第3話 死を磨くはアズライルの本能

 陽は砂色の街を覆い、空には乾いた風が吹いていた。

 かつて「リングドエイルの大鐘」が鳴り響いた聖堂は、今やミナレットを持つモスクに姿を変えていた。鐘楼はそのまま残されていたが、鐘自体は木の枠ごと鎖で縛られ、口を閉ざされていた。


 ハッサンはその塔に幽閉されていた。

 彼は元は神官であり、鐘を司る役を担っていた。だがイスラム王朝がこの地を征服したとき、彼は降伏を拒んだ。鐘を渡さぬと叫んだ彼を支配者たちは殺さず、代わりに「鐘楼の番人」として生涯をそこに縛りつけた。


 それから二十年。

 ハッサンは日々、鐘を眺めて生きていた。


     ◇


 昼は砂漠の熱が石壁を焦がし、夜は冷たい風が骨を震わせる。

 外からは礼拝の呼び声――アザーンが流れてくる。新たな信仰が街を覆い、鐘の音は忘れられていった。


 だが、ハッサンには忘れられない。

 ――あの音を。

 谷間に響き、雲を揺るがし、人々の胸に届いた音を。

 それは神の息吹であり、民の希望であり、彼自身の命そのものだった。


 彼は鎖に覆われた鐘に額を押し当てた。

「主よ、なぜ黙したままなのです。

 あなたはまだ、ここにおられるのですか」


 返事はない。ただ冷たい金属の感触だけ。


 時折、街の子どもたちが塔に忍び込み、石を投げて鐘に当てた。

 ――カン、カン。

 わずかな響きがこだまする。

 その度にハッサンは涙をこぼした。鐘はまだ生きている、と。


     ◇


 ある夜のこと。

 若い書記官が塔にやってきた。彼は征服者の一族に仕える身だったが、密かに古い伝承を集めていた。


「ハッサン殿。あなたの鐘のことを聞きたい」


 老人はうつろな目を開いた。

「聞いてどうする。鐘はもう鳴らぬ」


「それでも、記録したい。人々が忘れぬように」


 ハッサンはしばらく黙していた。

 だが、やがて語り始めた。

 鐘の造り、響き、祭礼の日々、民の祈り。

 書記官は熱心に記録を取った。


「いつか、この鐘が再び鳴る日が来る」

 彼はそう言って帰っていった。


 老人は胸の奥で火が灯るのを感じた。

 ――鳴る日が来る。

 その言葉を抱きしめるように眠りについた。


     ◇


 やがて、ハッサンの身体は衰えていった。

 足は動かず、声も弱くなった。だが最後の力を振り絞り、鐘に手を伸ばした。


「おお、我が鐘よ。お前は沈黙の中で生き続けた。

 私の声は届かずとも、お前の響きは消えていない。

 どうか……どうか、いつの日か再び――」


 その瞬間、夜風が塔を揺らした。

 鎖に縛られた鐘が、かすかに鳴った。

 ――ゴォン。

 それは小さな、掠れた音だった。

 だが、老人には天地を震わせるほどの響きに聞こえた。


 彼は微笑み、静かに息を引き取った。


     ◇


 その後、誰も鐘を鳴らす者はいなかった。

 だが、風が強い夜には、街の人々は囁き合った。

 「鐘が鳴った」と。

 アザーンに混じり、遠くからかすかな音が聞こえたのだと。


 リングドエイルの大鐘は、沈黙を強いられてなお、息づいていた。

 その沈黙は、決して終わりではなかった。

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