第10話 起きるはずのない


 何の生物だ?


 反射的に思考した。


 何が接近している?


 思考が錯綜する。


 それを習ったはずだ。

 しかし出てこない。


 頭の中の情報が水を掴むかのように形を成さない。

 うまく情報が形を成してくれない。


 熱い頭がさらに焼き切れるかのように熱くなる。


 音がしない塔の生き物。

 耳を澄ましても聞こえない相手とは。


 その正体は知っている。


 しかしおかしいことがある。


 ――なんで、ここに?


 疑問に思い至った瞬間。

 自らの平衡感覚が、天地の区別を失った。




「かはっ」


 肋骨が張り裂けるような痛み。

 体を起こそうとすると骨がきしむような感覚。

 感覚のない左半身。


 おそらく数秒後に燃えるような痛みが来るだろうと直感する。


 意識が飛んでいた。


 かつてないほどに全身が警鐘を鳴らしている。


 この森に入ってからの初めての痛みだった。


 呼吸が意識と反して抜けるように行われる。

 空気を取り込んでいる実感がしない。


 頭が痛い。痛みがやって来た。

 左腕の感覚がほとんどない。


 痛い、痛い。


 何も考えたくな、いや考えろ考えろ。

 何が、起こった。


 風がしたと思ったら木がざわめいてなくて、生物の気配を直感して。

 気が付いたら、吹き飛ばされていた。


 そうだあの生物だ。音を感じさせないまま動作する、塔に生息するあの生物。

 だったらなんでここに? いや考えている暇はない。


 反射的に銃帯に手を突っ込んで、全力で前に向けて引き金を引いた。

 光の柱が出現した。


 ほんの一秒にも満たない時間、昼のような明るさがあたりを貫いた。


 まるで引き伸ばされたかのような時間。

 ライオは、それを目にすることができた。


 閃光が走る。光が木にぶつかってそれを炭化し、プラズマ化した閃光が火花を散らす。


 しかしそんなものはどうでもよかった。ライオは視界の端に捉えた一匹の生物に意識のすべてをささげた。


「――――エナ!!」


 巨大なフクロウだった。


 名前は何と言ったか思い出せない。思考がぐるぐるしてその名前が出てこない。


 しかしそれを知っていた。

 大型化したフクロウで、大人の人間と同じくらいの大きさで、音もなく空を飛んで。


 人間ほどの大型生物なら捕食対象とする、『塔の中でしか確認されていない生物』。

 もし塔の外で見られるのならば、あのシーズが教えていないわけがない。


 その生物の背を目にして、ライオはそう思考し、銃を前に向けて、引き金に手を力を込めた。


 テントが崩れていた。

 リュックが散乱していた。

 派手に吹き飛ばされていた。


 そしてエナの体が、フクロウのくちばしに捉えられていた。


 目にしたときから、再び引き金を引くまで、あと半秒も必要なかった。

 引き金が引かれる。


 光の柱があたりを照らし、進行方向にある空気をイオン化させながら直線を描いて飛んで行く。


 外した。


 フクロウのうしろ姿のほんのすぐ上を、光の線はすんでのところで通り去っていった。


 バシッと音がして暗闇が戻った。


 凝集光と暗闇の落差で目の前が白むのが分かった。

 心の中で悪態をついて、もう一度引き金を引いた。


 カチッ


 光は現れなかった。

 ぞっとするような灼熱が腹の底を焼いた。


 攻撃されたわけでも体調を崩したわけでもない。

 ただ、弾が切れたというだけだった。それに対する臓腑を焼くような焦りだった。


 アカゴノウマに一回、救難信号に九回、テントの中で四回、今さっき、一回。

 十五回。


 凝集光銃のちょうど弾切れの回数だった。


 とっさに銃帯の弾倉に手をかけて銃の中の弾倉を排出して、自分でもびっくりするくらいの速さで新しいものを装填する。


 すぐさま再び銃を撃った。


 光の柱が出現して、飛んでいく。

 ライオはフクロウの背にそれが当たって、黒い焦げを残すことを


 もうそこに、姿はなかった。

 血の気が引いた。


 もういなくなっていた。


 音もなく。


 全くの音も気配もそこに立てず、ただ何も見えないというだけで何も感じることができぬうちに、それは姿を消していた。


 全身から力が抜けるのを感じた。


 つい先ほどまでこわばっていた体がまるで人形のようにへなへなと崩れ、地面に膝をついた。


「エナ……?」


 呆けたような声が口を突いて出た。

 手元を探ってスイッチを切り替え『照射』にして、目の前へ向けて引き金を引いた。

 懐中電灯のような明るさがあたりを照らす。この暗闇に比べれば真昼も同然だった。


 そこには何もなかった。


 今さっき、すべてをぶち壊してめちゃくちゃにして、大事なものを攫っていったそれは跡形も残していなかった。

 ただそれが振るった暴虐の限りがそこに残っているだけ。


