第31話 掃除用具置き場

まるで舞踏の一歩のように慎重に前へ詰め、セピアの真正面に立つと、見下ろすように視線を落とした。


「さあ、選びなさい、セピア。

私たちを連れて、カリオンを確実に捕らえるか――それとも無謀な単独行動で自滅するか。二つに一つです」

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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


31 -掃除用具置き場


「勝手に俺の意思を捻じ曲げんな!カリオンをお縄につかせるつもりはねえぞ」

セピアは腰に手を当て、見下ろすフリージアを真っ向から睨み返した。


「私も正直に言えば……あの男がどうなろうと構いません」

フリージアは一度ためらうように咳をし、息を整えた。

「でも、セピア。まだ腕輪を外された子どもたちが生きている可能性があります。彼から聞き出すまでは、諦めないでください」


セピアは鼻を鳴らして腕を組み、口角に皮肉めいたさざ波を立たせた。


「俺がお前らを好きになる確率……それと同じくらいには、生きてるかもな」

乾いた笑いが、どこか諦めの響きを帯びていた。


だが——、

「ええ、私もあなたを好きになるよう努力します!」

フリージアが真顔で返すと、セピアはまるで通じない言葉を聞かされたかのように、眉をひそめて「はぁ?」とだけ漏らす。


「だから決して諦めないでください」


セピアの冷ややかな言葉にも、フリージアの意思は一片も揺らがなかった。その眼差しに諦めという言葉は存在しないようだ。


張り詰めた心が一瞬ゆるみ、喉の奥からかすかな声が漏れる。


セピアも馬鹿らしいといわんばかりに手を振って、ため息をついた。


「……いいだろう、お前たちにも協力してもらう。

ただ、譲れねえ条件が一つある」


セピアは小箱から一つの腕輪を取り上げ、刻印を指の腹でなぞりながら続けた。


「あいつの歯並び、前から目障りだったんだ。

俺が矯正する間、お前たちは手出すんじゃねえぞ」



♦︎♢♦︎


「このまま立ち話をしていては、誰かに見られます」


フリージアの忠告に従い、三人は階段脇の清掃具置き場へと身を滑り込ませた。

ジュナたちがやっと身を寄せ合えるほどの狭い空間に、小さな窓がひとつ。

息が触れそうな距離で、セピアが低く口を開いた。


「馬車を見繕えば、孤児院まですぐに案内できる。問題はどうやってこの台地を抜け出すかだ」


箒の柄が背に食い込むのを我慢しながら、それでもジュナはできるだけ二人との距離を取ろうとした。

狭いとはいえ、息のかかる距離で話すのはどうにも落ち着かない。


「……覚え違いだったらすまない。たしかセピア、君は台地から抜け出す方法を知っているようなことを仄めかしていなかったかい?」


「俺だけならどうとでもなるが、お前たちが一緒じゃ無理だ」


だけではよくわからないな。もう少し具体的に説明してくれないか」


セピアは大げさにため息をついた。

狭い空間にその吐息がこもり、埃っぽい空気が微かに揺れる。


「殿下、ってのは、つまり絶対にできねえって意味ですよ。

いちいち説明させないでいただけませんかね。そんなことより、いい案を出してくれたほうが助かるんですが」


「僕は殿下(王族などの高貴な身分の人に対して使う敬称)じゃない。

それに、勘違いならいいんだけど……君はどうして、いつも僕たちの信頼を揺さぶるような言い方しかできないんだ?

僕はただ、かどうかすり合わせたかっただけだ。 君に見えていないことでも、僕に見えていることがあるかもしれない。そうだろ?」


「すみませんね。学院に来るまではずっと口汚い西区で暮らしてたもんで。

あなた方みたいに、言葉をひねって遠回しに話すのは、どうにも性に合わないんですよ」


セピアは肩をすくめ、あえて柔らかい笑みを浮かべた。


「それにしても、殿下ほどのお方なら、こういう場面の采配もお得意かと思ってましたが……意外と、お勉強ほどは得意じゃないようですね」


「どういう意味だ?」


ジュナは内心の感情を押し込め、笑みを作ろうとしたが、声は少し上ずってしまった。


「その態度だよ。あんたの全部が回りくどくて気に食わねえんだ」


灰色の髪に半ば覆われているものの、真っ黄色な目だけが不気味に光を反射し、まるで闇の中で浮かび上がっているかのようだった。それでもジュナは目を逸らさず、じっと睨み返す。


