第九節 鬼の子①
それから半年ほどして、「彼」は工場で働くようになった。否、働かされるようになった。
この半年の間に、あのボロ長屋から妻のほうは出ていった。その理由の詳細は「彼」にとってはどうでもいいことで、あまり覚えていない。
女房がいなくなったことで大家の男は荒れ、一時「彼」への暴力も激化した。しかしすぐ新しい女ができたようで、女を家に連れ込むときに「彼」の存在が面倒になったのか、毎朝ほとんど放り出すようにして工場に送り出された。
最初は小さな燐寸の工場で軸を揃えたり燐寸を箱に詰めたりする仕事をした。数年たつと、今度は段通工場にて敷物作りの雑用をこなすようになった。
どちらも、「彼」と同じぐらいの年頃の子どもが働いているのは珍しいことではなかった。出来高払い制で、学校の行き帰りの短い時間だけ来ている者もいた。
しかしそのような子どもたちに対して、「彼」から関わるようなことはほとんどなかった。「彼」はいつも機械のようにただひたすら手を動かし、作業に没頭していた。
そんな「彼」の様子から話しかけづらい雰囲気を感じたのか、子どもたちも「彼」に自ら進んで話しかけるようなことはなかった。「彼」は多少顔の造形がよくできていたほうだったので、興味深げに「彼」を見つめる少女たちはいた。だがそれも遠巻きにひそひそと様子を伺う程度であった。
世の中においては「彼」の年頃の子どもは小学校に通うのが習慣となってきた時代ではあったが、「彼」がそこに通うことはただの一度もなかった。あの大家の男が、それを許すはずもなかった。
段通工場を三年勤めあげたあとのことだ。
それまで「彼」は、いちおう毎日あのボロ長屋に帰っていた。そうでないと男に何をされるかわからなかった。
しかし、ある日とうとう大家の男は「彼」を家から追い出した。これも「彼」は詳しい事情など知らされなかったが、新しい女と所帯を持つことになり、「彼」の存在が邪魔になったからに違いなかった。
家を追い出された「彼」は、男の指図でガラス工場の見習い工につくことになり、工場近くの宿舎で寝泊りすることになった。
ガラス工場での仕事はそれまでの工場より重労働できついものもあったが、「彼」はここでの暮らしをそう嫌ってはいなかった。
ある程度ちゃんとした寝床と飯にありつけて、何よりいつ殴られるかとあの男の顔色を終始窺わなくてもいい。男は月に一度は「彼」の元に現れて、みつに関することの口留めと、「彼」の少ない給料をむしり取っていくことを忘れなかったが、それでもあの家で暮らすよりはマシだった。
二つ嫌な点を挙げるとすれば、一つ目は、工場の古い倉庫の裏が猫の集会所になっていることだった。
このガラス工場は、以前は別のものを作る工場だったのだが、倒産して持ち主が代わり、その際に今のガラス工場に変わったそうだ。そしてガラス工場に変わった際、一部の施設を新しくしたらしい。
その関係でここには新旧あわせて二つの倉庫があり、古いほうはもう使わなくなった機材だの廃材などが置いてある。人はあまり訪れず、それをいいことに、どこからともなく裏に猫が集まってくるのだ。
「彼」は猫の鳴き声がすっかり嫌いになっていた。理由など詳しく述べるまでもない。嫌な夜を思い出してしまうからだ。
もう一つは、「彼」を指導する職工の男の存在だった。
男の歳は三十半ばほどで、笑うと犬歯が一本抜けているのがわかる。独り身で、「彼」と同じように貧民窟で育った男だった。
その男は別に、「彼」が仕事をヘマしたからといって殴るようなやつではなかった。むしろ逆であった。
男は「彼」のほかにも何人かの見習いを指導していたが、「彼」にだけ異様に甘かった。ほかの見習いがしたら激を飛ばすような失敗でも、「彼」に対してだけは励ましの言葉さえかけてくる。どういうわけか「彼」のことをいたく気に入っていて、ときおり「彼」一人だけに菓子を手渡してくることもあった。
「彼」はそんな職工の男が苦手であった。どうして「彼」にだけ態度が違うのかわからなかったからだ。周りの大人や見習い工の少年たちは、「彼」とその職工の生い立ちが似ているから哀れんでいるのだろうと噂していたが、「彼」にはとてもそうは思えなかった。
単に貧民窟で育ったというのなら、「彼」以外の見習いも皆たいていそうであった。貰い児であるだとか養い親に日夜殴られていただとかいうことも、貧しいものが集うこの町ではそう珍しいことではない。
何より、あの職工が笑って、欠けた犬歯の空洞が見えるたびに、「彼」には悪寒が走るのだった。優しそうに笑っているくせに、その黄ばんだ歯の歪な並びが、妙に不釣り合いでおぞましい。
だから「彼」は職工の男から菓子を貰っても、それを素直に食べる気にはなれなかった。かといって、押しつけられるような親しい相手も作らなかった「彼」は、いつもそれを自室まで持ち帰るしかなかった。
