第三話 虎が雨 六

     六


 暮坂外記はいちど町奉行所に戻って報告した。そして、日本橋から江戸橋を渡り、小網町へ向かった。

 途中で小雨が降り出した。外記は妻にもたされた傘をひらいた。

「虎が雨か……やっぱり今日は大なり小なり振りやがるんだな」

 江戸時代、江戸の町は縦横に河川や運河がめぐらされた水運都市でもあった。日本橋川には一キロメートルに渡って橋がなく、『鎧の渡し』と呼ばれる渡し船が往来していた。

 幅二十メートルほどの堀川であるが、酒樽などを満載した荷足船にたりぶねや塩を運ぶ行徳船ぎょうとくせんなどの大船が停泊し、岸辺に荷揚げ用の桟橋が並んでいたため、橋が架けづらかったといわれている。

 小網町二丁目から三丁目側の岸には俗に『小網町河岸三十六蔵』とよばれる白壁の土蔵群が並び、歌川広重の江戸名所百景の『鎧の渡し小網町』にも描かれている。

 昼間は荷揚げ人足や商人などで活況となる地だが、今は閑散としていた。土蔵の外れにある界隈には船宿が軒を連ねていた。

 外記は小網町一丁目の川沿いにある船宿『五十鈴屋いすずや』に入った。

 船宿は、宿と称しているが旅籠ではなく、屋形船などを貸し出すのを生業なりわいとしており、二階に休息所などを設けて、社交場として人気があった。

 弥陀の頼蔵は、女房のお須磨すまに五十鈴屋の女将をやらせている。頼蔵よりひとつ下の、渋皮のむけた伝法肌の女房であった。

「これは暮坂様……ささ、こちらへどうぞ。濡れましたでしょ、おしぼりでございます」

「おう、わるいな」

「亭主はいま裏におりまして。おのぶ、頼蔵を呼んでおいで」

「あい、わかりました」

 女中のおのぶが奥にむかった。

「おお、世話をかけるぜ」

 女将のお須磨てずから案内して二階の笹の間に案内した。酒とお通しをつついていると、障子を開けて頼蔵が入ってきた。

「旦那、お待たせいたいしやした。ちょいと酒樽を運んでいたもんで」

「船宿の主も忙しいな。昔のお前に今のお前を見せたらなんというかね」

 頼蔵は若い頃に呑む打つ買うの道楽にはまり、いっぱしの遊び人であったのだ。

「からかわないでくださいよ。それより、丑松のことで色々わかりやした」

「そうか、訊こう」

 頼蔵はその日調べてわかったことを外記に報告した。竜王の丑松は湯島一帯の寺社で香具師をまとめているが、裏で賭博を開いてテラ銭を稼いでいた。

 代貸だいがしまむしの銀平が実際に賭場を取り仕切っていた。中盆なかぼんが矢切の武吉ぶきちといい、丁半博奕で賽子を振って、出目を決める壺振りだ。仁栄寺につなぎをとった新八は出方でかたで、親分の使い走りや、賭場の世話や見張り役などを三下に指示していた。

「益造の依頼で借金の取り立てもしいていたようです。それが容赦のない取り立てでして、借金を返せねえと、大八車で家財を持っていき、妻子を売り飛ばすっていうやりかたでして……」

「阿漕(あこぎ)な野郎だ。それに、竜王の丑松は自分で金貸しをやっちゃいねえ。三下に金貸し益造を紹介することをやらせていたが、これはいざとなれば斬り捨てられる。うまく考えたもんだぜ」

「あの丑松って奴は一筋縄じゃいかねえ奴に見えました。益造殺しに何か噛んでいるんじゃねえですかね」

「頼蔵の睨みどおり、丑松もなにか怪しいな……それに、栃尾って浪人もな」

「栃尾はどうやら、賭場の用心棒らしいとわかりました。どうも他の土地で悪さをした挙句、江戸へ逃げて来て、丑松の口利きで寺に匿ってもらっているんじゃねえかという噂もあります」

