第九節 鬼の子②

 どれほど歩いただろうか。

 とうの昔に日は暮れて、川を挟んだ向こうの町は、電灯の光がぽつぽつと輝いている。

 「彼」は痛めた足を引きずって、土手の上を歩いていた。火事を知らせるけたたましい音が聞こえて振り返ると、夜の空には場違いな赤が燃えていた。「彼」が一刻前までいた方向だ。「彼」のいた工場が燃えているのだった。

 「彼」が倒したカンテラが原因なのか、それを知る術は「彼」には残されていない。血にまみれたこの姿であの場に留まるわけにも、今さら戻るわけにもいかない。

 とはいえ、戻る場所を失くしてこれからどうすればいいのか。それを考えるだけの気力も、すでに「彼」は持ち合わせていなかった。

 ゆえに「彼」はただ、前に進み続けているだけであった。目の前に続く道にそって、だらりと腕を下げ、動く屍のごとく歩いている。

 こんな日に限って、月は姿を現わさない。新月の空にあるのは無数の星だけだ。だから「彼」は空を見上げることもなく、一寸先も見えぬ夜道を見つめていた。

 ふいに、「彼」の歩みが止まる。顔を上げると、夜闇の中で、小さな赤い光が灯っているのが見えた。

(たばこの、火)

 土手の上、「彼」の行く手に誰かが立っている。星明りの下、遠くに見える橋の灯りを背景に、背の高い輪郭が影絵のように浮かんでいる。

「おい」

 何を見てやがるんだと言いたげに、低い男の声が人影から聞こえた。

 次いで、足音が「彼」のほうへと近寄ってくる。たばこの火が蛍のように明滅して、ゆらりと宙を舞う。

「鉄臭いな」

 男は「彼」の目の前に立つと、頭三つ分ほど上から「彼」を見下ろした。男の暗い色の着物も、これだけ近くに寄って薄っすらわかるようになった顔つきも、夜闇が染み込んで真っ黒に見える。

 男の視線が、「彼」の頭のてっぺんから爪先まで見回す気配を感じる。その気配に、「彼」は思わず片足を半歩下げた。足の裏で砂利が擦れる音がする。

 そして間もなくして、男は口を開いた。

「お前、人殺しか」

 男の言葉に、「彼」は体を硬くした。

 これだけ暗ければそうそう気づかれまい。逆に逃げるほうがあやしまれるだろうと踏んでいたのだが、外れてしまった。「彼」の所業は、この見ず知らずの黒ずくめの男の前であっさりと見抜かれてしまった。

(どうする、逃げるか、どこへ?)

 頭上で明滅するたばこの火を前に、「彼」は疲労で上手く回らない頭をどうにか回転させる。暗闇に活路を探す。逃げるか、それともこの男も――

「くるか、ウチに」

 え、と、闇夜に少年の声がぽつりと響く。間の抜けた声は、紛れもなく「彼」自身の声だ。

 そして、思いもよらなかった提案は、間違いなく目の前の男から発せられたものだった。

「ちょうどお前みたいな、鬼の子みたいなやつが一人欲しかったんだ」

 そう言って、男は煙を吐き出した。ヤニの焦げ臭い匂いは「彼」の鼻を掠め、あたりへと広がっていく。

 男はそれ以上言葉を発さず、しばらく「彼」を見下ろしていた。「彼」もその間何も言わず、男の目をじっと見つめていた。

 川から風が吹きあがって、煙の匂いを消し去る。代わりに生水の少し磯臭さが混じる匂いが戻ってきて、そこでようやく、「彼」は半歩下げていた足を戻した。

 砂利が擦れる音を聞くと、男は「彼」のそばを通り抜けて、橋の灯りを背に歩きだした。「彼」は一度だけ、橋の灯りに視線をあわせる。だがすぐに背を向けて、男のあとを追った。


 夜闇の中、川べりに、赤い光が浮遊する。光は強くなり、弱くなりを繰り返して、いつしか底の見えぬ闇の中へ消えていった。

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