——ドン

壁を強く叩く音に、二人の間に腕が伸びてきた。


「二人とも、いい加減にしてください!」


フリージアは一歩踏み込み、強引に二人の間へ割って入った。


「セピア。あなたの精神が限界に近いことは理解しています。

ですが、今は感情に任せる場面ではありません。目的はただ一つ、カリオンを拘束すること。その一点に集中なさい」


そう言ってから、静かにジュナへ視線を移した。


「それから、ジュナ様。

セピアの言葉に逐一反応する必要はありません。

表向きこそ刺々しく聞こえますが、あれは彼なりの感情の吐き出し方……そういうものだと、受け取ってください」


その言葉で空気を断ち切るように間を置き、彼女は唐突に声を弾ませた。


「それより聞いてください!

私、台地から脱出する策を思いついたのです!」


満面の笑みを浮かべたフリージアの淡い緑の瞳が、希望に輝いている。

——あまりにも、迷いがなかった。


その瞬間、今日一番の胸騒ぎが胸の奥に芽吹いた。

フリージアの声は真剣そのもので、そこに一片の躊躇もない……。


「朱鯉池の崖を下りればいいのです!」



♦︎♢♦︎


正直にいえばフリージアさんの策は崖を下るという、到底現実味のないものだった。

台地から下を見下ろせば、人が米粒のようにしか見えないほどの高さがある。足を滑らせれば命はない。

無茶だと思いながらも、ジュナには他に策が浮かばなかった。

なにより、セピアが無言で頷いたのを見て、もう腹を括るしかなかった。


覚悟でどうにかなるとは到底思えないが……二人には何か秘策があるのだろうか。

尋ねようとした時、もっと根本的な疑問に気づいた。


「そういえば……どうやって学院を抜けるつもりなんですか?」


フリージアはまるでおかしな質問でもされたかのように首をかしげた。


「そうですね……ほら、この窓からでも飛び降りられそうです。ここは二階ですし、受け身を取れば全然平気ですよ」


「そんな簡単な話があるかよ」


セピアがすかさず割り込み、

事情をまだ飲み込めていないフリージアに、ジュナは補足する。


「フリージアさん、朱鯉池へ戻る途中に見た教会所属の龍造犬シェパードを覚えていますか?

彼らは普段、僕たち龍の子の護衛兼監視をしています。

扉以外から学院に侵入、あるいは脱走しようとする人を自動的に追跡するよう命令されているんです」


「ということは……訓練場の扉から堂々と抜け出せば問題は解決しますね」


フリージアさんの言いたいことは理解できる。

「……極論を言えば、そうなります」


「まさか、あんたの怪力で扉をぶっ壊すつもりか?」


セピアの声には、称賛と尊敬が入り混じっていた。


「そんなことするわけありません。

セピア、あなたは一体……私を何だと思っているのですか」


フリージアは小さく息をつき、声を落とした。


「ですがやむを得ず、人々の耳目を汚しかねない手段に頼らざるを得ません。

カリオンが腰に下げていた鍵輪を覚えていらっしゃいますか?あの鍵輪は今、カリオンの部屋の隣にある事務室に保管されています。

私が経理のガラニスさんを引き止めている間に、そっと奪い取っていただきたいのです」


「鍵輪ごと消えたら、さすがに気づかれないか?」


「金色で、持ち手に縦三本の飾り罫が刻まれた鍵だけを。ひとつだけなら、おそらく誰も気づかないはずです」


「よく覚えていましたね」

ジュナは感心したように呟く。


「そんなことはありません。

あのとき、ジュナ様もご覧になっていたはずです。久々の外出でしたから、皆さん、扉が開く瞬間まで自然とカリオンの手元を見ていました」


「いいぞ、フリージア!」

セピアが短く言い、ジュナに向き直った。


「ジュナ、あんたは先に訓練場に戻れ。鍵は俺とフリージアで奪う。お前が一緒だと、どうしたって他の龍の子たちの目を引く。いいか、何事もないように動け」


セピアは首にかけた龍石を取り出し、拳で握りしめる音がかすかに響いた。


——その瞬間、

セピアの体が淡く燐光を帯び、みるみる小さくなっていく。

光が収まると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。


「……にゃ」


愛想のない声でひと鳴きし、ボサボサに膨れた尾を立てながら、掃除用具置き場からするりと抜け出すと、事務室のある方角へ曲がっていった。


ジュナは言葉を失い、思わず息を呑んだフリージアと目線があった。

二人はただ小さくなったセピアの背中を見送るしかできない。



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