第十節 夕焼け、鬼童子、黒鉄の牙②
秋の正午。格子の窓から差し込む光が、畳の目の凹凸をくっきりと浮かび上がらせている。夏が終わっても日差しはまだ温かく、冬が来るのはもう少し先のことだと「彼」に知らせていた。
四畳半の部屋に敷かれた畳に寝転がっている少年は、なんの気もなしに、横向きに寝ていたのを仰向けに変える。格子窓からは、向かい合った長屋の屋根の間からのぞく青空に、小魚がたくさん泳いでいるような小さい雲の群体が見えた。いわし雲と呼ぶらしいそれは、雲にしては足早に、空の海を泳いでいく。
どうやら今日は、風が強いらしい。「彼」がそう思ったとき、戸の前で足音が一つ止まった。その人物が戸を開ける前にと、少年は体を起こす。
戸を開けたのは、銀鼠の着流しを着た若い男だった。切れ長の目と、その下にうっすらとできた隈に、精悍だが冷たくも見える顔つき。袖の端からはちらりと、彫り物の黒い線が見えた。
男は、名を中嶋といった。彼こそが、初めて人を殺してしまったあの夜、少年を拾った男だった。
あの夜、行くあてもない「彼」は中嶋についていくことにした。そうして行き着いたのが、今彼が暮らしているこの長屋だった。
中嶋は、その鋭利な刃のような雰囲気から察せられるとおり、堅気の人間ではなかった。香津屋一家と呼ばれる組に属する、ヤクザ者の一人だったのだ。
少年はあの日以来この男の元に身を寄せ、その「仕事」を手伝うことになった。
中嶋の元での暮らしは、今までの「彼」の人生の中でもかなりいいほうだった。寝るところにも食うものにも困らず、着るものも今までより少し上等なものになった。中嶋は「彼」にさまざまなことを教え、「彼」はそれを身につけていった。
そうして、「彼」が中嶋の元に来てからおよそ一年がたった。
十四になった「彼」は、戻ってきた中嶋を前に姿勢を正して座った。中嶋はそんな少年の前に一つ、木箱を置くと、「彼」の向かいに腰を下ろした。
少年が木箱と中嶋を交互に見ると、中嶋は顎をしゃくった。「開けろ」とのことらしい。
「お前なら扱えるだろう」
「彼」がそう言う中嶋に命じられるままに木箱を開けると、そこには一枚の紙と黒い鉄の塊――一丁の拳銃が入っていた。
「その紙に書かれたやつを殺してこい」
そう、中嶋は言い放った。まるでなんでもないことのように、常と変わらぬ声色で。怒りも憎しみも混じらない、淡々とした口調で。
そして命令された「彼」も、何を驚くことはなく。狼狽えることも、躊躇うこともなく、眼前の木箱の中身に手を伸ばしたのだった。
「彼」がここで教えられていたことは、サイコロの振り方でも、興行の営み方でもない。
人の急所、銃の扱い方、刃物の構え方。どこを傷つければどれだけの血が流れ、より効率よく、より残酷に命を刈りとるにはどうすればよいのか。
すなわち、人の殺し方。命の奪い方を、「彼」はこの一年毎日教えられてきた。
そして、「彼」もそれを疑問に思うことなどなかった。
「彼」が殺人を犯したことを承知で、中嶋は「彼」をここに連れてきたのだ。その証拠に、中嶋は「彼」を新しい名で呼んだ。
「鬼童子」――それが、中嶋が「彼」に与えた呼び名であった。
鬼の童、鬼の子。それはすなわち、極道者でもせぬような、人の道を外れたことでも為す者という意味を含んでいる。
中嶋は今日ここに至るまでそんなことを一度も口にしたことがなかったが、「彼」はその呼び名のもつ意味に端から気がついていた。中嶋は、汚れ仕事をさせるために、「彼」を拾ったのだ。
第一、大人がなんの対価もなく、「彼」に何かを与えてくれるわけがない。大人が「彼」に親切にするときは、「彼」に見返りを求めているときだ。それを嫌というほど、「彼」は知っていた。
だから「彼」は、黙って銃を受け取った。黒い拳銃は少年の手にはずっしりと重く、しかしその重さに、「鬼童子」はもうすっかり慣れてしまっていた。
◇ ◆ ◆
逃亡する男を、「鬼童子」が追う。貧民窟を抜け、男は今や土手の上を走っていた。そのうち石に躓いて体勢を崩すと、倒れた男はそのまま土手の下へと転がっていく。
土手の下には、たくさんのススキが生えている。起き上がり、その穂の海を割って走っていく男を、「鬼童子」もまた追いかける。やがてススキの群れは途絶え、橋の下で男は止まった。
息を切らして膝をつく男は、倒れこむように地面に手をつくと、地面に胃液を吐き出した。ススキの穂は「鬼童子」の背よりも高く伸びている。「彼」は男のそばには近寄らず、ススキの群れの中から男の様子を見ていた。
「彼」が懐に手を差し込むと、堅い鋼の感触が指に当たった。臆することなく、その感触をつかみ取る。
「鬼童子」は、まだ十四歳の少年である。ここ一年でずいぶん肉付きはよくなったが、それでもまだ目の前の男に体格や力ではかなわないだろう。
だが人という獣は、自らが牙を持たぬ代わりに、他者を仕留めるための武器を作る生き物だ。彼の手にあるものもまた、そういう類いのものだった。
