第29話【教皇グレゴリウス視点】神の沈黙と、新たな聖域
私の名はグレゴリウス三世。神の代理人として、このアストライア大神殿の頂点に立つ者。
だが、今、私の信仰は、あの小さな青い魔物を前に、根底から揺さぶられていた。
審問会が終わり、全ての者たちが退室した荘厳な聖堂で、私は椅子に深く身を沈めていた。隣には、未だ動揺を隠しきれない大神官オーギュストが控えている。
「……オーギュストよ。お前は、今宵の奇跡を、どう見る」
私の問いに、オーギュストはしばし逡巡した後、絞り出すように答えた。
「……恐れながら、教皇聖下。あれは、我々の知る、いかなる神聖魔法の理にも当てはまりませぬ。聖水を、その身を伸ばして吸収し、自らの力へと変えてしまうなど……。あれは、神が我らの信仰を試すために遣わされた、新たな『理』そのものやもしれませぬ」
新たな理、か。実に的確な表現だ。
あのスライムは、我々が築き上げてきた神学体系、儀式の作法、聖と魔の定義、その全てを、赤子が玩具を壊すように、いともたやすく踏み越えてみせた。
あれを『魔』と断ずれば、我々は民衆の熱狂的な支持を失い、下層地区の民を見捨てた冷酷な権力者として歴史に名を残すだろう。
ならば、残された道は一つ。
「……大神官オーギュスト。布告を出す。あのか弱く青き魔物は、神がこの地に遣わされた『聖獣ポヨン』である、と。神殿は、その存在を公式に認め、最大限の敬意を以て保護することを、王国全土に宣言する」
「なっ……! し、しかし聖下、あまりに早計では!?」
「今この機を逃せば、あの奇跡は王家の、それもリチャード王子かイザベラ王女、いずれかの権力闘争の道具として完全に私物化されるだろう。そうなれば、神殿の権威は地に堕ちる。民衆は、神殿ではなく王城にこそ奇跡はあると信じ、我らの元を離れていく」
そうだ。神殿が先んじて聖獣を『聖別』し、我らの管理下に置くのだ。
セレスフィア・フォン・リンドヴルムと聖獣ポヨンを、神殿に賓客として招き入れる。『保護』という名の、美しい鳥かごへとな。
王家の二人の子らは、神殿の決定に表立って否とは言えまい。民衆も、聖獣が最も神聖な場所で保護されることを歓迎するだろう。
「オーギュスト。リンドヴルム嬢に丁重に使者を送れ。聖獣様には、神聖なるこの大神殿こそが、最も安息できる場所である、と。我らが、王家の俗な争いから、聖女と聖獣をお守りするのだ」
「……はっ。御心のままに」
オーギュストが退出した後、私は再び一人、静寂に包まれた。
だが、私の心は嵐のように荒れていた。
本当に、あれは神の御使いなのか?
あの底なしの奔放さと、常識を超えた力の奔流。あれは、我々が制御できる存在なのか?
神は、なぜ沈黙を守られる。なぜ、我らにではなく、あのような異質な存在に、奇跡を託されたのか。
答えは、まだ見えない。だが、賽は投げられた。
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