第8話 呼び声を聞くは片羽根のイデア
灰色の冬の空が広がっていた。
冷戦のただ中、東欧の小国は鉄のカーテンに覆われていた。言論は検閲され、詩や歌は国家に従属させられた。
若き詩人エレーナは、反体制の詩を密かに書いた罪で追われ、夜の国境を越えて西側へと逃れた。
彼女が持ち出せたのは小さなノートと、記憶だけだった。
だがその記憶の中に、いつも鳴り響いている音があった。
――リングドエイルの大鐘。
◇
故郷の広場に立つ鐘楼には、大きな青銅の鐘があった。
子どもの頃、エレーナは母に手を引かれてその鐘を見上げた。
「この鐘はね、国が変わっても、戦争が来ても、ずっと鳴り続けてきたのよ」
母はそう言って微笑んだ。
鐘はいつも街を包み込むように鳴っていた。
朝は労働の始まりを告げ、夜は祈りを呼び、葬送の日には人々の涙を慰めた。
彼女にとって鐘は「祖国そのもの」だった。
だが政権は鐘の音を「反体制の象徴」として恐れ、ついには鳴らすことを禁じた。
鐘は沈黙を強いられ、広場に吊られたまま朽ちていった。
◇
亡命先の街で、エレーナは狭い部屋に住んでいた。
言葉も通じず、詩を発表する場もない。
夜ごと孤独に包まれ、涙が枕を濡らした。
だが、眠りに落ちるとき、夢の中で鐘が鳴った。
――ゴォォォン。
それは遠い祖国から届く声のようだった。
彼女は夢の中で母の姿を見、幼き日の自分を見た。
鐘の下で笑い、歌い、詩を朗読する少女の姿。
目覚めたとき、その残響が心に詩を生み出していた。
◇
やがて彼女は小さな詩集を出した。
亡命者の同胞の間で細々と読まれたそれは、「鐘の詩」と呼ばれた。
言葉は母国語で綴られていたが、不思議と他国の人々の心にも響いた。
「鐘は誰の心にもある」と、読者たちは口々に言った。
エレーナは思った。
――鐘は国境を越えているのだ、と。
亡命した自分の胸にも、異国の人々の胸にも、同じように鳴り響く。
◇
数十年が過ぎ、冷戦が終わり、故郷の国は解放された。
エレーナは老いた身を引きずり、再び祖国の広場に立った。
そこには、錆びてひび割れた鐘が吊られていた。
かつての威厳は失われていたが、それでも堂々とそこに在った。
彼女は震える手を伸ばし、鐘の冷たい表面に触れた。
「私はずっと、あなたの声を夢で聞いていました」
涙が頬を伝った。
その瞬間、広場にいた誰かが紐を引いた。
――ゴォォォン。
久方ぶりに鳴らされた鐘の音が空に広がった。
人々は立ち止まり、泣き、笑い、抱き合った。
エレーナは目を閉じた。
それは亡命の孤独を癒す音であり、母の声であり、詩そのものだった。
◇
その後、エレーナは帰国することなく、異国で静かに息を引き取った。
だが彼女の詩は故郷に戻り、鐘と共に語り継がれた。
人々は言った。
――「亡命者の耳には、鐘が絶えず鳴り続けていた」と。
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