第14話 夕餉を告げる
「すまんかった。老人の自慢話と説教話ほどつまらんものはないの。だがまあ、それも年寄りの特権だと思うてくれ。片付け、頼んだぞ。」
エリュトロン大司教はウインクひとつ残し、テオを抱えたまま、悠々と螺旋階段を上がっていった。
♦︎♢♦︎
14 -夕餉を告げる
「さすがに一人だけだと疲れるな……」
宙に浮いた——煮えたぎる溶岩の塊は、エリュトロンの龍の力によって無害な飴へと姿を変えられた。そこまではよかったのだが、飴は落下の衝撃で砕けて部屋中に破片が散ってしまったのだ。
そこでジュナは、困っているエリュトロンの役に立とうとその後始末を気軽に引き受けたのだが、慣れない低姿勢での作業に腰が悲鳴を上げ、つい弱音が漏れてしまった。
飴の破片を一つひとつ拾い上げ、訓練室倉庫から引っ張り出してきた台車に載せていく。
まさかこの単純な作業がこんなにも大変だとは思わなかった。
けれど、黙々と作業を続けているうちに余計な考えは頭からこぼれ落ちて、いつの間にか手だけが勝手に動いている。
ただひたすらに、目的もなく、遠くまで走るという行為そのものを楽しんでいるような感覚だった。
心が『今、この瞬間』だけにとどまり、思考が自然と後ろに引いていく。
自分という輪郭が薄れる感覚が、今のジュナにとってはこの上なく心地よかった。
少し息をつこうとしたとき、ふと視線がとまった。
目に入ったのは、壁に埋め込まれた『龍牢』——細い赤色の筋が血管のように張り巡らされた堅牢な壁。
そこに、自分でも意識せずに先ほどの光景が蘇ってくる。
「よいか?ジュナよ。自分を大切にせねばならん。
何よりもまず優先すべきは、自分を愛し、そして……許してやることじゃ。」
思わず後ろを振り向いた。
エリュトロン大司教がさっきまでいた場所から、その声が聞こえたような気がしたのだ。
だが、もちろんそこには誰もいない。
天井に埋め込まれた龍石が、冷たく硬質な白光を無言で放っているだけだ。
訓練室にひとり立つジュナは口元の片側をわずかに引きつらせ、吐き捨てるように呟いた。
「自分を愛し、許してやれ、だって?
そんなの……できるわけがないじゃないか」
胃の奥がひっくり返るような強烈な不快感がある。
もはや、とめどなくあふれる感情は押しとどめようがなかった。
「どうせ死ぬなら相手の嫌がることをしてやろう。あのときの僕は本気でそう考えていた。
死に直面すればその人の本性が浮き彫りになるって、昔誰かがそう言ったけど、まさにその通りだったよ。
僕は……諦めたんだ。何もかも」
静まり返った訓練室の中、肩越しに誰かの視線がかすめた気がした。
ふいに、兄たちの顔が脳裏に浮かぶ。
屋敷の大広間で、額に汗をにじませながらも背筋を伸ばし、教官の叱咤に怯まず不敵に笑って剣を構えるディナミス。蝋燭の揺れる光の中、薄暗い図書室で夜更けまで黙々と頁をめくるレオン。
どんなに厳しく叱られても、どんなに重いものを背負わされても、兄たちは諦めなかった。
きっと兄たちなら最後まで抗い抜いてバロバロッサ家の人間としての矜持を貫いてみせたはずだ。
「僕はいったい何をやっているんだろう?」
急に鼻の奥が熱くなり、体が小さく震えだした。
「……もう、この話はやめよう」
今はとにかく、後片付けだけに集中すればいい。
♦︎♢♦︎
夕餉を告げる鐘の音が、教会から響いてきた。
ジュナは手にしていた箒と塵取りを床に置き、袖で額の汗を拭いながら、周囲を見渡す。
飴の破片は依然としてあちこちに散らばっており、作業はようやく半分を過ぎたところだった。
「うーん……先に片付けてしまおうかな?」
軽く声を漏らし、背伸びをしながら首をかしげた。
空腹感もさほどなく、作業を途中で切り上げるのもどうにも座りが悪い。
ならばと自分に喝を入れるため、頬を叩いたときだ。
「あの!」
階上から鈴を鳴らしたような澄んだ声が飛び込んできた。
誰もいないと思っていたところに突然の声。
「うわっ!!」
ジュナは頬を叩いた勢いそのままに腕が上がり、バンザイのまま硬直するという、なんとも間の抜けた姿勢になった。
「え? あっ、ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのですが」
そう言った彼女は、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながら……なぜだろう、自分と同じバンザイの姿勢になっている。
ふたりは変な格好をしたまま、しばらく見つめ合った。
やがて彼女の口元が、こらえきれないといったふうに緩んだ。このおかしな状況に笑わずにいられなかったのだろう。おそらく自分も似たような顔をしていたに違いない。
ジュナは照れくささを誤魔化すように頬をかき、尋ねる。
「あの……フリージアさん、僕に何かご用ですか?」
「はい。先ほどの決闘について、お話ししたくて。私は——」
そこまで言いかけて、フリージアは口元に手を当てた。
「ごめんなさい!私としたことが、こんなふうに上からものを言うなんて……大変失礼しました。すぐにそちらへ伺います」
そう言い添え、「少し待っていてください」と声を残す。
軽く裾を翻すようにして踵を返すと、背筋をすっと伸ばし、無駄のない歩みで螺旋階段を降り始めた。細く優美な手すりには一度も触れることなく、その歩幅は堂々としてまるで一歩一歩が目標に向かって確実に進んでいるかのようだった。
先ほど見せた少女らしい柔らかさは影を潜め、今そこにあるのは凛とした威厳を漂わせる騎士の姿であった。その動き一つひとつから、日々の鍛錬を通じて培った自負が自然と滲み出ている。
その変わりように、ジュナの視線は自然と彼女を追っていた。
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