第2話 チャンス
翌朝
まだ肌に少し冷たさを残す空気の中、校舎の窓からは朝日が差し込み、白い壁を柔らかく照らしていた。
教室の扉を開けると、すでに何人かの生徒が席に着き、静かに教科書を広げていた。鉛筆の走る音、ページをめくるかすかな音だけが響く。誰もが当然のように、自分の課題に向かっていた。
龍谷高校は「文武両道」を掲げる進学校だ。
野球部員であっても、授業の手抜きは許されない。
蓮も机につき、教科書を開いた。
だが視線は活字を追いながらも、昨夜の走り込みで重くなった足に意識が向かう。
午前中は、頭と足の両方の疲労との戦いになりそうだった。
キーンコーンカーンコーン――
昼休みを告げるチャイムが鳴る。
午後に備えて栄養補給しようと弁当を広げたその時、教室のドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは見覚えのない男女。見覚えはないが、着崩しのない制服と胸元の学年章から、先輩だとすぐに分かった。
一人は長身で鋭い目つき、制服の着こなしもきっちりしており、立っているだけで空気を引き締める。
もう一人は対照的に明るい笑顔の女子生徒。ショートカットの髪がふわりと揺れ、教室が一瞬で華やいだ。
「えっと、一年の菅野蓮くんどこかな〜」
女子生徒が教室を見回すと、中村が勢いよく手を挙げた。
「はい! 俺でーす! 先輩!!」
わざとらしい笑顔とピシッとした敬礼まで添えてみせる。
「いや、お前じゃないだろ!俺ですが、先輩」
蓮が即座に返すと、教室のあちこちからクスクスと笑い声が漏れた。
二人のやり取りを見ていた男女の先輩は、そのまま蓮の机へと歩み寄ってきた。
「君が蓮くんだね! 自己紹介で先輩に勝負宣言したって聞いたから、もっと目つき鋭い怖い人かと思ったけど……意外と可愛い顔してるじゃん。ちょっと質素だけどね」
「……それ、余計なお世話ですよ」
「ごめんごめん。って自己紹介まだだったね。私はマネージャーの二年A組、藤島心愛! で、こっちが同じく二年の杉山悟くん。ちなみに二年だけど、一軍の人だよ!」
“一軍”という言葉に、蓮の背筋が自然と伸びる。
横の悟は無言で軽く会釈するだけで、代わりに心愛が元気よく紹介を続けた。
「初日からあの練習量、大変だったでしょ」
「気にしないでね! 厳しくしすぎると一年生全員辞めますって、あのドS監督に言いつけとくね!」
「いやいや、それはやめてください! それで――要件はなんですか?」
「あっ、そうだ忘れてた!」
心愛が手を打ち、悟の方を見る。
「……なんだっけ、悟?」
「監督が君たちを呼んでた。職員室に来てほしいって。放課後じゃなくて、昼休み中に」
「はい、分かりました。わざわざありがとうございます」
悟が口の端をわずかに上げる。
「いいんだよ。心愛が噂のルーキーに会いたいって言ってたから、ついでだ」
そして、わざとらしく蓮と心愛を交互に見やった。
「……お前、もしかしてこの一年坊主のこと気になってるとかじゃないだろうな」
思わぬ一言に、心愛は一瞬まばたきをして――すぐに声を上げた。
「な、何言ってんの悟! そんなわけないじゃん!」
「ただ、昨日の自己紹介のときは……正直ちょっと面白い子だなって思っただけ」
そう言うと心愛は軽く肩をすくめ、くるりと踵を返した。
「ほら、さっさと行くよ!」
二人はそのまま教室を後にした。
二人が去ったあと、中村がニヤけ顔で蓮に身を寄せる。
「可愛すぎるだろ、藤島先輩!」
「そうかぁ?」
言った瞬間、クラス全員の殺気めいた視線が突き刺さった。
(……やば)
空気を察し、蓮はそそくさと弁当を片付け、教室を抜けた。
廊下を抜け、職員室の扉の前に立つ。中からは紙をめくる音や、くぐもった笑い声が聞こえてくる。
コンコン――
「失礼します」
扉を開けると、デスクの奥に座っていた監督・松永が顔を上げた。
「おう、来たか。すまんな、貴重な昼休みに」
「いえ」
「聞いたところじゃ、中学時代は県大会ベスト4に入って、球速もそこそこ出てたらしいな……。体の状態はどうだ? すぐに投げられるのか?」
「ベスト4は自分だけの力じゃなく、打撃陣のみんなが頑張ったおかげです。あと体の状態は万全です」
「意外と謙虚だな。……昨日あれだけ宣言してたのに、そんな弱気じゃ、明日のことは考え直すとするか」