こっそり持ち帰った菓子は机の引き出しに溜まっていき、それをどうすればいいのかわからないまま、その日は来た。
その日はやけに猫を見かけることが多く、見かけるたびに「彼」は眉をひそめていた。集会所になっている古い倉庫の周りはそれが顕著で、薄暗い黄昏時にいくつもの丸い目が浮かんでいた。
その光景を見たとき、「彼」はそのまま宿舎へ引き返そうかと思った。しかし結局「彼」は来た道を振り返ることもなく、倉庫の錆びた引き戸に手をかけたのだった。
滑りの悪い扉をこじ開けて中に入ると、廃材の入った箱の上に、誰かが腰かけていた。
暗い室内に唯一灯るカンテラの光が、隣に座るその人物の口元を照らし出す。ぽっかりと開いた、歯の隙間。それだけで、「彼」はその人物が自分をここへ呼び出した本人だと理解した。
「彼」は、昼の休憩の際に、指導係の職工に声をかけられたことを思い返す。「今日の夕方、古いほうの倉庫に来てくれないか。お前にだけ頼みたい仕事があるから」そう言って、男はまた「彼」に菓子を渡したのだった。
「彼」は正直なところ気が進まなかったが、仕事と言われて断るわけにもいかず、結局ここまで来てしまった。
「彼」の背後で、夕暮れ時の最後の光が遠ざかっていく。それを眺めながら、男は「彼」に手招きをした。「彼」は手招きに従って、男のほうへと近寄る。
「仕事って、なんですか」
子どもらしくない、冷たい声色が倉庫のガラクタに反響した。すると職工の男は倉庫の奥を指さして、「あれを運んでほしいんだ」と言った。
男が指さしたのは、なんの変哲もない木箱だった。中に何が入っているのかはわからない。「彼」が中身は何かと視線で問いかけても、男は顎をしゃくって早くしろとせかすだけだ。
しぶしぶ、「彼」は倉庫の奥へと足を進めた。倉庫内には大きな棚が縦にいくつも並んでいて、さまざまな物がそこに並べられている。木箱はその棚と棚の間、壁際に居座っていて、少年の「彼」が両手で抱えてやっと持てそうなぐらいの大きさだ。
奥に進むごとにカンテラの光は遠くなり、足元も暗く、見えなくなっていく。あと少しで箱に辿り着く。その瞬間、「彼」の背中に衝撃と痛みが走った。
暗転。骨を打つ鈍い音。前のめりに倒れ、受け身も取れぬまま強打した鼻が、ツンと鉄の匂いを嗅ぎ取る。眩む視界にあるのは床。その上に、周囲の薄闇よりひときわ濃い人影が覆いかぶさっている。
背中の痛みから、突き飛ばされたことはわかった。誰が犯人か、などということもわかりきっていた。
痛みで顔を抑える「彼」の体を、その犯人が仰向けに転がす。性急で乱暴なその手には、伸びっぱなしの濃い体毛が生えている。節くれだって荒れた、職工の手。「彼」の胸倉を掴んで体の上に馬乗りになり、にたりと、欠けた犬歯の黒い穴ぐらが笑っている。
倉庫の裏で、猫の鳴き声がしている。一匹、また一匹と鳴きはじめる。
男は「彼」の腕を頭の上でひとまとめにすると、片手でそれを地面に押さえつけた。「彼」の足の間には男の体が割り込んで、足を閉じることができない。
「彼」の目の前で男の息は荒く、口の端からは涎が垂れて、「彼」の胸元を汚していった。目はぎん、と見開かれ、舐めまわすように「彼」の細い肢体を見ている。
目の前の男の一挙手一投足、そのすべてに、心の底から嫌悪感と怖気が押し寄せる。それが「彼」の体を硬直させて、悲鳴さえも喉の奥に押し込めた。
同時に、なぜ自分の腕に今鳥肌が立っているのか、なぜ男のことが苦手だったのか、「彼」はその理由をはっきりと理解した。
目の前で「彼」を食い物にしようとしている男の姿は、似ていたのだ。
あるいは、屋根の上で子猫の死骸を見ていたカラスに。
あるいは、死肉を求めてさまよう野犬に。
あるいは、一度だけ見た、みつの部屋に入っていく色ボケた見知らぬ男の姿に。
(猫の鳴き声が聞こえる)
茫然自失とする「彼」の服に男が手をかける中、そのすべてをかき消すように、彼の意識は猫の声に支配されていた。
倉庫の裏で、夜の始めの窓の外で、棚の奥で、「彼」の耳元で。
遠くから、だんだん近くに。猫の泣き声が聞こえる。寝子の泣き声が聞こえる。震える夜に聞いた、あの声が聞こえる。
声の合間に、「彼」は思い出す。
ドブで死んでいた子猫の姿を。
部屋の中で血を流していたみつの姿を。
みつを埋めた、橋の下の暗い穴を。
脳裏に浮かんだその穴は暗く深く。その底から、何かが「彼」に呼びかける。
『お前の番だ』
その声のおぞましさに、今一度震えが走る。男に捕らえられた両の手を、「彼」は爪が食い込むほどに握りしめた。
(自分も、ああなるのか)
今からこの男から搾取され、慰み物にされ、食い物にされ、死ぬのか。
(――嫌だ。嫌だ!)
