中編
ひとまず名無しの男に名前が付いたため、萌乃も名乗ることにした。
「渡会萌乃です」
「萌乃ちゃん、ね」
それほど興味もなさそうに繰り返して、山岸は「萌乃ちゃんは、なんか趣味とかないの?」とたわいもない話題を投げてきた。
萌乃はしばし考えてから、「スタンプラリーですかね」と返す。
「とくに、スタンプ台紙を持ち回る、アナログ形式が好きです。最近はアプリを使ったものも多いですが、自らの手で台紙に押すのも、わたしの楽しみの一つなので」
「へー、スタンプラリーか。懐かしいな」
山岸が話を合わせてきたので、萌乃は少し間を置いてから続ける。
「小さなタスクの積み重ねで達成感を得られるので、気分転換によいのです。シートを見れば進捗状況が一目瞭然なので、完遂意欲が刺激されるところも気に入っています」
「おー。いいこと聞いたなぁ」
そのわりには、感情のこもらない声である。
「山岸さんは、ご趣味のほどは?」
萌乃が質問を返すと、山岸はあごを掻いた。
「俺かぁ。うーん、たまに映画とか観るよ」
「映画鑑賞がお好きなのですね」
「マニアみたいなガチ勢じゃないけどね。あ、破滅の刃の新作、もう観た?」
萌乃は静かに首を振る。
「いいえ、前作を観ていませんので」
するとミラーごしの山岸は「えー?」とおどけて肩をすくめた。
「観てみ、感動するから。俺なんてさぁ、息子と観に行ったとき、年甲斐もなく泣いちゃったんだよね」
むすこ、と萌乃は口の中で復唱する。
「お子さんがいるんですか」
「ん? ああ、別れた嫁さんとの子ね」山岸は声色を落とした。「やつ、前作のときはまだ小学三年だったから俺が連れてったけどさ。今年は友達と観に行くっていうんで、あっけなくフラれたわー」
左方向のウインカーが点灯して、萌乃はそちら側に視線を向けた。この路地を進んだ先に、目的地がある。
「到着ですよっと」
山岸の運転する車は、カントリーな外観のモーテルへと入っていった。
カーテンをくぐった奥に進み、暗い駐車スペースの中でエンジンが停止する。車の外へ出た萌乃は、もの珍しく辺りを見回した。
当然ながら、萌乃はこのような場所に来るのも初めてだった。一階が駐車場、二階が客室になった、ワンガレージタイプのモーテルである。カーテンで隠れるため、乗降の際に他の客に見られることもない。なるほど、こうやって利用者のプライバシーが守られるのかと、萌乃は感心した。
きょろきょろしている萌乃を、山岸は「なにしてんの?」と振り返る。萌乃は「いえ、なんでも」と山岸の背後に整列した。
それを確認した山岸は、「ここ、支払いは部屋の中だったよな」と独りごち、階段を上がって部屋のドアを開ける。
「ほら、こっち」
促されるままドアの中に入り、萌乃は玄関スペースでのろのろと靴を脱いだ。その間に、山岸はさっさとエアコンを付け、浴槽に湯を張りに行く。
「山岸さん」
風呂場から戻ってきた山岸に、萌乃は荷物を背負ったまま声をかけた。
「ん?」
「先ほど、奥さまとは離婚されているとおっしゃいましたけど、山岸さんは現在、独身ということで間違いないですよね」
「そうだけど、なに?」
山岸は無表情に萌乃を見る。そんな男に、萌乃は手の中のスマホを見せた。
「言質を取らせていただきたく、ボイスメモを起動していました」
「うわ、怖えー! 脅しかよ」
山岸は大げさに言いつつ、けらけら笑った。
「まあいいけど。ここまで来て今さらやめねぇし」
それから部屋の中央に置かれたソファに腰を下ろし、「おいで」と萌乃を呼ぶ。
萌乃は素直に従って、バッグを下ろし、男の横に着席した。すぐさま、その腰を強く引き寄せられる。
「ねえ、キミさぁ。これから初対面のおっさんとセックスしちゃうってこと、本当にわかってんの?」
ねっとりとした低い声だった。挑発的にも見えたが、萌乃はしかとうなずく。
「よろしくお願いします」
「言ったな?」
山岸は、片手で萌乃の腰を抱き寄せたまま、反対の手で眼鏡を外した。それを付近のローテーブルに置くと、萌乃の服を捲り上げて胸を露わにする。
「悪くないじゃん」
下着をずらして肌に吸い付いてくる男の顔を、萌乃はじっくりと見ていた。
無防備だ。
自分の姿もそうだが、山岸もである。はじめに眼鏡をかけた姿で知り合うと、ない場合に無防備な印象を受ける、というのは発見だった。
また、近距離で向き合ってみると、遠目では気づかなかった細かなしみやほくろなども見え、興味深い。
そんな萌乃の視線に気付いた山岸が、顔を上げてにやりと笑った。
「どした? 怖くなっちゃった?」
萌乃は「いえ」と小さく否定する。
「ですが、初めてなので優しくしてください」
行為が終わったあと、萌乃はベッドの上で天井を見上げていた。山岸は眼鏡をかけ、黒いスマホを手に戻ってくる。そのまま萌乃の隣にどさっとうつ伏せになった。
「どーでしたか、初エッチの感想は」
山岸はスマホの画面を注視しながら訊ねてきた。萌乃は黙って考えをまとめ、そして口を開く。
「終わってみれば、羞恥や快楽よりも痛みが上回ったという感想です。今も患部がヒリヒリとします」
「患部って」不服というよりは、茶化すような声で山岸は言った。「キミに言ってもわからんだろうけど、これ以上ないくらい時間をかけて、すこぶる優しくしてやったんだぜ?」
「そうなのですか」
「そうなんだよ。だから約束どおり、俺のことはちゃんと守ってくれよな。悪いようにはしないってキミ自身が言ったんだから」
萌乃は山岸にちらりと顔を向け、「はい」と答える。「ありがとうございました」
「分かれば良し」
満足そうにうなずいて、山岸はよいしょと起き上がった。
「で、そろそろ動ける? 風呂浴びたらここ出るよ」
萌乃はその声を受け、のそのそとベッドを降りる。やはり、一動作ごとにひりひりという違和感があった。
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