「明日?」
「あぁ、すまない。本当は内緒にしておくつもりだったんだが――明日の紅白戦、一年生からも何人かだけ出す予定だ。お前も一応候補に入っている。ただ、出すかどうかは放課後のブルペンを見て判断する予定だ」
胸の奥が熱くなる。自分の力を証明する、これ以上ない機会だ――。
「ぜひ任せてください! 必ず結果を出します。チャンスをください!」
「よし、分かった。ただ口ではなんとでも言える。大事なのは実力だ。放課後は授業が終わり次第、すぐグラウンドに来い。遅れるなよ。それと、この話は他の部員には内緒だ。いいな」
「はい!」
職員室を出ると、廊下の空気がやけに澄んで感じられた。
紅白戦は一年にとって、ほとんど縁のない舞台。その候補に自分の名が挙がった事実が、胸の鼓動を速める。
(絶対に掴む……)
自然と歩幅が大きくなっていた。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。気を抜けば、すぐに教師の鋭い視線が飛んでくる。蓮は背筋を伸ばして黒板を見据えたが、頭の片隅では放課後のブルペンのことしか考えていなかった。
放課後のホームルームが終わるや否や、蓮は椅子を引く音もそこそこに立ち上がる。中村が笑いながら隣に並んだ。
「お前、やけに気合入ってんな」
「まあな」
短く返した蓮の歩みは、廊下を踏みしめるごとに早くなっていった。
部室に入り、慣れた手つきでユニフォームに着替える。グラブを片手に外へ出ると、夕方の空気が肌を包み込んだ。道具置き場に荷物を置き、グラブをはめて軽くキャッチボールを始める。軽快なボールの音が響く中、他の部員たちも次々とグラウンドに姿を見せた。やがて、キャプテンの張りのある声が飛ぶ。
「整列ーっ!」
その声に反応して、全員がベンチ前へ並び始める。蓮も決められた位置に立ち、夕日を背に監督の到着を待った。
やがて、グラウンドの端から監督の姿が見える。
ゆっくりと歩み寄り、ベンチ前に立つと、キャプテンの号令が響いた。
「気をつけ! 礼!」
「お疲れ様です!」
総勢90名の声が一斉に響く光景は、いつ見ても壮観だ。
監督が口を開いた。
「今日のメニューに入る前に、一つ伝えておくことがある」
ざわついていた空気が一瞬で静まり返る。
「明日、紅白戦を行う。入れ替えを兼ねた試合だ」
「そして今回は、一年生からも数名だけ出場させる」
その一言に、蓮の胸が高鳴る。
部員たちの間にざわめきが走り、一年の出場を快く思わない上級生からは小さく不満の声が漏れた。
「静かに!これで全てが決まるわけじゃない」
監督は鋭い目で部員たちを見渡し、続ける。
「二、三年は一年生に貫禄を見せてほしい。一年生は、先輩たちの脅威になってくれれば幸いだ」
そして、手元のメモを確認しながら言った。
「二年の杉内と一年の内海と菅野――この三人は最初にブルペンに入ってくれ。その後は順次名前を呼ぶ。投手陣は、いつでも投げられるよう準備をしておけ」
名前を呼ばれた瞬間、蓮の全身がわずかに熱を帯びた。
(来た……)
監督は最後に一言付け加えた。
「いいか、これはあくまで試験だ。口で威勢のいいことを言っても、マウンドで証明できなければ意味がない」
「では、呼ばれたメンバーはブルペンへ」
ベンチ横の通路を抜けると、ネットで囲まれたブルペンが現れる。
一歩踏み入れた瞬間、背筋に緊張が走った。
湿った土の匂い。マウンドの土の色。夕日がネットを赤く染めている。
ここでの一球一球が、明日の紅白戦への切符を左右する――そう思うと、指先まで研ぎ澄まされていくのを感じた。
「よし、準備はできてるか?」
捕手を務める三年の先輩が、マスク越しに声をかけてきた。
「はい! お願いします!」
蓮は短く返し、マウンドへ上がる。
土の硬さが足裏に伝わり、呼吸がわずかに浅くなる。右手の中のボールは、まるで脈打つように重みを増していた。
プレートを踏みしめ、視線を捕手のミットへ。
「なら、ストレートから行きます!」
一瞬、音が消えた。
グラウンドの喧騒も、夕暮れの風も、何も聞こえない。
小さく息を整え、全身の力を右腕へ――。
――明日の切符を賭けた、一球目。
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