悪いようにはいたしません

焼おにぎり

前編

 渡会わたらい萌乃もえのの耳は、街の喧騒とは切り離されていた。

 日傘を差していても、アスファルトの照り返しに眼球を焦がされるような気がする。

 幹線道路の広々とした歩道。萌乃はこうした道を黙々と歩く時間を好んでいるが、こうも暑ければ話は別だった。本来であれば自分自身との対話を楽しむべき時間であるのに、内なる自分からは「暑い」という声しか聞こえてこない。しかしながら同感だ。暑さは人の思考を奪い、意識を散漫にさせる。

 だからか、萌乃は自身のすぐそばに横付けされた車にも、なかなか気がつかなかった。ましてや、「おーい、キミ」と運転席から呼ぶ声が自分に向けられたものとは思わず、意図せず無視をするかたちになってしまった。

「私ですか?」

 ようやく立ち止まった萌乃に、運転主は「そうそう、キミだよ」とにこやかに答える。振り向きざま、白のコンパクトSUVのボディに反射した日光のまぶしさに、萌乃の視界はかすんだ。

 普遍的な右ハンドルの車だった。運転主は助手席側の窓を開け、運転席から身を乗り出すようにして萌乃に呼びかけている。

「暑いねー。乗ってかない?」

 萌乃は少し身をかがめて車内をのぞき見た。乗っているのは運転席の男のみ。

 もしやこれは、ナンパというやつだろうか。こんな昼前から、それも、こんな前時代的な方法で。

 運転主の容姿は、あえて言うなればいたって普通の人だった。年の頃は四十代半ばほどだろうか。中肉中背で、グレーの細いフレームの眼鏡をかけた短髪の男。さっぱりした印象だが、そのほかに特筆することもない。俗っぽい言い方をすれば、どこの職場の上司にも一人はいそうな男だった。

 若い女であれば誰でも構わないのだろうか、と萌乃は感心した。このようなことは、誰もが振り返るような美しい女性にのみ起こる煩わしいイベントであり、自分には関係のない話だと思っていた。

 強いて言えば、炎天下に広い道をのろのろと歩いていたために声をかけやすかったか。あるいは、あまりの暑さに脳みそが沸騰していたか。

「どうする? お茶くらいおごるけど」

 返事の催促を受けた萌乃は、しばし考えるそぶりをして、「わかりました」とうなずいた。自身の手で後部ドアを開け、日傘をくるくると折り畳む。

「では、よろしくお願いします」

 萌乃がシートの中央に堂々と乗り込むと、モーターの音とともに助手席の窓ガラスがピタリと閉じられた。男の手がエアコンの風量を強め、前方から来るさわやかな冷風が萌乃の額をくすぐる。萌乃は背負っていた荷物を横に置き、しばし心地良い温度に身を委ねた。

「うしろ、狭くない? 前に乗れば良かったのに」

 言いながら、運転席の男は慣れた様子で右方向のウインカーを出した。発進は危なげなくスムーズで、それを見れば優良なドライバーといった具合である。

「こういうことは初めてで。おかしかったでしょうか」と、萌乃は淡々と返す。

「まー、自由でいいんじゃない?」

 男も、なんでもなさそうな声でつぶやいた。それから同じトーンで続ける。

「で、いくら欲しいの?」

「それというのは、お金の話ですか」萌乃はルームミラーごしに男の目を見た。

「うん、そう」

 男は前方を見ながら平坦な表情をしている。手っ取り早く買おう、ということなのだ。男はそれにも慣れていそうである。

 萌乃はきっぱり首を振った。

「公務員ですので、金銭は一切受け取れません」

「へえ、公務員ねえ」

 萌乃に興味がわいたのか、男は声のトーンを少し上げる。

「公務員って、役所で働いてるとか? それとも教員……あ、もしかして婦警さんだったりして」

「あの、そこまで答える必要ありませんよね」

 棘のある声になってしまった。

 しかし男は気分を害した様子もなく、

「べつに答えたくないならいいよ」といって、

「このあとの予定は?」と新たな質問をしてきた。

「特にありません」

 この日は休日で、先程、トレーニングジムおよび併設された温泉施設に行った帰りであった。午前中に外出を済ませ、午後は自宅でゆっくり過ごす算段だったのだ。

 それを告げると、男は「へー、運動してるんだ。偉いじゃん」と軽い声で言う。

「最近少し太ってしまったので、健康のためにやっているだけです」

「そう? 俺、キミくらいの体型のコなら全然行けるけどね」

 最初に行けると判断して声をかけたのだろうから、『でしょうね』という感想しか浮かばない。この人が世間一般の男性から見て物好きであるかどうかは、検証していないけれど。


 萌乃はルームミラーから視線を外して、窓の外をのぞく。この車両は、出発地点から幹線道路を南下していた。萌乃の徒歩での帰宅ルートとも一致している。自家用車、それも後部座席から歩道を眺めるのというのは、なんとも不思議な気分であった。

「彼氏は?」

 ふいに運転席から質問が飛んできたので、萌乃はルームミラーの男に目線を戻す。

「彼氏、ですか」

「そ。付き合ってる人とかいないの?」

「いません」

「今までに一人も?」

「ええ、今までに一人も」

「でも、さすがに処女ってわけじゃないでしょ?」

 男は余裕の表情をしている。萌乃は一つまばたきをしてから、無表情で答えた。

「処女ですけど」

 そこで初めて、男の笑顔が引きつった。

「いけませんか」

 萌乃が畳み掛けると、「そんなこと言ってないじゃん」と男はあわてたように取り繕い、眼鏡のブリッジに触れた。

「なんていうかさぁ、キミ、変わってるってよく言われない?」

「言われません」

 心外だ、というように萌乃ははっきりと言い返した。

「わたしからも質問よろしいでしょうか」

「……なに?」

「貴方のことは、なんとお呼びすれば宜しいのですか」

「ええ? 名前なんてどうでもいいでしょ……」

 男は露骨に面倒くさそうな顔になった。

「どうでもよくはありません」と萌乃は反論する。「初体験の相手が名無しの人では、個人的に不都合があります」

 ミラー越しに、渋い顔の男と一瞬だけ目が合った。すぐに視線を外される。

「……あの短時間で、そこまで覚悟決めてるようには見えなかったけどなー」

「お言葉ですが。そちらから声をかけておいて、今さら面倒だなんて言いませんよね?」

 男はしばしあごを触ったあと、大きくため息をついた。首や肩をほぐすように、ゆるく頭を振る。

「わかったよ、頑張ってみますよ。俺、処女食った実績も一応あるし」

「一応?」

「だいぶ昔の実績だってこと。でも、安心していいよ。悪いようにはしないって」

 なるほど、と萌乃は腕を組んだ。


「俺のことは山岸でいいよ」

 走行中の車で、運転席の男は思い出したように名乗った。

「てか、うしろに座られるとやっぱり話しづらいな」と笑いながら言うので、

「どこかで停車していただければ移動します」と返す。

「ごめんごめん、冗談だって。ところで、形だけでもお茶とかしときたい? それとも、まわりくどいことはせず、このままホテル直行でいいのかな」

「はい」

 会話が切れる。山岸は口元に笑みを浮かべてはいるが、その目は萌乃を訝しんでいるようだった。目的が金でもなく、身持ちも堅そうなのに、たまたま道端で声をかけてきた中年の男に、処女を捧げるつもりでいる女を。

「私も、山岸さんを悪いようにはしませんよ」

 萌乃が付け加えると、山岸は白々しい目で言った。「そうかい」

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