ひときわ大きく、彼の耳元で猫の声がした。その一声に、びりびりと体の奥で小さな雷が弾けて、「彼」は暴れだした。
手も足も、体も頭もすべてを振り乱して抵抗する。言葉にならない声を吐いて、骨が折れても構わない勢いで滅茶苦茶に暴れた。
それに怯んだ男の体が一瞬、「彼」の体の上から離れそうになる。その隙を見逃さず、「彼」は男の腹を蹴りあげた。
呻きを上げて倒れる男。「彼」は体を転がして起き上がると、棚の間を走って扉へと向かった。しかし、男に足を掴まれ、扉へ手を伸ばしながら再び転倒する。
悪態をついて、男が再び「彼」の上に跨ろうとする。その気配を察して、「彼」は必死であたりを見回した。
からん、と音を立てて、鉄の棒が「彼」の目の前に転がった。さきほど「彼」が転倒した際の振動で落ちてきたのだろう。
「彼」はそれに向かって手を伸ばす。しかし棒に手が届きそうになったとたん、男に足を引っ張られ遠ざかる。再び「彼」を取り押さえようとする男の顎を蹴りあげて、「彼」は棒に手を伸ばす。
指先が触れ、冷たい鉄を手繰り寄せて掴む。うつ伏せの体をなんとか仰向けにして、腹筋を使って起き上がる反動で、両手で握った棒を振り下ろした。
倉庫の中に、鈍い音と鉄臭い匂いが広がる。次いで、どさりと、砂袋が倒れるような音がした。
男が、額から血を流して倒れている。「彼」に欲情を向けた目は、今や血走った白目を剥いて明後日のほうを見ている。黄ばんだ歯並びの間から吐き出されていた荒い息は、ひゅぅひゅぅと細くなっていた。
「彼」はさきほどとは逆に、男の腰の上に跨った。生温かく息をしている男の上で、鉄の棒を持って腕を振り上げ、そして振り下ろす。
「彼」は何度も同じことを繰り返した。果物が潰れるような音がした。生臭い血の匂いがした。目の前で、人の顔面が違う形になっていくのを見ていた。
それでも「彼」は止めなかった。男の胸が上下しなくなるまで、一心不乱に棒を振り下ろした。
男の息の根が完全に止まったのを理解してから、「彼」はふらふらと立ち上がった。そのまま、一歩、二歩と覚束ない足取りで棚の間を抜ける。
視界の端に動くものを見つけて振り向く。動いていたのは、雨漏りでできた水たまりに映った、「彼」自身の姿であった。
水たまりに近寄って、「彼」は己の姿をまじまじと見つめた。手にも、服にも、髪にも、頬にも、男の赤い血がついている。
頬に指で触れれば、その先にはねっとりした赤い血がまとわりついた。水面に映った影もまた、呆然と自らの手を見つめている。
「ああ、鬼だ」
水たまりの中の自分自身と目をあわせて、「彼」は薄く口を開く。
昔、みつが話したおとぎ話の中に、鬼がでてくるものがあった。その鬼の肌は血のように赤く、鋭い爪と牙で人の肉を切り裂いて喰らい続け、最期には侍に斬られて倒されてしまうのだ。
血塗られた今の「彼」の姿は、まさしく鬼や羅刹という言葉がふさわしい。見つめ返してくる虚ろな瞳は、夜叉というよりほかにない。
頬についた血を裾で拭いながら、「彼」は千鳥足で倉庫の外を目指す。途中、よろけて木箱にぶつかりカンテラが倒れた。それを気にも留めず、「彼」は倉庫の扉に手をかけたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます