第十三節 月が見ている④

 いつの間にか、風は凪いでいた。暗雲と暗闇の元、土埃の匂いに、少し血の匂いが混じっている。中嶋は、下半身を廃屋に呑み込まれなからもまだ息はあった。

 ああ、そういえば。と、「彼」は思い出す。中嶋が子どもを手にかけた姿を見たことも、話を聞いたこともなかったなと。

 つまりは、そういうことなのだ。中嶋という男は、鬼になろうとして、鬼にはなりきれなかった。

 中嶋はおそらく、子どもを殺せない。見殺しにすることもできない。きっと、本人も気がついていたのだろう。そしてそれが、中嶋自身許せなかったのだ。

 だから中嶋には、「鬼の子」が必要だった。もし中嶋が何かを殺せないときが来ても、「鬼童子」がいる。殺せないのならば、殺すための「道具」を作ればいいだけの話なのだ。

 本当のところがどうなのかは、中嶋にしかわからない話だ。しかし「彼」にとっては、それが一番腑に落ちる話だった。

 どくどくと、耳の奥で鼓動の音がする。「彼」は手に持った黒鉄を握り直す。廃材に飲まれている中嶋の下半身がどうなっているのかはわからない。この先中嶋が生き残るのか死ぬのか、「彼」の鬼としての勘も、今は上手く働いてくれない。

 ならば、取る道は一つのはずだ。自らの生存のため、障害は確実に取り除いておくべきだ。「彼」はいまだ震える指を、引き金にかけ直す。

 銃口を向ける先は一つ。中嶋からは十歩も離れていない。この距離なら。「彼」なら。指が震えていても当てられる自信があった。

 深く、息を吸う。目を閉じて、気を落ち着かせようとする。下を向いていた顔を、何気なく、少し上げて、瞼を開く。


 そして、息を呑んだ。

 ――月が、見ていた。


 暗雲の裂け目から、いつの間にか、満月が姿を表していた。大きな金色の単眼が、「彼」を見下ろしていた。


(――ああ、だめだ)


 月と目が合って、瞬間的に、「彼」はそう思った。

 その手から、銃が滑り落ちる。それを蹴飛ばすようにして、「彼」は月明かりの下を走りはじめた。

 

 ◆ ◆ ◆


 嵐の夜を越えてから、二夜。夜の町を、「彼」は走っていた。

 「彼」はガタイのいい男たち数人に追われていた。そのうちの一人は、大家の男を埋めたときに見た顔だ。だからおそらく、彼らは嶋野の手下たちだろうと推測できた。

 一度巻いた手下たちは、鼻のよく利く猟犬のように、身をひそめた「彼」の居所をあぶり出した。手下たちは「彼」を始末するために追ってきているようだった。

 決死の逃走を続けながら、「彼」の頭はあの日起こった出来事を繰り返している。見知らぬ女を助けた男と、子どもを突き飛ばして瓦礫に埋もれた中嶋。あの夜を思い出すたびに、胸の内の空洞を風が吹き抜けていくような気がした。お前の心はこんなにも空っぽなのだと、知らしめられるようだった。

 人と獣の、何が違う。

 また問いを繰り返す。月に向かって走りながら、「彼」は考えている。あの夜からずっと、考えている。

 何をもって、人は人と呼ばれるのか。獣と区別されるのか。

 答えなど、とっくのとうにでている。


 人が人である証明。人が人と呼ばれ、獣と区別されていい理由。

 きっと、その答えがあの夜の出来事なのだ。

 誰かのために、何かを成せる。たとえ自分の身をなげうってでも。

 もしかしてそれが、それこそが人というものなのではないのだろうか。その善性が、人が人と呼ばれる由縁ではなかろうか。


 月光の下を駆ける。道端で輝く月を踏み荒らして逃走した。

(そうであったらいい。ああ、そうであってほしい)

 そんな「彼」の独白は、祈りに相違なかった。

 道の水たまりひとつひとつに月が宿るこの光景のように、人間にはそも、なんの変哲もない小さな善性がある。人は本当は、他者を食い荒らすだけではなく、他者に手を差し伸べることもできる生き物である。

 その想像は、今まで「彼」が出会ってきた現実の中で、暗い宵の空で輝く月のように、一等目映く尊い光のように思えた。

 絶望的な状況の中で、それを見つけた「彼」の心臓は今までになく熱かった。気を緩めれば、涙が溢れそうだった。

 しかし、同時に「彼」の心には暗い空洞があった。なぜならば、「彼」は考えてしまったからだ。

 人という生き物が人と呼ばれるのに、誰かのために何かを成せることが必要であるならば、自分はどうなのだろうかと。

 今の今まで、自分のために人を殺し続けた自分は、いったい何者なのだろうかと。

 どうしようもない空虚が、「彼」の体の芯には巣くっている。心臓はこんなに熱いのに、このがらんどうは、どこまでも冷え冷えとして虚しい。

 どうすれば、いいのか。どうすれば、鬼は人になれるのか。誰かのために何かをするなんて、どうしたらいいのかわからない。そんなこと、「彼」は今まで考えたことがなかった。誰も「彼」に教えてはくれなかった。

(ああ、なんて、どうしようもないがらんどう)

 その生涯に大切だと思えるものはもう一つもなく。ただ死にたくない、死ぬのは怖いという生存本能から、此岸にしがみついてきた。まるで中身のない果実。


 月夜の下を駆ける。月に向かって走る。

 嶋野の手下たちの足音が、背後から聞こえる。追いつかれるのは時間の問題だ。

 「彼」の目の前には橋が見えている。幼いころに川原から見上げた、あの橋だ。

 橋の上を走る。こんな時間では、向こう岸の明かりはもうほとんど見えない。それでも「彼」が幼年期であれば、向こう岸に行けさえすれば何かが変わると夢を見られたかもしれない。しかし今の「彼」はもう、橋を渡ったところで人は何も変わらないのだと知っている。

 橋に響いていた小さな振動が止まる。橋のちょうど中央で、「彼」は足を止めていた。

 「彼」が振り返ると、嶋野の手下たちが橋の渡し口に差し掛かっているのが見えた。

 今一度、月を見上げる。今夜も空高く、月は天に座している。

 月は地に墜ちぬ。だが、それでいい。それがいいのだと、「彼」にはもうわかっていた。月はあの暗い夜空にあるのが、もっとも輝いてみえるのだ。

 「彼」は欄干を跨いで、人一人立つのがやっとの縁に立つ。

 橋から見下ろせば、汚泥に濁った川面でも、月の光は浮かんでいた。

 幼いころから、闇夜でも輝く光が欲しくて、「彼」は何度も月に手を伸ばした。結果、一度として「彼」がその光に触れられたことはなかった。

 しかしそも、月を手にするには、空に手を伸ばす必要などなかった。月の光は今、「彼」の眼下にある。あの美しい光に触れたければ、水面の月を掬えばよかったのだ。


 欄干から手を放して、「彼」はゆらめく月へと飛び込む。遠くで嶋野の手下たちが何事か叫んでいたが、それも一瞬のことで、すべては水音にかき消されていく。数刻前まで降っていた大雨で水量が増した川が、「彼」を呑み込むのは容易なことだった。

 飛び込んだ「彼」の残像のように上がる水飛沫。そこには、月の光が反射していた。

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