第三話 虎が雨 七
七
翌日、
外記は頼蔵たちを連れて、小えんの家へ行ってみることにした。
もしも、外記の睨んだとおりに千久馬が益造殺しの下手人だとしたら、捕物となる。外記は頼蔵、甲吉、耳助、与太八に言い聞かせた。
「千久馬はなかなか腕の立つ相手のようだ。だから素直に出頭しないのなら、おれが相手をする。お前達は手を出すな。おれが相手になるから、刀を落せたら取り囲んで捕り縄で捕まえろ。それもできねえようなら、おれが千久馬を斬る」
「へい、わかりやした」
暮坂外記は八丁堀でも五本の指に入るほどの刀術の遣い手だ。むざむざと遅れをとるとは思えないが、真剣勝負となれば、時の運というものもある。頼蔵たちにも緊張が走っていた。
頼蔵は益造の息子の六太郎について新しくわかったことがあると外記に知らせた。
「六太郎はさっそく金を借りた奴らに金貸しを引き継いだと報せに回り、元金を回収しようとしているようです。どうやら親父に似た
「金貸し益造の遺産か。いったいどれくらいあるんだろうな」
「それが……なんでも二千両近い金が蔵で泣いているって噂のようですぜ」
「おいおい、話半分だとしても千両か……金貸し風情が大したもんだ。もっとも、その金には金を借りた奴の涙と血がたっぷりしみついてるだろうぜ」
「そうですね……益造も、恨みのこもった金の怨念で殺されちまったのかもしれねえですねえ」
「怨念相手じゃ、町方も出る幕はねえなあ。坊主か神主の仕事よ。しかし、二千両だか、千両だかもあの蔵にあるというなら、六太郎は一生遊んで暮らせるというのに――いまだにあくせくして、まだ元金を取ろうとするとはなぁ……」
「たしかに、親子そろって金を集めるのが好きな性分としかいいようがありませんや」
頼蔵が呆れたようにいい、みなで小えんの住む家に向った。
門前仲町から橋を渡って横川河岸に入船町がある。
入船町は深川木場の町のひとつで、俗に「下木場」と呼ばれていた。
この辺りは朽木屋甚左衛門ら六名の材木問屋に払い下げられて、町屋が造られた。化政期の家数は五十四軒あったという。
もともと深川は、明暦の大火ののちに木場が置かれて商業開港地となり、材木商人が多くなり、自然とそれに関連して働く男相手の女も集まるようになり、花街も形成されるようになった。
ただ、材木置場の南部にあった冬木屋。・上田屋の材木置場は寛政三(1791)年の高波で大きな被害を受け、それ以降は木置場が無くなり、すっかり
以前、水害で水びたしとなり、周囲には
その広大な明き地のそばにある空き家を、辰巳芸者の小えんが借りていた。元は豪商の妾宅であったようで、
そこへ派手な男物の羽織をつけた女がやってきて中に入った。
男物の羽織を引っかけ、髪は濡れ濡れとしたつぶし島田。なんとも仇っぽい姐さんは辰巳芸者の小えんだ。
小えんは男っぽいしゃべり方で気風がよく、情に厚かった。座敷にあがっても、芸は売っても色は売らない心意気というやつで、辰巳芸者らしい意気と張りを看板にしている。
そんな小えんの暮らす家に、数日前から行方不明のお絹と平林圭介が逗留していた。千久馬が小えんに頼んで非合法の道中手形の工面をたのんでいるのだが、これがなかなか時間と手間がかかるのだ。
江戸時代は「入り鉄砲に出女」といって、江戸から離れる女性を厳しく調べた。これは大名の妻子を江戸藩邸に留め置いて、無断で江戸を去ることを禁じたものである。また子供を産む女が減るのをふせぐ、人口調節のためでもあった。
関所番士は通行手形(通行証文)を改め、通関の許可を与えた。女手形には女性の名前、住所、身分、出立地と目的地、同行者や乗り物について記載されていた。
もっとも、「うそもの」と言われる偽造品の道中手形も存在した。小えんは深川の裏社会に住む偽造文書屋に
「千久馬さま、やっと道中手形の工面が付いたよ」
「でかしたぞ、小えん。恩に着るぜ」
「いやだよ、千久馬の旦那ったら……」
漆畑千久馬は濃い茶羽二重の紋服の着流しという、ちょいと伊達者風のかっこうをしていた。ただその眼は荒んだ無頼浪人らしい、捨て鉢なところがあった。
この男は年ごろになってから素行が悪くなり、なにかと世をすねているという、
顔立ちが整っているほうであるが、腕っぷしもなかなか確かなので、女のほうから寄ってくる。だが、この千久馬という男は
かようなすね者の無頼漢ではあるが、幼なじみの圭介が困っていると聞いて、わざわざ駆けつけ、駆け落ちを焚きつけて、それを手伝うという、義侠心というか、お節介な所があった。
もっとも、幼なじみの婚約者が金貸しの妾になると聞き、その相手が、自らが金を借りている益造だと聞いて、内心で悪心を抱いた。これを利用して益造の家から借金証文を奪い取ろうと考えたのは、外記の推理通りであった。
千久馬にとっては、因業な金貸しの狒々親父を斬ることなど、罪と思うどころか、かえって世の為人の為と思っていた。それはもう無頼者らしい自分勝手さであった。もっとも、それは圭介にもお絹にも小えんにも、誰にも内緒であった。
