第4話 天頂に座すは黒の双眸

 潮の匂いが町を覆っていた。

 西アフリカの港町エル・マリーナ――そこは交易の中心地であり、象牙、黄金、香料、そして人間が取引される場所でもあった。


 灼熱の太陽の下、奴隷市場はざわめきに満ちていた。裸にされた男女が縄で繋がれ、買い手たちの目にさらされている。声は喧噪にかき消され、足元には砂と血が混じっていた。


 その市場の中央に、一つの鐘が据えられていた。

 リングドエイルの大鐘。

 遠い地から運ばれ、今は秤の代わりに使われている。鐘の重みと取引する物資を釣り合わせるためだ。


 鐘の口には縄が通され、奴隷の鎖と共に引きずられていた。

 もはや神聖な音を響かせることもなく、ただ「重さ」として計られていた。


     ◇


 コフィはまだ十五歳の少年だった。

 村を襲った銃声の中で捕らえられ、ここへ連れて来られた。父も母も分からない。列に並ばされ、買い手の視線を浴びながら、彼は鐘に目を奪われていた。


 錆びた表面に刻まれた模様。古い血の跡のように黒ずんだ傷。

 それが彼には人の顔に見えた。泣いているような、怒っているような。


「この鐘は、何だ……?」

 小さく呟いたとき、隣に繋がれた老人が言った。


「これは昔、神の声を響かせるものだった。

 だが今は、人の値打ちを量るだけだ」


 少年は息を呑んだ。

 鐘が神の声? それが今、奴隷と同じように扱われている?


     ◇


 市場のざわめきの中、交易商人たちは大声で数を読み上げた。

「この鐘の重さは二千ポンドだ! 象牙二十本と同じだ!」

「いや、奴隷三十人分だ!」


 笑い声が響く。

 鐘は吊り上げられ、秤にかけられる。人々の呻きと同じように、ただ数値として並べられていく。


 その光景を見ながら、コフィの胸に熱がこみあげた。

 鐘は泣いている――。

 彼には確かにそう聞こえた。


     ◇


 その夜。

 奴隷たちは市場の裏の倉庫に押し込められた。鉄格子の隙間から、港に停泊する帆船の影が見える。明日には彼らは積み込まれ、海の向こうへ連れ去られるだろう。


 だが、鐘もまた船に積まれると聞いた。

 コフィは胸を震わせた。

 ――ならば、自分と同じく鎖に繋がれた鐘だ。

 人間と鐘が共に運ばれるなら、きっとそれはただの物ではない。


「鐘よ、鳴ってくれ……」

 彼は祈るように囁いた。


 すると、不意に夜風が市場を抜け、鐘が揺れた。

 ――ゴォォン。

 掠れた小さな響きだった。

 だが倉庫の中にいた奴隷たちは、一斉に顔を上げた。


 誰もが声を潜めた。

「……鐘が鳴った」

「神が我らを見ているのか」


 その一音は、絶望の中に灯る火となった。


     ◇


 翌朝。

 鐘と奴隷たちは共に船に積まれた。海原へと漕ぎ出す。

 太陽は容赦なく照りつけ、波は重苦しい。


 コフィは船底の闇に揺られながら、昨夜の音を思い出していた。

 鐘は確かに鳴った。

 その響きは人の泣き声と重なり、海の彼方へ消えていった。


 彼は目を閉じ、胸に刻んだ。

 ――いつか自分が生き延び、この鐘を再び自由の音に変えるのだと。


     ◇


 リングドエイルの大鐘は、海を渡った。

 その旅は苦痛と血を伴った。

 だが、鐘の奥底にはまだ声が眠っていた。


 それは、取引される数字ではなく、

 生きようとする人間の叫びそのものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る