第十一節 白、黒、二人の鬼①

 隠岳山の麓の集落で育った正茂は、最初隠岳山の人喰い鬼の話なんぞこれっぽっちも信じてはいなかった。

 隠岳山のことは小さいころから知っていたし、ここで育った人間なら皆何度も山に入ったことがある。だが狐だの山犬だのを見たことはあっても、鬼だの幽霊だのというものは見たことがなかったからだ。

 ただ集落の老人たちが数日前の早朝に転がり込んできた男女の話を真に受けて、人ならぬ者が集落の平穏を脅かすかもしれないとうるさいのでしぶしぶ山に入っただけだ。

 もちろん見つかるとは思っていなかったし、見つからなければイノシシの牙でも石でも適当に見繕って角だと言って安心させてやればいいと、皆そんな算段で集落をでたのだ。


 しかし、彼らの予想は外れた。それも悪いほうに。

 もう誰もいないはずの猟師の家。その戸を開けようと言い出したのは誰だったか。

 きしむ戸を開いて、五人が目を向けた先。

 そこに、いたのだ。


 雪女のように白い髪の娘が。

 悪名高い、人喰い鬼が。


 気がつけば、正茂は銃弾を、囲炉裏の前で横になっている鬼の腹に撃ちこんでいた。勇猛さをもって撃ったのではない。臆病風に吹かれたのだ。

 目の前で呻く人喰い鬼の娘。それが実在したのだという事実。そして今響いた発砲音に、皆唖然とし、銃を持ったまま誰一人として動けやしなかった。

 そうこうしているうちに鬼は立ち上がると、ゆらりと一歩、足を踏み出した。その足の行く先は、自分たちのいる木戸のほうを向いている。

 それを理解した瞬間、正茂は額から汗が噴き出るのを感じた。あの鬼は、自分たちに近づいてきている。やつを撃った自分に向かってきている。

 頭の外で、けたたましい声が響いた。それが自分の絶叫であると気づいたときには、正茂は駆け出していた。

 

 彼が覚えているのは、そこまでだった。気がつくと一人、彼は雪山の中で立ち尽くしていた。冷たい外気に冷えた汗が、彼の正気をなんとか取り戻してくれたのだ。

 一緒に来た仲間がどうなったのかはわからない。正直なところをいえば、今すぐにでも彼は山を下りたかった。

 しかしもし、あれが集落まで降りてきたら。正茂には、病気がちな妻がいる。あれがその妻を襲ったら。そう思うと、山を下りるわけにはいかなかった。

 とりあえず、はぐれてしまった仲間を探そう。そして体制を立て直して、なんとかしてあの鬼を討つのだ。そう思って、正茂は銃を握り直した。あれほどに白い髪、そして腹を撃たれても平然と立ち上がる姿。あれを鬼と呼ばずしてなんと呼ぶのか。正茂はもうすっかり、鬼の存在を信じ切っていた。

 黒い肌の木々に隠れて、視界の中に動くものはないかと目を凝らす。あの鬼が正茂たちを追ってきていないとは限らない。銀世界に、あの白髪はよく紛れる。どうして今は冬なのだと、正茂は舌打ちをしたくなった。

 突如、彼の背後で小枝の折れる音がした。正茂はすぐさま振り向き、猟銃を構え――そして、すぐに下ろした。

 音の主は、白いウサギであった。正茂の姿に気がつくと、踵を返して巣穴へと戻ってゆく。

 正茂はゆっくりと息をはく。肩から力が抜けていくのを感じた。引き金から指を外すと、何をやっているのかと項垂れる。


 瞬間。発砲音が聞こえて、彼の足に痛みが走った。


(えっ)

 突然のことに呆気にとられる彼の体は、撃たれた衝撃で前のめりに倒れていく。倒れる途中、無意識に首を捻って背後を見ると、彼は目を剥いた。


 そこには鬼がいた。

 白い鬼ではない。あれとは正反対の、黒い鬼だ。


 黒髪に、黒い銃身を携えた青年。前髪が作る暗い影。それに隠れて見えない表情。手についた赤黒い血。

 青年は銃身を抱え、正茂に近づいてくる。

 身に着けているものも、見た目も、彼らとそう変わるところなどない。

 しかし、姿がわかるほどの距離にいながら、一つとして足音も気配もしなかった。いつからそこにいたのかもわからない。見覚えのある顔のような気もするが、こんな見ただけで背筋に震えが走るような威圧感のある青年と知り合った記憶など、正茂にはない。

 青年が近づけば、彼の顔がよりはっきりとわかるようになる。

 青年の黒い目が、正茂を見咎める。その目を見て、正茂はなぜこの青年が恐ろしいのかを理解した。

 彼の目の黒の底が、見えないのだ。一切感情の見えない目。奈落をのぞき込んでいるような気分になる目。

 殺人鬼の目だ。正茂は永遠に思えるようなこの数秒の間に、そう思った。正茂は今まで殺人鬼などあったことはなかったが、そう断言できた。こんな目をしたやつが、ただの人間であるはずがないと言いきれた。

 ゆっくりと――実際の時間では、素早く――殺人鬼が銃床を振り上げる。そしてそれが振り下ろされる一瞬、正茂の頭に過るのは、新妻の顔だった。

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