千久馬は二階に潜伏している圭介とお絹に「うそもの」の道中手形をわたした。
「なにからなにまですまぬ、千久馬……そして小えんさん。あなた達はわたしたちの恩人だ。このことは生涯わすれぬ」
「本当になんとお礼をいっていいのか」
圭介とお絹が頭をさげた。
「なあに、もともとおれが駆け落ちをけしかけたんだ。最後まで面倒をみなきゃ手抜かりってもんだぜ」
「そうですよ。堅苦し武家の暮らしなんか飛び出して、この人みたいに気ままに生きていきゃあ、いいんですよ」
小えんは、散々浮世の荒波にもまれて苦労してきただけあって、圭介とお絹の身にも同情的だった。
「お絹さん、惚れる惚れないは女の勝手、惚れる惚れさせないは男の腕というからね。女はね、男に惚れぬいたら、どこまでも――地獄にだってついて生きたがるもんさ」
「小えんさん……わたくしも圭介さんにどこまでもついていくつもりです」
「その意気さね」
幕臣の御家人の子女である圭介とお絹は勝手に江戸を離れてはいけない決まりであったが、ふたりは家を捨て、駆け落ちをする決心をしていた。
御家人の実家は弟たちに継がせ、平林圭介は旅の学者・森啓堂、お絹はその妻・お
千久馬は江戸を出たら、昌平坂学問所で知り合った諸藩の友人にたのんで、城下町にある私塾などで講義をして生計を得ようと考えていた。
外へ出て、大木戸まで見送りに同行をすることにした千久馬と小えん。
千久馬が雪駄を履くと、鼻緒が切れてしまった。
「しまった……ついてねえや」
「なんだい、縁起が悪いねえ、お友達の旅立ちだってのにさ」
小えんが千久馬をしかりつけ、千久馬は肩をすくめた。
「いやいや、小えんさん。鼻緒が切れたときは、急いでものごとを進めない方がいいという暗示だという話もあります。わたしたちは外で待ってますよ。なあ、お絹。いや、これからはお信乃だったな」
「そうですよ、啓堂先生」
みなが笑いあい、小えんが以前買ってある、男物の雪駄を取りに中に入り、千久馬も探すのを手伝いにいった。
圭介とお絹は菅笠に羽織袴、手甲脚絆に草鞋ばき、柄袋に入れた刀。矢立、提灯、火打道具、櫛、鬢付油、懐中鏡などを振り分け荷物と呼ばれる旅行李にまとめてあった。
すっかり旅支度を終えた圭介とお絹は外で待つことにした。
「啓堂先生……わたしたち、幸せになれますかしら」
「ああ、きっとなるさ。旅はつらいだろうが、堪忍しておくれよ、お信乃」
「あたなと一緒ならどこまでもついて参ります」
その前に、黒い影がさした。剣呑な雰囲気をもった
益造の息子の六太郎と、竜王の丑松親分、蝮の銀平、矢切の武吉、三下の又八など子分を引き連れた丑松一家だ。
「やっと捜しだしたよ。こんなところに隠れていたとはね」
にきび面の若い男が憎々しげにいいはなった。
「お前は!?」
「おいらは六太郎といってね、殺された益造の伜(せがれ)さ。親父に勘当された身だったが、親父の葬儀をしなくちゃいけないんでね、明神下に戻ってきたのさ。もちろん、親父の残した借金証文も受け継いだしね」
「なんだって!?」
「そう、驚くことじゃない。もっとも、利子は高利だったので、元金だけしか回収できないがね。それでもそっちのお絹さんは元金の代わりとしてもらい受けたい」
「お絹を!!」
「そうだ。それともなにかい、半井嘉門がした借金の元金百五十両をいますぐ返してもらえるのかい?」
「うっ……今は手元にない。だが、いずれ稼いで返してみせるから、待っていてくれ」
「そうはいかないよ。その女は中々の上玉だ。親父が妾に欲しがったのもわかるぜ。吉原に売れば千両で売れるかもしれねえ。ひひひひ……」
六太郎が卑しく嘲笑い。丑松一家もつられたように下卑た笑いをうかべる。
「そんな事はさせない!!」
「おっと、それはこちらのセリフさ。さあ、丑松親分、こいつらを捕えておくれ」
「へいへい……そりゃあ、もう」
丑松が子分達に目くばせした。荒くれ者の子分たちが圭介を包囲した。圭介は刀を抜こうと思ったが、旅支度で柄袋に入れていたのが不運であった。矢切の武吉が圭介を蹴飛ばし、転んだ隙に新八ら三下がお絹を捕えた。
「圭介さん!!」
「くっ……お絹を離せ!!」
立ち上がろうとする圭介を三下たちが取り押さえる。やくざ者が八人もいては抵抗は無駄であった。
「おっと、おめえさんは大人しくしてもらおうか」
憎々しげに竜王の丑松が圭介を見下ろす。
「貴様ら!!」
玄関から怒りの表情の千久馬が飛び出て来た。鞘を走らせ、子分どもに斬りつけていく。肩や二の腕、肘を斬りつけられ、子分どもが悲鳴をあげて倒れた。
「くそっ、なんて野郎だ。栃尾先生、頼みますぜ」
竜王の丑松があわてて背後に控える用心棒をよぶ。
「おう……ようやく俺の出番か」
深編笠をかぶった浪人が深編笠をあげて顔を見せる。顎がふとく、日に焼けた頬、凶獣のように残忍な眼差し、左眼の下に
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