9.夢

高校三年生になり、わたしはさらに逃げ場を失った。進路希望調査の用紙には、「法学部」と書くしかなかった。それも、父が指定した、国内で最も難易度の高いと言われる大学の法学部だ。わたしは、弁護士の家業を継ぐという、もう何年も前から決められていた道を歩かされていた。

「一葉が継ぐんだから、わたしが継がなくてもいいのに……」

心の中で何度そう呟いただろう。姉の一葉は、すでにその大学の法学部に在籍しており、成績は常にトップクラスだという。両親はそれをことあるごとにわたしに聞かせ、「お前も一葉に続いて、立派な弁護士になりなさい」と繰り返した。

勉強机に向かうたびに、胸の奥から湧き上がってくるのは、うんざりするような嫌悪感だった。分厚い法律書を開いても、そこに書かれている文字は、頭に入ってこない。ただの記号にしか見えなかった。

夜遅くまで机に向かっていると、母が温かいミルクを持って部屋に入ってくる。その優しい手つきも、わたしには冷たく感じられた。

「三葉、無理しないでね。でも、やるべきことはしっかりやるのよ」

母の言葉は、一見すると優しさに満ちているように聞こえる。だが、母の目の奥にあるのは、わたしへの期待と、少しでも道を外れることを許さないという強い意志だった。わたしはただ、思ってもいないお礼だけ言って、ミルクを一口飲んだ。熱いはずのミルクが、氷のように冷たく感じられた。

別の日、自室で勉強していると、一葉が突然入ってきた。

「三葉、少し進捗はあったの?」

その声には、いつも通りの嘲笑が混じっている。わたしは何も答えずにいると、一葉はわたしの机の上にあった問題集を手に取った。

「あら、まだこんなところをやってるの?わたしはもうとっくに終わらせてたよ」

そう言って、一葉はわたしの勉強の遅さを笑った。わたしは、一葉の言葉が耳に入るたびに、自分が劣っていることを突きつけられているようで、惨めな気持ちになった。

「どうせ一葉は頭がいいから、早く終わらせられるんでしょ」

そう言うと、一葉は嘲笑をやめ、わたしを憐れむような目で見た。

「そうだね、わたしは頭がいいもの。でも、三葉は違うよね!三葉はね、努力しても報われないタイプ。だから、頑張るだけ無駄だよ」

一葉の言葉は、わたしの心を深く抉った。わたしは、この努力が報われないことなんて、とっくに分かっていた。この道は、わたしが望んだ道じゃない。だから、わたしは心のどこかで、わざと怠けていたのかもしれない。報われる努力なんて、したくない。

しかし、両親の前では、わたしは頑張るふりをしなければならなかった。父が部屋に入ってくる気配がすると、わたしはすぐに問題集を広げ、真剣な顔でペンを動かした。父は満足そうに頷いて、「その調子だ」とだけ言って出ていく。わたしは、演技をしている自分が嫌でたまらなかった。

そんなある日の夜、わたしは一人で公園にいた。勉強に疲れて、息抜きがしたかった。携帯を見ると、同級生たちが楽しそうに遊んでいる写真が何枚も上がっていた。みんな、自分の行きたい大学について楽しそうに語り合っている。

「わたしも、本当は行きたい大学なんて、他にあったのに……」

わたしは美術が好きだった。本当は、美大に行きたかった。絵を描くことは、わたしにとって、唯一の現実逃避だった。誰もわたしを評価しない、わたしの好きなことを、自由にできる時間だった。

だが、そんな夢は、父の一言で簡単に打ち砕かれた。

「美大?そんなもの、うちの家系には必要ない。弁護士は世間的に認められる職業だ。画家なんて、いつ食えなくなるか分からない不安定な仕事だぞ」

父の言葉は、わたしが本当にやりたいことを、すべて否定した。わたしは、自分の夢が、あっという間に壊れていくのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。

公園のベンチに座り、夜空を見上げる。星は、まるでわたしを嘲笑っているかのように、きらきらと輝いていた。この広い空の下、わたしだけが、自分の人生を生きることができない。そんな孤独感が、わたしの心に深くのしかかっていた。

翌日、学校で二葉に会った。二葉は、わたしが疲れているのを見て、心配そうに声をかけてくれた。

「三葉、大丈夫?最近、顔色が悪いよ」

「別に、なんでもないよ」

わたしはそう言って、二葉から顔をそむけた。二葉の優しさは、わたしにとって、ますます毒になっていた。二葉は、両親から愛されて、褒められて、わたしと比べられる存在だ。二葉がわたしに優しくすればするほど、わたしは自分の惨めさを突きつけられるようだった。

わたしは、二葉が嫌いだ。彼女の優しさが、わたしを苦しめている。そんな風に考える自分が、醜くて嫌だった。二葉は何も悪くないのに。

わたしは、まるで鎖につながれた犬のように、勉強を続けた。それは、自分を不幸にするための作業だった。

「どうして、わたしだけこんな目に遭わなきゃいけないの?」

深夜、机に向かいながら、わたしは涙を流した。法律書に落ちた涙の跡が、まるでわたしの心にできたシミのようだった。わたしは、このまま一生、この不幸から抜け出せないのかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。

この家に生まれたことが、わたしの不幸の始まりだった。わたしは、自分の人生を、自分の意思で選ぶことができない。このまま、両親の言いなりになって、弁護士になるのだろうか。そんな未来を想像すると、わたしは息苦しくなった。

わたしは、このまま、この地獄から抜け出すことはできないのだろうか。

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