変えるにはまだ時間が必要だ。年齢も、十一年という歳月も、その間に重なった距離も、まだ消せない隙間を作っているから。


 そう思いながら、相川は再び新聞に目を落とす。しかし、あの歩き方が背後に残した微かな違和感が、どうしても頭の片隅で引っかかっていた。視線の端で影を追うように、どこかで見た気がしてならない。


 そのとき、肩を軽く叩くような、若い声が耳に飛び込んできた。


「あ、久しぶり!」


 顔を上げると、先ほどの娘が目の前に立っていた。軽やかな足取りはそのままこちらへと伸びてきて、娘の瞳は迷うことなく相川を捉えた。口元には、懐かしさを宿した、どこかあどけない笑みが浮かんでいる。


「おじいちゃん、名前何だっけ?」


 突如投げかけられたその一言に、相川は一瞬、言葉を失った。若い人に「おじいちゃん」と呼ばれるのは、何年ぶりだろうか。


「私は、相川だが」


 そう答えると、娘は少し首を傾げてから、さらに尋ねた。


「違う、下の名前」


「誠一」


「誠一かぁ…じゃあ、聞いてよ」


 相川が「誠一?」と反応する間もなく、娘は話し始めた。


「浪人中でさ、第一志望が落ちちゃって、今は再挑戦ってわけ。暑いから涼みに来たんだけど、図書館で勉強する方が集中できるんだよね。」


 矢継ぎ早に近況を語り、時折軽い笑い声が混じる。その話し方には、昔の無邪気さが色濃く残りながらも、大人びた乾いた冗談も交じっていて、相川は心の中で少し微笑んだ。


 相川は適当に相槌を打ちながら、相手の話を遮らないように心掛ける。話が進むにつれ、相川は自分でも気づかないうちに、どこか可笑しさを感じていた。けれども、その気持ちを表に出すことはしなかった。自然と距離を保ちながら、会話に乗っている自分がいた。


「会話室へ行こう」と娘が言うと、特に断る理由もなく相川はついていく。冷房の効いた小さなスペースに腰を下ろすと、娘は参考書をテーブルに広げ、「ここ、見てよ」と目を輝かせた。相川はその視線の熱さに、一瞬、眩しさを感じた。それと同時に、無垢なものを守りたいという気持ちが、胸の奥に小さく芽生えるのを感じた。


 だが、それでも相川はまだ確信を持てなかった。十一年という歳月が、彼の記憶を幾重にも重ね、そして消してきた。娘の声や歩き方、仕草は、どこか見覚えのあるものを微かに彷彿とさせるが、それが確かな記憶となるにはもう少し時間が必要だ。


「暑いね、冷房ありがたいわ」


 娘の言葉に、ようやく相川は現実に引き戻される。微笑みを返しながら、相槌を続ける。会話は途切れることなく、午後の図書館の静けさを二人の声で優しく分け合いながら、時間だけが流れていった。

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