第6章 昼にも忍び寄る指先
七月も半ばを過ぎたころ、職場での私の顔色は日に日に悪くなっていたらしい。
「浅見さん、大丈夫? 最近ちょっと疲れてない?」
同僚にそう声をかけられ、慌てて笑ってごまかす。
「大丈夫、寝不足なだけ」
——けれど、理由はそれだけではなかった。
夢を見ない夜はほとんどない。
あの白装束の女は、必ず私のそばにいる。
頬や首筋に指先がかすめるだけのときもあれば、耳元で名前を吐息のように呼ぶ夜もある。
目が覚めても、その囁きは耳の奥に貼りつき、昼になっても離れない。
ある朝、起きると窓が全開になっていた。
昨夜、確かに鍵までかけたはずなのに。
風はほとんどなく、カーテンは重たく垂れたまま。
ぞくり——背中を撫でられるような感覚に慌てて窓を閉め、鍵を回した。
別の日、会社から帰ると、テーブルの位置が微妙にずれていた。
椅子も斜めに引き出され、まるで誰かが腰を下ろしていたかのようだ。
玄関の鍵はかかっている。泥棒の痕跡もない。
それでも、“何か”が入り込んでいる気配は拭えなかった。
そして、ついに——昼間にも、それは忍び寄ってきた。
コピー室で一人、書類を揃えていたとき。
背後から首筋に、冷たい風がふっと触れた。
反射的に振り返ったが、誰もいない。
……それなのに、耳の奥でかすかな囁きが響いた気がした。
——「逃がさない」
夜の夢は、ますます生々しくなる。
闇の中、背後から腕を回され、唇が首筋をなぞる。
触れた瞬間は冷たいのに、すぐに熱が滲み出す。
舌先が鎖骨のくぼみを円を描くように舐め、胸元へと這い上がる。
衣服の隙間から忍び込む湿った感触に、喉が詰まり、浅い息しかできない。
一瞬、脳は拒絶の信号を送る——それでも身体は、彼女の熱を求めてしまう。
顔を背けようとすると、顎をそっと押さえられ、唇を奪われた。
甘く、しかし底知れぬ冷気を含んだ口づけ。
——「あの男じゃだめ。あなたは、私だけのもの」
その吐息が肌を這い、嫉妬の熱が背中から頭の芯まで駆け上がる。
目が覚めても鼓動は速く、呼吸は乱れたまま。
頬や首筋には、唇が離れたばかりのような熱と湿り気が残っていた。
昼と夜の境界が、ゆっくりと溶けていく——。
気づけば私は、会社でも、街中でも、無意識に背後を振り返るようになっていた。
誰もいないはずなのに——
遠くで、水滴がぽたりと落ちるような音がして、
同時に、甘く湿った花の香りが鼻先をかすめた。
その直後、その視線だけは、確かに背中に貼りついていた。
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