第24話 本戦の舞台、見つめる先は

予選を突破した者だけが足を踏み入れることを許される、本戦用の控室。

そこは、予選会場の喧騒とはまるで違う、張り詰めた静寂に満たされていた。

壁に立てかけられた剣は鈍い光を放ち、鎧の擦れる音だけがやけに大きく響く。誰もが口を閉ざし、これから始まる本当の戦いに向けて精神を研ぎ澄ませているようだった。


私もまた、硬い木製の椅子に腰かけ、膝の上で固く拳を握りしめていた。

予選を勝ち抜いた高揚感は、この重たい空気の中ですっかり消え失せ、代わりにじわりと冷たい汗が背中を伝う。


(……みんな、強い)


周りを見渡せば、誰もが自信に満ちた顔つきをしていた。

名家の嫡男、天才と名高い魔術師、騎士団長の息子。予選を勝ち抜いてきただけあって、その身にまとう魔力の質が明らかに違う。

それに比べて私はどうだろう。

予選では、彼の声援だけを頼りに、がむしゃらに戦ってきた。けれど、それは本当に私の実力だったのだろうか。

また昔みたいに、「やっぱりアリスの妹だから」と、「まぐれだった」と、指をさして笑われるんじゃないか。

そう思うと、途端に心臓が嫌な音を立てて脈打ち始めた。


「……っ」


呼吸が浅くなる。握りしめた拳が、小刻みに震えているのが自分でもわかった。

ダメだ、落ち着かないと。彼との修行を思い出すんだ。

「繋げる力」。呼吸と、魔力と、体の動きを一つに……。

そう自分に言い聞かせても、一度湧き上がった不安は黒い靄のように心を覆っていく。


その時だった。

頭の中に、直接彼の声が響いた。それは他の誰にも聞こえない、私と彼だけを繋ぐ契約の証。


《ティナ》


優しい、けれど芯の通った声。

その声が聞こえただけで、暴れていた心臓が少しだけ落ち着きを取り戻す。


《手が震えてるぞ》


「……ごめん。だって、周りの人たち、すごく強そうで……」

声に出さず、心の中だけで返事をする。


《ああ、強いだろうな。本戦に出てくるくらいだ。でも、それがどうした?》

彼の声は、どこまでも穏やかだった。


「どうしたって……もし、私が初戦で負けたら……せっかく応援してくれたのに、またみんなに笑われちゃう……」


《ティナ》

彼は、もう一度私の名前を呼んだ。

《俺を見ろ》


言われるがまま、私はそっと顔を上げた。

もちろん、この控室に彼の姿はない。彼は観客席にいるはずだ。

けれど、目を閉じれば、彼の姿がはっきりと浮かんでくる。

私のためだけに、誰よりも大きな声で叫んでくれる姿が。


《誰のために戦うんだ?》

彼は静かに問いかける。


「……あなたに、見ててほしいから」


《そうだろ。だったら、他の奴らのことなんて気にするな》

彼の声に、力がこもる。

《俺はティナだけを見てる。お前が震える指で剣を握りしめる姿も、不安に押しつぶされそうになりながらも必死に前を向こうとする姿も、全部だ。だから、お前は俺だけを見てろ》


胸の奥が、じんわりと熱くなった。

そうだ。私は、何に怯えていたんだろう。

周りの評価なんて、どうでもよかったはずだ。

私が欲しかったのは、たった一人に認められること。

「ティナはすごい」って、心から信じてくれる、たった一人の言葉だった。


《お前はもう、“アリスの妹”じゃない。俺と一緒に地獄の特訓を乗り越えて、自分の足でこの舞台に立った、“ティナ・エルヴェンス”だ。自信を持て。お前が積み上げてきた努力は、本物だ》


涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。

代わりに、深く、深く息を吸う。

冷たい空気が肺を満たし、迷いを洗い流していく。

次に息を吐き出した時、私の心は決まっていた。


「……うん。私、戦う。あなたが見ててくれるなら、私はきっと、誰にも負けない」


《その意気だ》

彼は満足そうに笑った気がした。


「本戦第一試合! Aブロック、ティナ・エルヴェンス! 対するは、Bブロック、レオルド・フォン・アークライト!」


審判の鋭い声が響き渡り、私の名前が呼ばれる。

震えは、もう止まっていた。

私はゆっくりと立ち上がり、闘技場へと続く通路へ向かう。

すれ違いざま、隣の席に座っていた騎士団長の息子が、軽蔑とも憐憫ともつかない視線を向けてきた。


「相手は“炎槍のレオルド”だ。予選では相手を三秒で沈めたらしい。……気の毒に」


その言葉は、もう私の心には響かなかった。


◇ ◇ ◇


眩しい光と共に、割れんばかりの歓声が全身を打った。

闘技場は、予選の時とは比べ物にならないほどの熱気に満ちている。観客席は貴族や有力者たちで埋め尽くされ、その視線の一つ一つが値踏みをするように突き刺さってくる。


私の対戦相手――レオルド・フォン・アークライトは、すでに舞台の中央で悠然と槍を構えていた。

燃えるような赤い髪、自信に満ちた不遜な笑み。その槍の穂先には魔力が込められ、陽炎のように揺らめいている。


「エルヴェンス家の次女か。姉君の勇名は聞いているが……お前はどの程度やれるのかな?」

見下したような口調。彼は私を、ただの「アリスの妹」としか見ていない。

以前の私なら、その一言で心が折れていたかもしれない。


でも、今は違う。


「ティナーーーー!!! 見せてやれーーー!! お前が主役だーーー!!!」


会場のどんな声援よりも、どんな罵声よりも大きく、真っ直ぐな声が鼓膜を揺さぶった。

彼だ。

観客席の一角で、立ち上がって全力で腕を振っている。

その姿を見つけた瞬間、私の心から恐怖は完全に消え去った。


(……うん。見てて。私の全部を)


審判が腕を振り下ろす。

「――始め!」


その合図と同時、レオルドの姿が消えた。

いや、違う。魔力による爆発的な加速だ。

目の前に迫る炎をまとった槍の穂先。

観客席から悲鳴が上がる。


けれど、私の目はその動きを捉えていた。

修行で繰り返した、魔力の流れを読む訓練。

彼の体から迸る魔力の方向、槍に込められた力のベクトル。それが、手に取るようにわかる。


体をひねり、風の魔力を足元に集中させる。

穂先が私の頬をかすめる、その刹那。

私は後方ではなく、彼の懐へ向かって踏み込んでいた。


「なにっ!?」

レオルドの驚愕の声が聞こえる。

槍は長物。一度突きを放てば、懐はがら空きになる。

単純な理屈。けれど、彼の圧倒的な速さの前では、誰もそこに踏み込むことすらできなかった。


でも、私は届く。

風が私の背中を押してくれるから。

そして何より、彼が「できる」と信じてくれるから。


「はあっ!」

短く鋭い気合と共に、魔力を乗せた掌底をレオルドの脇腹に叩き込む。

鈍い衝撃音。彼の屈強な体がくの字に折れ曲がり、数歩後ずさる。


会場が、一瞬だけ静まり返った。

誰もが予想だにしなかった光景。

“炎槍のレオルド”が、アリスの妹に、初撃で有効打を与えられた。


「……貴様……!」

レオルドの顔が怒りと屈辱に歪む。

「小賢しい真似を……!」


槍が横薙ぎに振るわれる。炎の壁が、私を飲み込もうと迫ってきた。

私は後退し、距離を取る。

彼との修行を思い出す。「繋げる力」。一つの動きで終わらせるな。防御も、回避も、すべてが次の攻撃への布石だ。


炎の壁を、風の渦で受け流す。

完全に防ぐことはできない。制服の袖が焦げ、肌がひりついた。

でも、それでいい。

渦によって乱れた炎の向こうに、レオルドの姿が見える。

一瞬の隙。


私は地面を蹴った。

レオルドは、私が距離を取ると読んでいたのだろう。その逆を突く。

彼の驚愕に見開かれた目が見えた。


「――終わり!」


風を纏わせた蹴りが、彼の持つ槍の柄を真下から蹴り上げる。

手から弾き飛ばされた炎槍が、宙を高く舞った。


武器を失ったレオルドの胸に、私は最後の一撃を叩き込んだ。


「……勝者、ティナ・エルヴェンス!」


審判の声が、まだ静まり返っている会場に響き渡る。

やがて、誰からともなく拍手が起こった。

それはすぐに大きな波となり、闘技場全体を包み込んでいく。

「すごい……」「本当に強いぞ、あの子は!」

予選の時とは違う。本物の賞賛が、私に降り注いでいた。


でも、私はその声には目もくれなかった。

視線は、ただ一点。

観客席で、涙を拭うのも忘れて、めちゃくちゃな笑顔でガッツポーズをしている、彼だけを見つめていた。


(……勝ったよ。あなたのおかげで)


胸の奥が、今まで感じたことのない達成感で満たされていく。

これは、私の勝利だ。

そして、私と彼、二人だけの勝利なのだと。

そう思うと、どんな賞賛よりも、彼の笑顔一つの方が、ずっとずっと誇らしかった。


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