第十三節 月が見ている③
中嶋という男は、下戸だ。下戸のくせによく酒を飲む。
そして酒を飲むと、中嶋は人が変わるたちだった。暴力的になるのではない。むしろその逆だった。
中嶋は酒が入ると、いつもまとっている冷たい気配が消えるのだ。どこかぼんやりとしていて、心がどこかをさまよっているような様子になる。「彼」に文字を教えることもあった。
そうしてそういうときは、ときどき「三つ葉」と呟くのだ。あまりにも何回もその単語を聞くので、「彼」は一度、「三つ葉」とはいったいなんなのかと聞いたことがある。
「ああ、右手の甲にな、あったんだよ。三つ葉みたいな火傷の痕が」
そのときの中嶋は、やはりぼんやりとして生気がなく、自分の手の甲をじっと見ていた。たしかその日も、雨が降っていたはずだった。雨音の中で、彼は話しだしたのだった。
中嶋はもともと、燐寸工場を経営する家の三男坊だった。幼いころはときどき父の工場へ顔を出していて、そこに働きにでてきていた子どもが、「三つ葉」だった。
三つ葉は中嶋よりも数歳年下の少年で、家は貧しく、右手の甲に巻きたばこを押しつけられたような痕があった。たばこ痕は三つ集まっていて、それが三つ葉模様に見えるため、中嶋は彼のことを「三つ葉」と呼んでいた。
中嶋と三つ葉は暮らしている環境も立場も違うが、どうにも妙に気があって、三つ葉の仕事が終わるとよく工場の裏で遊んでいた。中嶋は彼のことを弟分のように思っていて、学校に通っていない三つ葉に字を教えることもあった。
しかし、中嶋が十三のころ、急な病で父が亡くなった。ほとんど同時に、会社の金が持ち逃げされた。そこからがらがらと崩れて、会社は倒産し、工場は差し押さえられた。
十四になると、中嶋はとある呉服屋に奉公にでることになった。母が昔の伝手を辿って、頼み込んだのだった。
中嶋が奉公にでた店の番頭は、客や旦那には愛想がいいが、丁稚や手代には厳しく、すぐに手がでる性分の男だった。中嶋もよくしつけと称して殴られた。だが家に戻るわけにもいかず、辛抱して働くしかなかった。
番頭に殴られた場所が痛む夜は、中嶋はよく三つ葉のことを思い出した。工場が差し押さえられてからというもの、彼は三つ葉に会っていなかった。彼と駆け回った日々は、中嶋の心を支える大切なものの一つだった。
三つ葉のことを思い出すとき彼はよく、工場の裏で小枝で地面を引っかいて三つ葉に教えてやった文字を、寝床に指で書いた。中嶋はいつも、今の三つ葉はどうしているのだろうかと思っていた。
中嶋が十七のころ、店の銭箱が盗まれる事件があった。番頭はもうカンカンで、血眼になって犯人を捜した。そのうちどういうわけだか中嶋が犯人じゃないかという噂が番頭の耳に入ったらしい。罪を吐かせようと、番頭は中嶋を酷く折檻した。そのときの内容を、中嶋はよく覚えていない。ただ二度とごめんだと思ったことと、ほかの丁稚の証言で罪が晴れて解放されたあと、体がボロボロだったことだけは覚えていた。
それから少しして、中嶋が店先で客に見せ終わったあとの反物を片づけていたときのことだ。中嶋は店の奥から名を呼ばれて、手にしていた反物を置いて店の奥に向かった。そして戻ってきたとき店先を見ると、乞食らしき身なりの男が、そこに置いてあった反物をひったくろうとしているところだった。
乞食は人の気配に気づくと、手早く反物を抱えて逃げ去った。運悪くそのとき店先には中嶋しかおらず、反物が盗まれたことがバレれば、また中嶋は折檻を受けるに違いなかった。そのことを思うとじわりと手に脂汗が滲んで動機が早くなり、中嶋は気がついたら乞食を追って走りだしていた。
入り組んだ裏通りを走っていく乞食を、中嶋は決死の思いで追いかける。あと少しで追いつけそうなのに、なかなか追いつけない。乞食が角を曲がろうとして、少し速度を落とした。今が機だと、中嶋は乞食に向かって突っ込んでいった。
しかし、このときの中嶋はあまりに乞食を捕まえるのに必死で、周りのことが見えていなかった。
中嶋が乞食に体当たりを喰らわせた先には、建築用の資材が積み上げられていたのだ。二人がぶつかったことで、その資材は崩れはじめた。
いち早く危険を察知した中嶋は、なんとか体を捻って地面を転がり、すんでの所で倒壊に巻き込まれずに済んだ。だが、中嶋の下敷きになっていた乞食は、そうはいかなかったようだ。
土埃が止んで、中嶋は荒い息をはきながら崩れた資材に近寄った。資材の下から、人間の手が一つ飛び出ていた。
血に濡れたその手の甲を見て、中嶋は膝から崩れ落ちた。そこには、やけに見慣れた三つ葉模様があったのだ。
それから中嶋は、何もかもを放り出してその場を立ち去った。そして嶋野に出会い、香津屋一家に入ったのだった。
「俺は鬼だ。人じゃない。人の俺は、鬼の俺が喰ってしまった。鬼が人を殺すのは当然のことだ。人を殺せない鬼は鬼じゃない。だから三つ葉を殺したのも、当然のことだ」
中嶋は、そううわごとのように呟いて、酒をあおった。こういう状態のときのことを、酔いが覚めたあとの中嶋が覚えているのかどうかは定かではない。だが、以降中嶋は三つ葉のことを語ることはなかった。「彼」も聞くことはなかった。
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