黒い拳銃。名前は知らぬが、使い方はよく知っている。外の国で作られたらしいそれは、不思議と「鬼童子」の手によくなじんだ。
男との距離は十五歩ほど。ススキの群れの中にいる少年の姿は、男からは見えていないらしい。だからこそ「彼」をまけたと思って、ああして橋の下で咳き込んでいるのだ。
その男に、「鬼童子」は銃口を向ける。銃という武器は、それなりに気難しい武器だ。必ずしも狙った場所に銃弾が当たるとは限らない。
だが、中嶋は「お前なら扱えるだろう」と言って「彼」にこの銃を渡した。
「彼」は中嶋から人を殺す方法をいくつも教わったが、その中でも銃を扱うのは飛び抜けて得意だった。
銃を手にして標的へと狙いを定めるとき、「彼」の中には「これだ」と思える瞬間があった。そういう瞬間に放った弾丸は、必ず「彼」の狙ったところに当たるのだ。
遠くから、汽車の音が聞こえてくる。橋の上には線路がある。ごうごうと轟く汽車の音に、男が頭を上げる。その頭に照準を定め、男が振り返った瞬間――
(ここだ)
汽車が、通り過ぎていく。ばたりと、大柄な体が地に伏せる。
「鬼童子」が近づいて見ると、男の側頭部には二発、銃痕ができていた。息はなく、じきにその体温も失われていくことだろう。
撃った相手の臨終を確認し終えたころ、「鬼童子」に近づく気配があった。その気配に振り返れば、土手の上から中嶋と、もう一人見知らぬ大柄な男が降りてくるところだった。おそらく中嶋の仲間であろう大柄な男は、筒状に丸められたムシロを肩に担いでいる。
中嶋は橋の下まで辿り着くと、「鬼童子」の頬を平手打ちした。
「見られてるんじゃねぇ」
ぶたれた頬はじんじんと痛く、歯に響くほどだった。だがドスの効いた中嶋の声に、「彼」は言い返すことはしなかった。
それに、中嶋の言葉はもっともなことだった。
「埋めとけ」
中嶋の言葉とともに、隣にいた男の肩からムシロが下ろされる。その端からは、黒い髪先がわずかにのぞいていた。それがさきほど「鬼童子」が殺した女だということは、言われるまでもないことだった。
中嶋が別の後始末をしに橋の下を去ったあと、「彼」は中嶋とともに来た男と、橋の下に金鋤で穴を掘った。どこかで覚えのある光景だと、ぼんやり思いながら。
実のところをいえば、「鬼童子」の目当ては女のほうだった。詳しいことは中嶋から聞かされなかったが、この女が生きていると、不都合なことがあるだろう。およそ「彼」の与り知らぬ理由で、「彼」はこの女を殺すことになったのだ。
だから、本来男のほうは殺す必要がなかった。しかし、男は「鬼童子」が女を殺したところを見てしまった。
中嶋が「鬼童子」に命じたことは二つ。
一つは、誰にも知られずに女を殺すこと。
もう一つは、もし殺すところを見られてしまった場合は、見た者も殺すこと。
それ故に、「鬼童子」は男を撃ったのだ。
中嶋の仲間と穴を掘り終えると、「鬼童子」は男の死体を足で転がして穴の中に落とした。次いで、女の死体が入ったムシロが落とされる。穴の中に収まった大家の男は、不思議とずいぶん小さく見えた。
(ああ、こんなものだったのか)
「彼」が思ったのは、それだけだった。
鬼の子に後悔はない。罪悪感などかけらもない。
しかしそれは、目の前の男が「彼」を虐待していたからではない。確かに「彼」は男のことが嫌いだったが、殺したいほどかと言うと、そうではない。
憎しみすら、「彼」にはない。
ただ、獲物だった。
目の前の男は、「彼」が生き永らえるための獲物だった。
この男を殺さなければ、きっと中嶋は「彼」を殺しただろう。「彼」だって、死ぬのは恐ろしい。
だから殺した。生きるために殺した。これで明日もまた、「彼」は飯を喰らうことができる。
みんなやっていることだ。誰だって他者を利用し食いつぶして生きている。どうせ人など獣と変わらない。自分のためだけに、己を満たすためだけに、誰かを喰らうのだ。
夜の闇の中、背の高いススキたちが、ざわざわと風に波立つ。橋の陰とススキの姿で、土手の上から見れば橋の下はほとんど見えない。
なんとも既視感のある光景だった。ただ一つ、今宵の空には月がでていないことをのぞいては。
帰り道、土手の上で「彼」は猫を見た。自分と同じ、真っ黒い毛並みの猫だ。気がつけば「彼」は、嫌いなはずの猫の姿を目で追っていた。
その猫は、口にネズミをくわえていた。土手の上にできた道の真ん中で「彼」に一瞥をくれると、猫は土手の脇の草むらへと姿を消していった。
猫とて、獣なのだ。他者の命を喰らわなければ生きていけない。だからきっとあの猫は、殺したネズミでこれから腹を満たすのだろう。
そんなことを思いながら、「彼」は月のない夜の道を歩いていく。振り返らずに、歩いていく。
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