 散らばったエナの荷物、ぐしゃりとつぶれてしまったテント、猛禽類が着陸した地面の足跡。


 唖然とした。


 手にだらりと力を入れて、ただ目の前を光で照らし続けた。

 他の生物に襲われるかもしれないという考えはもう出てこなかった。

 ただ目の前の光景にすべてが受け入れられなくて、すべての思考が停止していた。


 何が起こったのかはわかっている。すべて自分は理解している。

 しかしそれでもなお、ただ受け入れるという作業をすることができなかった。


「っぅ」


 もししてしまったら。


 せき止めていた何かが、壊れそうな気がしていたから。


「ぅっ、あっ」


 ぴしりと顔がこわばって、手にぎゅっと力が入って、喉が勝手にえずいて制御が聞かなくなってしまう。

 ダメだと思う暇もなく、それを止めようとする意志もなく、ただそれだけのために体が制御されてしまっていた。


 シーズが気絶しても、バケモノに襲われても、暗闇の中に閉じ込められても、そこで襲われても。


 ずっと食い止められていたそれが、ずっと我慢していたそれが、崩壊してしまった。


「あぁっ……!」


 絞るような声が出て、目元が発火して、何かが漏れ出てきて、自らの膝の上に滴った。

 それをぬぐうこともできなかった。極限状態で人は泣くと、本当に何もできなかった。


 人が泣くのは周囲の同胞に助けを求めるためだという。

 しかしそんなことができる同胞は、もうどこにも存在しなかった。

 真に一人になった実感が、ライオの心の底を支配していた。


 何もすることのできない小さな幼体の慟哭が、あたり一帯に広がった。

 どう頑張ってもそれを止めようともできなかった。


 それを聞きつけた人ならざるものがいた。

 ヒトよりも耳が発達していて、暗闇の中をすべて聞き分けることのできる生き物が。


 片手いっぱいで数えられるほどの数が、同胞を呼ぶその声を、獲物のか弱い叫び声だと認識して。


 そこへと向かって、駆け出していた。

 二足で走りアカゴのように鳴く馬、四足で走る毛むくじゃらの巨大な生き物、三匹一組の群れを成して徘徊する生き物。


 腹をすかして、縄張りを荒らされて、好奇心で、それぞれの理由でそこへと一直線に走っていく。

 まず最初にアカゴが、ヒトの泣く明るい場所にたどり着いた。


「アァアアァアア」


 つぶれたような声帯から放たれた気味の悪い赤子の声が、ライオの鳴き声と重なる。

 昼であれば影が落ちるような距離にまで、それはすぐに接近した。


 そこまで来てようやく、ヒトの子は自らのそばに何がやって来ているのかを認識した。


「あ……」


 そして死を予感した。

 目元に涙を蓄えて、唖然と口を開いて、顔を上げて、裂けた口を持つおぞましい生物を見て。


 ぎゅっと目をつぶることも、声を荒らげることも逃げることもせず、ただ諦めたように自分を捕食する生き物を見続けた。


 アカゴノウマの手が動いた。


 ヒトのように五本指で、しかしそれよりかは何倍も長くそしていびつな形をした手腕。

 引き裂いて殺すことに特化した手が、ライオに向かって閃く。


 引き伸ばされたような時間。


 とどめを刺されるまでにやけに時間がかかるような感覚。

 走馬灯を見るほどの年でもない彼にとって、それが死の時に感じる最後の感覚。


 その直前に、ライオはその生き物の顔が、黒く焼け焦げていることに気が付いた。


 びちゃり。


 爆ぜるような音がして、脳漿が飛び散った。


 ライオは目を見開いた。

 首元に灼熱が走った。

 確かに走ったはずなのに。

 まだ、生きていた。


 くるりと首を回して、爆ぜた音の発生源を見ると。


 テントの布を抜け出して、膝をついて銃を向けているシーズの姿が目に入った。


「何が起きてるんですか? 状況は?」


 苦しそうに目を半開きにして、それでもいつも通りの声でそう聞く彼女の声。

 まるで数年ぶりに聞くかのようだった。


 心の底から熱いものが沸き上がって来て、一気に目元から漏れ出るのを感じた。


「しーずっ、さっ」

「ライオさん気を付けて!」


 銃を別の方向へ向けて引き金を引く。

 轟音が轟いて、何かが砕けるような音がした。


「近づいてきています。照射を止めてください。はやくっ」

「っ、うんっ」


 ぼやける視界で手元を探り、スイッチを『安全』に切り替える。

 目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。


 がささっと音がして、何かが近づいてくる。

 ぱしっと自分の手を取る感覚があった。


 その手の感触がやけによくわかった。


 汗だらけ、それでもぎゅっと握り締めてくれていて、皮があつくて、とても頼もしい。


「走りますよ」

「うんっ」


 力強く、ライオはうなずいた。

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