「ひと癖ありそうな浪人だな」

「もしかすると益造と丑松一家との間で金のことでいざこざがあって、丑松が用心棒の栃尾に益造を殺させたのかもしれませんぜ」

「その可能性もあるな。賭場は仁栄寺か……」

「寺の中じゃ手を出せねえですね……」

「まあな――寺社奉行の許可がいる。いよいよとなったら御奉行に頼むさ」

「栃尾は賭場の用心棒をやるくらいですから、相当の使い手のようですぜ」

「ああ、益造を殺したのは背中の刀痕かたなきずから見て武芸の心得がある奴だ。侍か、喧嘩なれしたやくざ者の人斬りの仕業なのは間違いねえ。今のところ怪しい奴は栃尾又之進、それに丑松一家のやくざ者という線もある。益造の殺された夜にそいつらがどこにいたかが決め手になりそうだ」

「丑松と栃尾の所在は知れております。もっと丑松や栃尾のことを洗ってみます」

「頼んだぜ、頼蔵……そうそう、殺された益造の伜だという男が町奉行所に名乗り出てきた」

「どんな奴です?」

六太郎ろくたろうといって、二十六、七のすかした男よ。益造の営む質両替屋の跡取りだったが、若い頃、遊びがすぎて勘当された。と、いっても離縁の届け出はされてねえ。家を追い出され、品川の質屋で手代をしていたが、益造殺しを聞いて店者をやめて、こちらに来た。父親の葬儀を執り行い、財産を受け継いだ」

「すると、貸し付け金や借金証文も引き継いだというわけですか」

「そうなるな。高利は罪だが、差し引いても元金くらいは返さないといけねえ」

「カラス金で借りるよう仕向けたのは悪いことですが、元金はしかたがありませんか。まあ、博奕遊びしていた奴等も、高利が無くなっただけでもよしとして、これに懲りて、博奕をしねえでくれるといいんですがね」

「ああ……まあ、お上も多少の博奕は庶民の楽しみにと、目こぼししてやってもいいが、今回のように金貸しや博徒どもがからむと、殺しまで出てきてしまう」

 そこへ遅れて与太八がやってきた。

「与太八、おめえの方はどうだった」

「それが、暮坂さま、掛け取り帳に載っていた三人の浪人を調べました。ですが、どいつもこいつも刀を質屋に預けた竹光侍でして外へ飲みに行く金もなく、昨晩も内職に明け暮れておりやした。それに、とても人を一人殺して、平然と提灯貼りなんかをやっているとは思えませんや」

「そっちの線は白か……」

 外記はみながそろったところで、半井家と、千久馬の長屋を調べたことを聞かせた。

「それじゃあ、その千久馬って奴が怪しいと?」

「俺の勘だがな……だが、千久馬が益造を殺す動機が見えねえ」


 そこへ耳助がやってきた。

「で、漆畑千久馬の子細はわかったか」

「へい。日が暮れても長屋には帰ってません。それに、千久馬って奴はとんだ女たらしですねえ……茶屋のお妙。踊りの師匠の菊弥。中でも芸者の小えんって女が千久馬にお熱のようです。入船町いりふねちょうの木置場の近くに家を借りて住んでいましたが、数日前から若い男女の客人が泊まっているようです。もしかしたら、圭介とお絹じゃあねえですかい?」

「そのようだな……いや、女手形を工面するのに手間がかかるのかもしれんな。小えんについて他に調べたことはあるか?」

「へい。小えんは、少々気が強いが、さっぱりしたいい女と評判でした」

「そんな意気な姐さんが千久馬には岡惚おかぼれか」

 頼蔵があきれたようにいう。

「へい、なんでも深川の花街で小えんにからんだ与太者たちを、まだ御家人で花街に遊びに来ていた千久馬が助けたのが縁で、小えんが千久馬にぞっこんになったそうです」

「ほう、与太者から助けたか。すると、武芸の方はできるほうだな。千久馬のほうはどんな奴だった」

「若い頃は真面目だったそうですが、年頃になると、悪い仲間と付き合うようになり、茶屋遊びはする、博奕はするはの、放蕩三昧。不行跡のため漆畑家から勘当されてしまいました。御家人崩れという奴で、いまは浪人です。家をわれてから、世をすねて、無頼の徒を気取っているようです。色女がつねに何人かいて、小遣いには困らないそうですよ」

「かあ……女に働かせて金を貢がせるなんて、とんだヒモ野郎ですね、その浪人」

 与太八があきれたように天上をあおぐ。

「まったく、女ってのはどうして、そんな荒んだ男に惚れてしまうんだろうね」

 耳助も嫌そうに嘆く。

くない、与太八、耳助。ま、おれもそんな女にぞろっぺいな男は好かねえがな。男なら一人の女に真剣になれってんだ」

「さすが、頼蔵親分」

「しかしそんな無頼の男と、儒者をめざす真面目な御家人がいまだに友人だなんて信じられませんねえ、暮坂の旦那」

「まあ、人間の気が合う、合わないは他人からはわからないからな。あんがい、千久馬ってのは、無頼のようで義侠心や友情があるのかもしれねえ」

「そんなものですかねえ」

「わかっているのは、どうやら圭介と千久馬がお絹を連れだしたのは確かだということだ。圭介が千久馬を頼ってお絹を金貸し親父から救い出す手伝いを頼んだ。いや、もしかしたら千久馬が事情を訊いて、圭介に駆け落ちをけしかけたのかもしれねえが、この際どちらでもいい」

「しかし、お絹の失踪事件と益造殺しは関係ありますかねえ……」

 頼蔵だけでなく、下っ引きたちも同じ思いだ。暮坂は彼らをながめながら、

「この事件。金貸しの益造が何者かに刀で殺された。下手人は武芸か人斬りの腕を持っている奴なのは確かだ」

「ええ。あっしは丑松一家のやくざ者か、用心棒の栃尾が怪しいと思いますが……」

「ひょっとすると、別の思惑をもった奴が絵図を描いているのかもしれねえ」

「えっ!?」

「たとえばだ……その絵図を描いた奴が千久馬だとすればどうなる」

「でも、千久馬は圭介の友達で、許婚者の駆け落ちまで手伝っているとか……」

「友情に厚い男だな。だが、その裏で益造殺しを狙っていかかもしれねえ。耳助、千久馬は博奕に手を出していたか、わかったか?」

「へい、千久馬って野郎は、仁栄寺の賭場で遊んでいたそうですが、カラス金に手を出してしまい、借金がかさんだようですぜ」

「仁栄寺だって!?」

 頼蔵が眼をむいて叫んだ。

「やはり、千久馬は丑松一家と益造とも関係があったか」

 外記の眼が光った。これで千久馬にも益造殺しの動機はできた。

 与太八が掛け取り帳をめくり、

「おかしいなぁ……この帳面には漆畑千久間って奴のことは載っていませんぜ。借金を返した奴は朱引きでバツがつけられていますが、それにもねえ」

「どれ、おれにも貸してみろ」

 頼蔵が掛け取り帳の名前と住所を調べていたが、

「あ、この帳面の間に紙を切り取った跡がありやすぜ」

 外記に帳面を渡すと、たしかに帳面の綴じた間に剃刀か鋏で切り取ったあとがあった。

「するとこの切り取られた部分の紙に、漆畑千久馬の名前と住所が書かれていたか」

「誰がこんな真似を……」

「こんな事ができるのは、殺された益造か、下手人だけだ」

「するってえと……まさか」

 頼蔵たちが眼を見開いて外記を見つめた。

「ああ、益造を殺した下手人が千久馬だとすると平仄ひょうそくがあうな。博奕の借金の返済に困って、益造の家に押し込み、借金証文と掛け取り帳の紙を火鉢で焼いて処分した……だが、今のところ証拠はねえ」

「でも、千久馬って奴も限りなく怪しいですねえ……」

「だが、この男も益造から借金していて困っていた。それでたまたま、ちょうど益造の家に女中奉公に入れられたお絹の話を友人から聞いた。駆け落ちを手伝うついでに、お絹から益造の家の間取りを聞いて、後日、益造の家に忍び込み、証文を始末に入ったとしたらどうだ」

「ひえっ!! すると、千久馬が益造殺しの下手人で!?」

「まだ調べてみねえとなんともいえねえ。だが、千久馬は心形刀流の達人だという。益造を一太刀で斬り殺せる腕はある」

「なるほど……さすが暮坂さまだ」

 明日、小えんの家に行って、千久馬に問い質し、場合によっては捕まえることを決め、頼蔵は役宅へ戻って行った。

「虎が雨はあがっていたか……」


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