第五章 九月の長椅子
八月の終わり、図書館の自動ドアが静かに開く。冷たい空気がひとしずく、夏の名残を残しながら流れ込んできた。そんな空気を胸いっぱいに吸い込むと、相川はいつもの絵本コーナーへと足を向けた。
しかし、その日、そこにあったはずの小さな影は、どこにも見当たらなかった。
前日、少女はいつも通り「また明日ね」と手を振って別れた。その「明日」が、今、こうして来ない。最初はただの偶然だと思おうとしたが、どこか胸の奥でひっかかるものがあった。肩透かしを食らったような、心にぽっかりと空いた感覚が広がる。
「風邪でもひいたのだろうか。それとも、家の都合か……」
そんな風に理由を考えてみても、確信は持てない。ただ、言葉を交わしたのは図書館でのわずかな時間だけで、少女の電話番号も住所も知らない。だから、確かめようもないのだ。ふと、窓際の席や棚の陰を気にして覗き込むが、やはり彼女の姿は見当たらない。
九月が訪れると、蝉の声は静かに消え、外から吹き込む風がひんやりと感じられるようになった。絵本コーナーの長椅子も、相川ひとりでは妙に広く感じられる。
ページをめくる。
その音がひときわ大きく響いて耳に届き、手元の絵本の色が、少しだけ淡く見えるように思えた。
無意識のうちに、目はいつの間にか少女が座っていた席へと向かう。そこには誰もいないのに、誰かがいたような気配が漂っている。形のない温もりが、まだその場所に残っているような、不思議な感覚。
少女が笑ったときの、あの高い声。読み聞かせの途中で、無邪気に寄りかかった小さな重み。窓の外の蝉の声まで、あの日と同じ温度を持って戻ってきた気がした。
相川はそれを「寂しさ」とは呼ばなかった。ただ、それは「もう二度と戻らないあの夏にしかなかった時間」として、胸の奥にそっとしまい込んでいた。それは、いつか不意に訪れる瞬間にその光に触れることができるような、そんな淡い希望を抱いているだけのこと。理由はなくても、ただ心の中に信じている。
そして、季節が巡り、十一年が経った。
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