第一節 人喰い、雪山、 がらんどう①
雪深い山道を、青年は一人歩いていく。
冬の雪山の景色は、美しくて冷たい。一面の銀世界に不要な色はなく、木々も鮮やかな緑など生やさない。滑らかで柔らかな雪には、万に一つも汚れなど許されない。あるのはただ雪の白と、木々の肌の黒と、雪に覆われたほんの少しの緑。まるで温かさの中に色を忘れてきたかのような景色。
あらゆる動物も、この世界では息をひそめる。あるものは冬ごもりのため穴の中で死んだように眠り、あるものは体の毛の色を変えて、この雪の景色に同化するのだとか。厳しい冬の世界では、自分の存在を誰かに知らせることは命取りになるのだろう。
しかし、青年はそんなことなどお構いなしに、一心に山道を進む。
簔をまとった体の芯まで寒さが沁み、手足の爪先は雪の冷たさにかじかんで痛いほどだ。だがそんなことなどまるで気にせず、眉一つ動かさずに登っていく。
歩く道も、山道といってもほとんどが雪に埋もれてしまい、木々の生え方でかろうじて道とわかる程度のものだ。そこに、一歩、また一歩と藁靴で雪を踏み固めて足跡をつけていく。
灰色の空は、青年が足を踏み出すたびにその色を暗くさせていく。日が暮れるまで、そう時間はかからないだろう。それには青年も気づいている。気づいていて、引き返さない。
やがてもう日が沈むだろうころに、青年はやっと一軒の家を見つけた。
弱い吹雪と木々の向こうにある板壁のそれを見て、彼は足を止める。さっきまでぴくりとも動かさなかった眉根を、彼はわずかにひそめた。
けれどもそれも一瞬のことで、すぐにまた彼は歩きだす。その足先は、屋根を雪で覆われた家へと向いていた。
古い木戸を、青年の霜焼けた拳が叩く。近くによって見ると、家はずいぶん古そうな作りではあったが、戸の隙間からかすかな明かりが見える。どうやら中に人がいるらしかった。
しかし、青年が木戸を叩いてからしばらくたっても、一向に木戸が開く気配はなかった。もしかして聞こえていないのだろうか。そう思って、青年は再び戸を叩く。だがやはり戸が開くどころか、返事すらない。青年はさきほどよりも強く、戸を叩く。戸は開かない。その間にも日は暮れていく。この寒さの中で一人野宿をするのは、青年もさすがに避けたいところだった。
次に戸を叩いて何も返事がなければ、仕方がないので押し入らせてもらおう。そう思いながら、彼は四度戸を叩く。案の定、戸は開かない。ならばと、青年は戸に手をかける。すると、彼力を入れる前に、戸はゆっくりと横へ開いていった。
「如何様なご用で」
戸の向こうにいたのは、どうやら娘のようだった。娘であると青年が断定できなかったのは、彼女が頭に布を巻いて、髪と目元を隠していたからだ。体つきも痩せていて、年頃の女性に見えるような凹凸も少ない。少年と言われれば納得してしまいそうな風体であるが、声からして、どうにか娘であろうと推測できるぐらいの高さであった。
麓の集落から歩いてきたが、もう日が暮れてしまいそうなので一晩ここで過ごしたい。そんな旨を青年が娘に伝えると、彼女はちらりと外の様子を見て、それからしぶしぶといった様子で彼を中に通してくれた。
土間で履物を脱ぎ娘に続いて上がると、四畳半ほどの部屋の中央では、囲炉裏に炎が灯っている。娘は青年に特に何も言わず、黙ってそのそばに座った。その様子を見て、彼も彼女に倣って反対側に腰を下ろすことにした。
炎を囲む二人の間には、しばし沈黙が流れた。その沈黙を埋めるは囲炉裏の暖気のみ、といったところに、ときおり炎の爆ぜる音がする。
「いったいなぜ、こんな時間にこんな山の中に?」
ぱちぱちと爆ぜる囲炉裏の炎に手をかざしながら、娘は青年に問う。外の雪と同様、色のない冷たい声には明らかに怪訝さが滲んでいる。
「この山には、人喰いの鬼がでると聞いた」
ぱちん、と、ひときわ大きく火が音を立てた。
隠岳山には人喰いの鬼がでる。それは、この近辺、特に山の麓の集落で近ごろまことしやかに広まっている噂話だ。なんでも、集落の住人が真夜中に白髪を振り乱しながら走る人影を見たのだそうだ。その形相はすさまじく、目は血走って赤く。あれは只人ではない、人を喰うような鬼に違いない。そう唾を飛ばしながら語る住人の姿を、青年もこの山へ登る前に目にしてきたばかりだ。
その鬼を、探しに来たのだ。青年はそう、彼女の問いに淡々と答えた。
「その鬼を、退治しようと?」
青年の答えに、娘は問い返してきた。舞い上がる火の粉の向こうで、その声は掠れている。
「いいや」
青年は首を横に振る。雪で濡れた髪が頬に張り付いたが、彼はそんなことを気にも留めるたちではない。
「むしろ、その鬼に喰われに来た」
青年がそう言い放つと同時に、囲炉裏に積み上げられた薪の一部が崩れる。崩れて転がった薪の一部は火から離れてもすぐには熱を失わず、その中心はしばらく赤々と火を孕んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます